変わりゆくインドだが 2008.11.10

 今日は一日寝てました。週末のセミナー、そして来月の新たなイベントに向けてなどいろいろすることあるんですが、今日だけはちょっとお休みさせてください、、、ということで、思いっきり寝ていました。そして目が覚めると、、、なんかセンチになってしまうのです。インドを思い出して。

 インドは今回で4回目なんですが、初めて訪れた20歳の時は、「こんな国、二度と来るか~!」と思っていたのに、その3年後に再び訪れ、さらにその約10年後にはまた訪れ、そして今回。今回、インドに行ってみていろいろとわかったことがあります。一つはインドも変わっているのだ、ということ。もちろん変わらない部分も多く、それがまた素晴らしい要素でもあるのですが、初めて行った1994年と二回目の1997年を比べても変わったように、この10年を見ると、明かにいい意味で変わったと感じました。

 初めて行った1994年はインドと言えば、ちょっと変わった人が行くか、またはお金を持ったツアー客くらいに限られていたのが、1997年時は猫も杓子もインド、インドでした。なぜ1997年か。それはその前年、1996年に「猿岩石」がブレークしたことが理由です。実際、1997年の3月は大学生の春休みで、何とバラナシはほとんどの安宿が満室となり、あぶれた日本人大学生は駅で身を寄せ合って野宿していたそうです。その頃、沢木耕太郎原作、大沢たかお主演の「深夜特急」が放映されたこともあり、何度か目のバックパッカーブームを巻き起こしたのです。私は「猿岩石」も「深夜特急」も見てなかったのですが、1997年はちょうどバックパッカーで世界一周をしており、インドに入ったのが12月だったと思います。それこそバラナシにはハガキ売りの子供がわんさとおり、しかもそのほとんどが流暢な日本語をしゃべっていたのです。そしてそれに呼応するかのように、日本人旅行者も目につきました。さらに1994年との違いと言えば、日本人向けの安レストランが増えており、ちょっと怪しいオムライスやラーメンを食べることができました。94年と言えば、それこそ飯がまず過ぎて毎日バナナとチャイだけでした。チャーハンを食べてもマサラ味。3年間で随分と旅行がしやすくなったものだな~と思ったもの。

 そしてその約10年後の2005年5月に3度目のインドに行ったのですが、その時は、初日に暴漢にあったり、所持金をほとんど取られたりと苦しい思い出ばかりだったのですが、それでもいろんなことが随分と変わったように思いました。一番はやっぱりインターネットの普及です。これのおかげで本当に旅がしやすくなったものだと思いましたが、それと反比例するかのように、旅行者、特に日本人旅行者の姿が減ったように感じ、そしてそれに呼応するかのように、しつこいもの売りの姿も消えていました。

 そして今回。ミネハハスクールのディップさんなどから詳しく話が聞けたこともあるのですが、正直、インドやインド人に対する考え方がガラリと変わりました。私を含む多くのバックパッカーからすると、インドはウザいという一面的なとらえ方、偏見を持って接していたのが、当たり前の話ではありますが、そんなのは本当に一面でしかないんですね。もっと言うと、バックパッカーなどは所詮、その程度のインド人としか接してないだけであり、程度の差こそあれ、これは日本でもどこでも同じこと。いい奴もいれば悪い奴もいる。それだけのこと。

 今回の旅はツアーを組んだこともあり、インド人と交渉することなどはあまりなく(多少はありましたが)、それこそいろんなレベルの人を見ることができました。最終日にはデリーで最高級のホテルのレストランで食事したのですが、サービスやそこに来ている他のインド人など、明かに私の知らない世界でした。それでもまだ一方ではコジキやホームレスも存在し、貧困問題はまだまだ日本とは比べ物にならないほど深刻なんだと思いました。ただし、喜ばしくは、それらの問題は確実に改善されつつあるということ。

