悟り 2008.10.27

 2008年10月27日で私の35歳8か月を迎えます。お釈迦様が悟った年月。そして偶然にも結婚一周年。去年の今日は結婚式でした。一年経つのは早いものです。今日は何の変ったこともない朝でした。ツレを駅まで送ってから、私は10時半の飛行機に乗ります。12時に羽田について、さっそく「プレイボーイ」の「キン肉マン二世」を立ち読みします。すると案の定、マンモスマンがウォーズマンを裏切って、おまけにウォーズマンは肩から煙を出してショートしています。いつも見ているキン肉マンの感想サイトをのぞくため、グーグルで「マンモスマン」で検索すると、なんと絞り込み検索に「ウメー」、「ウメーウメー」、「裏切。り」などが入っているではないですか。先週までは出てなかったはず。やっぱり思うところは同じなんですね。キン肉マン世代として、試合の成り行きをハラハラドキドキして見守るのであります。これで大方の予想通り、ネプチューンマンとマンモスマンが新タッグを組んで準決勝に行くのでしょう。そして案の定、ウォーズマンはやられ役で潔く散ってしまうのであります。

 空港を出ると、そのまま出版社に直行。間もなく打合せです。編集者の方と鳥居祐一さんと3人で。今日は戦略も含めてですが、本の内容についても細かく議論しました。お二人からの矢のような質問により、私の脳はフル回転。まるでコーチングを受けているようで、独りよがりで書いた部分がどんどんとスッキリしてきます。そして肝に銘じておくよう言われたのが、「10万部を想定して書くように」、とのこと。一冊の本を10万冊売るのは、並大抵のことではありません。ですが、私は売れると思っています。編集者の方も鳥居さんももちろんそのつもり。

 夜は飲み会。6時から飲み始めて、最終的に10名が集まり、11時過ぎにはお開きに。新宿の結構味のある居酒屋で、そんなに広くはない個室に10名が集まって、なんだかそれぞれ密な会話をしていたようです。そして盛り上がりました。今日はやっぱり特別な日だったのでしょうか。私は私で今、悟っていることなど。「悟り」と言うと大げさですが、今年になって、特にこの1か月で本当にいろんな気づきがあったと思っています。

 飲み会終了後、私一人でホテルに帰るのですが、それからもしばらく眠れず、いろんなことを考えていました。結局どうすればいいのか、人はどうすれば幸せになれるのか。そればかりずっと考えていたように思います。しかし、実はもう答えは出ていたのです。幸せな人生とは、突き詰めると結局は「やりたいこと」がやれる人生のことを言うのだと思います。これはもう、何度も言っていると思いますが。ですが、問題はどうすれば「やりたいこと」ができる人生を送ることができるのか、ということ。昼間の出版社との打ち合わせ、そして夜の飲み会。それらを通して、どうやら私の「潜在意識」が答えを検索していたようで、なんとなく私の中でまとまったように思います。

 まず、「幸せな人生」のための大前提として、受け入れてほしいことがあります。それは、、、

1.人は皆、固有の「使命」を持って生まれてきている

ということです。「使命」とは役割やミッションのこと。誰も生まれながらに持っている、魂に刻印されている価値や存在意義を誰もが有しているということです。なぜなのか。突き詰めると、それは「宇宙」にまで行きつきます。「宇宙」がもしも「完全」であるとすれば、この世に「不完全」なものは存在しないことになります。言い方を変えると「無駄」なものは存在しないことになります。とすると、「私」という存在も何がしかの価値を持って存在しているのであり、その価値を表現するのが、それぞれの「使命」であると考えることができます。

「人は無限の可能性をもっていない」

と私は思っています。もしも無限の可能性があるならば、私はおそらくジャズミュージシャンになっているでしょう。しかしどんなに努力しても私はミュージシャンにはなれません。逆に、世の中にはさほど努力もしていないのに、一つのことを極めて卓越した水準でこなす人もいます。この違いは何なのか。才能の問題だと言えばその通りなのですが、では、なぜ人は生まれながらに異なった才能を持っているのでしょうか。不公平と言えば不公平です。例えば容姿だって違います。美人やハンサムもいれば、そうでない人もいます。どうしてでしょうか。神や宇宙のキマグレでしょうか。私はそうは思いません。容姿や才能、性質などは生まれつきのものであり、その後は容易には変えることはできません。もちろん努力によってある程度高めることはできるでしょうが、もしも同じ努力をしたとして、生まれつき才能のある人間には絶対に叶いっこありません。これは言い切れます。
 
