手紙を読んで 2004.6.8
2004年 06月 08日
そして被害者少女の父親の、亡き娘に対する手紙が公開されました。
今回の事件については不幸とは思いながらも、センセーショナルな関心も半ば新聞を追っていました。しかし、公開された手紙を読んで初めて事件性を超えた「死」というものを意識させられました。
父親にとっては「さっきまでいた娘」が「いない」のです。「死」とは細胞の活動停止、肉体の消滅といった物理的事象を超えた「文学的」意味があることに気がつきました。つまり「実体」としての個を超えた、「関係」性の消滅といったところに人間にとっての「死」があるのです。
父親の手紙には涙が出てきました。手紙を読むまでは佐世保という衰退の進む企業城下町における社会病理、また、センセーショナルな事件性にデコレートされた一少女の死にしか、今回の事件を考えていませんでした。父親の手紙には「死」に直面することにより誰もが経験する「関係」との別れがストレートに表現されていました。我々が「死」と対置して得る悲しみは人であれ犬であれ金魚であれ「今までいたものが急にいなくなる」「今まであったはずの関係が急になくなる」ことに対する悲しみです。その「関係の帯」が太ければ太いほど、切れた時の悲しみは大きいものです。父親の手紙にはその太い「関係」の消滅を追体験させるものがありました。
それにしても今回の社会病理的な事件性はさておき、少女の死という現象にどういう意味を与えればいいのでしょうか。私は全ての現象には必ず何らかの「意味」があるものと考えています。目の前にどんな不幸なことがあっても、将来的には必ず良いことに結びつくための「意味」があるのだと。しかし、最も愛する者の死にどういった意味があるのでしょうか。その答えを出すものはやはり「時間」だけなのでしょうか。
私は現在、特定の宗教を信仰しているわけではありません(仏教系新興宗教の高校を卒業していますが)。果たして少女の死に対しどういった意味を与えるのか、宗教はどのように説明するのでしょうか。特に「愛」を最高価値とする某宗教などは。戦争ばかりしているので答えられないですか。
今日の日記はちょっとセンチメンタルなものになってしまいました。センチメンタルを重ねて私なりの少女に対する追悼を今から行います。
"Waltz For Debby(少女のためのワルツ)" by Bill Evans
世界一美しい曲です。