セカチュウ読了 2004.6.30
2004年 06月 30日
普段はベストセラーなどには興味を示さないのですが、最近「冬のソナタ」にはまってるのもあり、この通称「セカチュウ」も一度は読んでおこうと思い手にしたのです。
読了後、「泣きながら一気に読めませんでした」が第一の感想。あらすじはいろんなところで紹介されているのでここでは重ねませんが、どうしたもんでしょうか、ちょっと感性が衰えたかな、っと心配にもなりました。ページが進むにつれ「どこで泣けばいいのだ」と不安になっていったものです。
ちょっとせこい手かもしれませんが、先ほど、グーグル「世界の中心で、愛をさけぶ、書評」で検索し、ざっと目を通してしまいました。すると、私のような読了感を得たのは実は全然少数派でないことがわかりました。だからと言ってどうと言うこともないのですが。
その昔、「一杯のかけそば」という短編があり、日本中が泣いたと席巻したことがありましたが、このときも「どこで泣けばいいねん」と自責の念にかられ、そのときと同じ心境になっています。
これがベストセラーになった理由を私なりに表現すると、「好きになるとすぐにセックスする最近の男女にとって、もったいぶった性的進行と白血病でハゲになっても好きでい続けるひたむきな愛」が単に新鮮だっただけなのかもしれません(←ちょっと表現がよくないですね。すいません)。
そして、中学の時でしたか、南こうせつの「妹」という歌を音楽の時間に歌った時、「お前は器量が悪いから心配」というフレーズに対し、いつも他人のことを「きもい」など言い放っている性悪の女子が、「器量が悪いなんてかわいそ~」と言って、歌に半泣きしていたのを思い出しました。
やっぱり、個人レベルでも社会レベルでもある種のアンチテーゼにひかれるのは普遍なのかもしれませんね。逆にいうと、アンチテーゼにこそビジネスチャンスがあるということでしょう。
話を戻すと、結論を言うと、この小説は個人的にはマスコミで騒がれるほどのレベルではないと思いました。当の作者である片山恭一氏も「なぜ売れるのかわからない」と言っていますし。
ただし、全く読むに値しないかというとそうでもなく、例えば、(ネタバレごめん)主人公が白血病に冒されている彼女を、修学旅行で行けなかったオーストラリアに連れて行こうと、死に間際に無理矢理連れ出して、誕生日のケーキを二人食べるシーンなんて、精一杯食べようとしたけど食べられない彼女に対しては、主人公に感情移入して「うるっ」とはきましたね。
あと、後半の主人公と祖父との会話はメモをとってもいいようなフレーズが意外とちりばめてありました。例えば、「あの世や天国を発明したのは好きな人が死んだからだ」とか「見えるもの、形のないものが全てだと考えると、人生は味気ないものになる」とか「人間の思い込みを保証するものとして科学があるのであり、科学者でない自分は別のものを使う。例えば愛。」とか「あとに残ったことによって、あの人を悲しませずにすんだ」とか。。。
「純愛」というモチーフは決して世俗的でも短絡的なものでもなく、人間の琴線に触れる普遍的な価値があるとは思うのですが、いかんせん、ちょっと200ページにまとめすぎたのが残念です。もう少し長くて、深くて、読み応えがあったほうが、私としては納得いく読了感を得たかもしれません。しかし、そうなるとベストセラーにはならないでしょうが。
まあ、なんだかんだ言ってますが、今の日本を映写している物語でもあるので、映画やドラマもできれば見てみたいですね。
それにしても柴咲コウの「泣きながら一気に読みました」という帯のフレーズは効きましたね。おそらく売上の8割はこのフレーズに騙されて、もとい、共感して買っていったのでしょう。その意味で、柴咲コウは文芸界の「みのもんた」かもしれません。
(写真はお昼会の柴咲コウ-MONTA MINO)