 実は私は今、あれほど好きだった楽器をまったく触っていません。一時期は楽器に触れないことがストレスになることもありましたが、今では何の支障もないのです。不思議なくらいに。それこそ、一時期は「下手の横好き」で一生懸命に練習していた時期もあります。その結果、気づいたことの一つが、私は音楽は向いていない、ということでした。例えばこれまでの人生で楽器の練習をしている時間と、人前でスピーチ及びその練習をしている時間とを比べると、これははるかに楽器の練習の方が長いでしょう。しかし今、実際に経済活動に役立っているのは、音楽ではなく、人前で話をすることなのです。私が人前で楽器の演奏をするよりも、何かしゃべっている方が耳を傾けてくれます。そしてもちろん世の中には逆もいます。全然しゃべれないけど、楽器の演奏はめちゃくちゃ上手な人とか。

 この違いは何なのか。それは向いてる向いてないという軽々しい言い方を超えたところの、人それぞれの「使命」に結びついていると考えた方が、しっくりくるのです。世の中には「自分には使命がない」と思っている人もいるかもしれません。そして自分は価値のない人間だと悲観している人もいるかもしれません。しかしもし「宇宙」が完全であるとすれば、この世に無価値な存在は何一つないのです。そしてその価値を体現するのが、その人の「使命」なのです。

 そして次の命題。もしもそれぞれの人に固有の「使命」があるのだとすれば、

2.人は「使命」に従って生きている限り、必ず「宇宙」からのサポートを得られる

のです。私はどんなに楽器の練習をしても、「宇宙」からのサポートを得られていません。そしてこれはもっと後の方で言おうと思っていたのですが、今やっている「営業」についても、これは直接は私の「使命」とは結びついていないことがわかりました。それを「使命」としている営業マンであれば、必ず何らかのサポートがあるわけです。例えば初日から大きな物件に当たったりとか、そうでなくともある種の奇跡的なことがあったりとか。しかし私の場合、とにかくとことん地道だったのです。同じ労力であっても、そのリターンがはるかに地味なのです。そしてある信頼している人から言われたのが、「今はいいけど、あまり営業に熱を上げない方がいい」、と。なぜなら結局のところ、営業は私でなくてもできるものであるに、その一方で私でないとできないことがあるから、と。それを最初に明確な言葉で言われたのが鳥居祐一さんでした。

 そしてこの一年ほど、私はセミナーや講演会、コーチング、本の執筆などをやっていますが、これはブログでも書いてきたとおり、実に「奇跡」の連続でした。いろんな人との出会い、偶然とは思えない出来事など、本当に「宇宙」からのサポートを得ているとしか思えないような。加賀田晃氏との出会いなど、本当に奇跡としか思えないです。加賀田氏を通して「営業」を実践することになりましたが、これも最初から期間限定であったし、「営業」そのものと言うより、加賀田氏からはもっと重要なことを学びました。

 ここでわかったのが、その人の「使命」に結びついたことをやっている限り、どうあってもうまく行くものなのだ、と。もちろんピンチを経験することもありますが、必ず何らかのサポートが得られて、それまで以上に飛躍するのです。ピンチの後の飛躍。これが私のこの3年間、そのものであったと言えます。

 人には固有の「使命」があり、それに従って生きている限り、必ず「宇宙」からのサポートが得られるものだ。これがもし真実であるとすれば、では、どうすれば「使命」を見つけることができるのか。これが重要です。そしてその答えが昨日の記事であったりします。本来、人は生まれながらに「使命」を持っており、それを全うする準備ができているものです。しかし問題はここから。

 成長のプロセスで、その「使命」すなわち「本来の自分」が覆い隠されていくのです。その現況が「恐怖心」と「劣等感」です。「劣等感」については昨日書きました。斎藤一人さんの「地球を天国にする話」です。つまり、