 今日、久々に小田実の「何でも見てやろう」のインドのところを読み返してみたのですが、やっぱり当時(1960年前後)から比べると、明かにマシになっています。ヒンズー教徒の多くは、最後はガンジス川で焼かれて流されることを目指し、死期が近づくとこぞってガンジス川のあるバラナシを向かうものとされます。しかし、「何でも見てやろう」の記述によると、バラナシに着いたはいいものの、なかなか思うように死なないうちに所持金を尽いてしまい、挙句の果てにホームレスになって物乞いをする、なんて人がガンジス川のガートにはうようよしていたとのこと。そしてそこには、赤痢、肝炎、マラリア、コレラ、らい病など、ありとあらゆる病気が存在しており、まさしく生と死の境となる街であったそうです。しかし今は病気で物乞いして行き倒れている人の姿などほとんど見かけません。マッサージ屋の押し売りが多少目に着いた程度で、ある意味、貧困の深刻さを感じさせることはありませんでした。また、1960年代のインドは一握りの富裕層と大多数の貧困層という、極端な階層化が常態であり、いわゆる中産階級の記述はほとんど見られなかったものの、今となっては、我々の接するインド人のほとんどが中産階級であったとさえ考えられます。今ではタクシーやリクシャーの運転手でも携帯電話を持っているほど。明らかにインド社会、インド経済もボトムアップされていると言えます。

 しかしそれでもまだまだ貧困問題は解決されていません。それこそ救いようのないどうしようもない貧困層もまだまだあります。そもそも、なぜ世界でいまだに戦争やテロが起こるのか。その一番深い部分、根底にある部分は極論を承知で言うと、やはり「貧困」が原因であると思います。一昔前、ハンチントンという政治学者の「文明の衝突」なんて本が流行りましたが、何の理由もなく文化や文明、宗教が戦争しあうなんて、あまりスムーズには考えられません。もしそうであるならば、世界はとっくに滅びているはずです。単純に根本となる「貧困」の問題をイデオロギーや文化の問題にすり替えているだけであり、「貧困」が貧困問題としてある以上、真の意味での世界平和はまだまだ遠いものと思われます。

 ではどうすれば貧困問題を解決できるのか。その糸口が他ならぬ「教育」だと考えられます。私は今、貧困について問題意識を持って考えることができます。なぜなら私には教育があったし、多くの日本人も同様でしょう。しかし本当に貧困に苦しんでいる人たちにとって、貧困は「問題」ではなく、単なる「日常」なんです。そして例え苦しくとも、そこから脱却する術を知らない。なぜなら「教育」がないからです。

 アマルティア・センというノーベル経済学賞を受賞したインドの識者は、世界の貧困の原因はすべて「政治的な貧困」であると言っています。つまり貧困の原因は生産性や市場競争の問題にあるのではなく、歪んだ政治によって資源の不適切な配分がなされていることにあるとします。こう言うと、単なる社会主義者のように誤解されるかもしれませんが、センの見解の素晴らしさは個々人の「潜在能力」に着目したところにあります。誰がもよりよく生きるための「潜在能力」を持っており、そしてその能力を高めるものが「教育」なのです。

 今、インドは明らかに変わってきています。それは表面しか見ることのできない一旅行者にも感じられることです。現に一人当たりGDPもここ数年は年々上昇していますし、それを支えるIT産業の力も注目されています。しかしそれでもなお、「貧困」は抽象的なカッコつきの「貧困」ではなく、リアルな貧困としてまだまだ残っています。かつての日本がそうであったように、やはり「教育」こそが本当の意味での経済発展、そして豊かさを実現しうるものだと思っています。その意味で、ブッダガヤのミネハハスクールで出会った多くの子どもたち。今はまだ、自分や家族が「食べる」ことで精いっぱいかもしれませんが、ミネハハさんや設立者のダルさん、ディップさんの願いは「人のことを考えられる人間になる」ことにあります。将来的にはその子どもたちが、一人でも多く、人のためを願える大人に育って欲しい、それがひいては本当に意味での世界平和につながるものだと考えています。

 そしてそのために「私」は何ができるのか。たくさんありますが、私にできることを一つ一つ実践していきたいと考える今日この頃です。

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by katamich | 2008-11-10 23:59 | ■インド | Comments(0)