3.「本来の自分(使命)」を覆い隠すプログラミングがなされている

のです。例えばある子どもは音楽の才能がずば抜けていたとします。おもちゃのピアノを触っては作曲したりしてます。そこでそのまま才能を伸ばすようにすればいいのですが、平凡な親がある年齢から無理やり塾に行かせたりします。また、どんなにいい曲を作曲したとしても、テストの点数が悪ければ機嫌が悪くなる親だったとします。そこで子どもは「劣等感」を植え付けられます。「ピアノなんか弾いてる暇あったら勉強しなさい」なんて言われた日には、完全に劣等感が植え付けられてしまいます。そのうち、ピアノを弾くことに罪悪感を感じるようになり、挙句の果て辞めてしまいます。時々、普通のサラリーマンが突発的にミュージシャンになったりするのは、この口だと言えます。その人たちは幸いですが、中途半端に出世しちゃったりすると、ピアノも弾けずに仕事で身体を壊してしまい、「本来の自分」からかけ離れた生き方になるのです。 

 学校教育が「悪い」と言ってる訳ではありませんが、システム化された教育制度ってのは、大なり小なり、「本来の自分」を覆い隠す仕掛けがなされています。そのシステムとは古い言葉かもしれませんが「一億総中流」を背景とした量産型サラリーマンの育成システムなんですね。もちろんサラリーマンを否定しているわけではありません。「本来の自分」がサラリーマンである人もいるわけですから。と言うか、むしろ多いと思います。しかし、そうでない何割かの人は「いい点」を取るための「学校」に違和感を感じているのも事実。そこから飛び出すほどの元気があればいいのですが、場合によっては「劣等感」を植え付けられてお終いの人もいます。

 昔、私の同級生でちょっとした「からかい」を受け続けて、それが元で学校を辞めた奴がいました。なぜ「からかい」を受けたのかと言うと、私の推測ですが、結局、その彼は「何もできない奴」だったからです。正確に言うと、「勉強」と「運動」ができなかった奴だったから、それが知らず知らずに「劣等感」となり、そこに心ない同級生が付け込んだ姿となったのです。

 斎藤一人さんも言ってますが、もともと「劣等感」を持っている人間は、それを晴らすためにもっと「劣等感」を持っている人間を攻撃し始めます。学校教育ってのは、もちろんいい側面もたくさんあるのでしょうが、別の側面では自ずと「劣等生」を生み出すことが必然となっていることは否定できません。ではその「劣等生」は社会に出たらブレイクできるのかと言うと、学校で植え付けられた「劣等感」が大きければ大きいほど、社会にも適合しなくなります。先に言った私の同級生も、聞くところによると、いまだに引きこもっているような状態にあるようです。

 今のはもちろん極端な例ではありますが、人は多かれ少なかれ「劣等感」を植え付けられて育っています。それと同時に「恐怖心」も知らずと植え付けられています。簡単な例を出すと「高所恐怖症」なんては、社会生活においてまったく役に立たない「恐怖心」です。それ以外にも、針で痛い思いをすれば「先端恐怖症」になりますし、女の子からいじめられたら「女性恐怖症」になりますし、こんにゃくに砂が混じっていれば「こんにゃく恐怖症」になってしまいます。それ以外にも例をあげるとキリがありませんが、誰もが何らかの「恐怖症」を持って育っています。高所恐怖症や先端恐怖症などは、なくてもいいですが、別にあったところで、社会的な評価に影響するわけではないでしょうが、よくあるのが「対人恐怖症」など。これは正直、あっては困ります。社会生活をしていると、必ず「対人」が付きまとって来るからです。そもそも「恐怖症」ってのは、その人を「守る」ために植え付けられたものなんですが、「恐怖症」になった時点では、時代遅れで役に立たないことの方が多いです。

 そして、それらは今の自分の一部ではあるかもしれませんが、「本来の自分」では決してありません。言ってしまえば、成長過程で偶然できたプログラムなんです。しかし、人はそれらの「劣等感」や「恐怖心」を含んだところで自分の人格だと錯覚してしまい、「本来の自分」に気づけないことが非常に多いわけです。「劣等感」や「恐怖心」は確かに一時期は自分を守るためにできたものかもしれませんが、比ゆ的に言えば、洗濯してないボロキレ同然のの「よだれかけ」と同じです。赤ちゃんの頃はよだれで汚くなるのを防いでいたかもしれませんが、大人になった今、そんなの必要ないはずです。それでも後生大事に手放せないでいるのが、この「劣等感」と「恐怖心」ってやつなのです。おわかりでしょうか。はたしてあなたは「よだれかけ」を後生大事にぶら下げた姿が「本来の自分」なのでしょうか。決してそんなことはないでしょう。しかもその「よだれかけ」は自分で選んだのではなく、成長の過程で大人や周囲の人から無理やり押し付けられたものであることが多いです。

 自分の「使命」を見つけて、「宇宙からのサポート」を得ながら、自分らしい人生を送りたいのであれば、まずはその「よだれかけ」を手放す必要があります。人によっては幾重も幾重も汚い「よだれかけ」を身につけていることがあります。そんな人を「宇宙」はサポートしたいと思わないでしょうし、私だってゴメンです。「劣等感」や「恐怖心」といった「よだれかけ」を一刻も早く手放すべき。ではどうすれば手放せるのか。実は簡単。「今までありがとう」と言って感謝すればいいだけ。

 今、巷で流行っているホ・オポノポノってのがありますが、それはまさしく「よだれかけ」を手放すのに非常に役立つ手法だと言えます。もちろん斎藤一人さんの「天国言葉」でもいいのですが、ホ・オポノポノで言う「愛してる(I love you)」、「ごめんなさい(I’m sorry)」、「許してください(Please forgive me)」、「ありがとう(Thank you)」を唱えることによっても「よだれかけ」は手放せます。何度も言いますが、「劣等感」と「恐怖心」はもともと自分を守るためにあったものです。無理やり引きはがそうとしても、逆に抵抗されます。そこでその「劣等感」や「恐怖心」を、例えば大切にしていた大好きなプーさんが描かれた「よだれかけ」に見立てて、「今までありがとう、でも、もう大丈夫、これからはプーさんなしでも平気だから」という気持ちで「愛してる」「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」と唱えるのです。昨日紹介した一人さんのCDでも「劣等感」をなくすためには「天国言葉(ツイテル・嬉しい・楽しい・幸せ・ありがとう 感謝してます・許します)を唱えることだ、と言っていますが、結局それもホ・オポノポノも言ってることは同じなんですね。もちろん五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉(感謝します、ありがとう、ツイてる)」でもいいです。
 
 「劣等感」と「恐怖心」、、、今もし30歳ならば、30年かかって堆積されたプログラミングです。しかし、それが本来の自分ではなく、あくまで自分を守るために一時的に植え付けられた自分のほんの(過去の)一部だということを知らなければ、いつまでもたっても「本来の自分」に出会うことはありません。プログラミングを変える、「劣等感」と「恐怖心」を除去する方法はいろいろあるんですが、やっぱり一番簡単で確実なのは「言霊」の力を利用すること。それが「ホ・オポノポノ」でも「天国言葉」でも「魔法の言葉」でも何でもいいのです。ただ、とりあえずは今流行っているし、きちんとした臨床データもありますので、ホ・オポノポノをお勧めします。ただ、あんまり悲壮感漂った顔で唱えないでくださいね。

 「本来の自分」に出会うには、今言ったように、過去の堆積された余分なプログラムを除去すること。それともう一つが、

4.「直観」に耳を傾ける

です。今日、家を出る前、直感で一冊の本をカバンに入れて行きました。実はこれを紹介するのは抵抗あります。なぜならこれをしっかり読めば、私のセミナーに来る必要もないし、コーチングを受ける必要も、もちろん私の本やブログを読む必要もないからです。それはそれでちょっと寂しいので、そういう意味で抵抗あるのですが、せっかくの「悟り」の日でもあるのでご紹介します。今日の飲み会でもみんなに紹介したばかりです。その本とはタイトルはちょっと変なのですが、、、

「人生改造宣言」タレン・ミーダナー著

です。これは言わばコーチングの本です。原題は「COACH YOURSELF TO SUCCESS」と、こちらは普通ですが、いったい誰がこんな邦題を付けたのでしょうか。ま、タイトルはともかく、実はこの本には、知りたいことのほとんどすべてが網羅されています。時間やお金の話はもちろん、風水にまで言及しており、確かに「人生」を「改造」するためにはうってつけの本と言えるでしょう。コーチングする人の一部では完全にバイブル化してる本で、コーチングをしてない一般の人でも十分に役立つ本です。

 で、「本来の自分」に出会う方法ですが、それは「直観」に耳を傾けること。飛行機の中で何気に開いたページに驚愕してしまいました。それは第6章「好きな仕事をする」の057「直観の導くままに」です。タイトル通り、「直観」に敏感になれ、ということですが、「直観」はいったい何をしてくれるのか。この「直観」の声こそが、実は「本来の自分」の声そのものなのです。この本の221頁には、

「自分の内なる声と本能的な感覚を信頼し、それらに従うようになればなるほど、人生はより楽に、より面白くなります」

と書かれています。

と書かれています。これを私なりに言い換えると、

「本来の自分から声と直感的な感覚を信頼し、それらに従うようになればなるほど、人生は宇宙からのサポートを受けやすくなることで、より楽に、より面白くなります」

と。つまり「本来の自分」とは自分自身の魂の「使命」に直結しており、それは「直観」という形で声を発しているのです。ですが、多くの人はその「直観」に対して、変な疑いを持ちます。例えば突然、「インドに行きたい!」と思ったとします。何の理屈もなく、突然だったとします。しかしそこで「海外行ったことないし、ましてインドだし、こないだテロもあったみたいだし、やっぱやめとくか・・」なんて「理性」の自分がとどめてしまうわけですね。

 以前、「すぐする」で何度も言ったと思いますが、「あ、洗濯もの取り込んでおこう」と突然思ったとします。しかしそこで「すぐする」をせずに「このブログ読んでから」なんて言って後回しにしていると、いつの間にか忘れてしまって外に行ったら、夕立でびしょびしょなんてことがあるのです。

 このように「直観」は常に自分にとって、最善ベストの声を発しているのです。しかしそれに従うか従わないかは「理性」が決めること。ですが、往々にして「理性」は「直観」と敵対したがります。「理性」の方が賢いと思ってるし、教育の在り方が「理性」的な答えを求めてきたからです。例えば会社で企画書なんかを出した時、上司から「これはどんな根拠で言ってるのだ?」と聞かれた時は、最大限に理性的な答えを求められています。本来であれば、「あ、それですか?直観です」でもいいのですが、普通は許されません。こんな環境で何十年も生きていると、「直観」はアホで「理性」が正しいと錯覚してしまうのです。大きな間違い。

 本当は「直観」こそが「本来の自分」にとってベストなメッセージを発しているのです。では、どうすればその「直観」に敏感になり、その声を素直に従うことができるのか。ブログの字数がそろそろ制限いっぱいになりそうなので、これについてはまたの機会に。

 それから11月15日のセミナーではこの辺のこと、オンパレードでやるつもりです。ではでは。

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「宇宙となかよし」トークライブセミナーin東京(11月15日)

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Commented by at 2008-10-30 22:29 x
はじめまして。
遅らばせながらお誕生日おめでとうございました!
ランキングははずされましたが「いまここ塾」の阿部さんと同じ誕生日でちょっと驚きました^^
毎回濃厚な記事を毎日更新されていてすごいエネルギーを感じます。
また来ますねー。
ありがとうございました。
Commented by katamich at 2008-10-31 00:49
■愛さん!
はじめまして、コメントありがとうございます!
誕生日、、、正確には2月27日なんですが(^^;
今回は35歳8か月ということでして。。。
ただ、私の奥さんは10月28日が誕生日なので、どっちにせよおめでたい日でした。ありがとうございます。
また、いつもでいらしてください。これからどうぞよろしくお願いします。
by katamich | 2008-10-27 23:33 | ■人生哲学 | Comments(2)