気絶の気づき 2008.8.17

8月も後半に入りましたね。思い出します。小中高校生の頃を。その当時、長い夏休みが楽しくて仕方なかったんですよね。それが8月も後半に差し掛かると、なぜか切なくなるのです。7月から8月1日の花火までは、それはもうハイテンションなわけですが。その頃の感覚ってのが、大人になった今でも多少は残っているようで、やっぱりなんか切ない気がします。一日一日昼も短くなっていますしね。実際、お盆を過ぎると、段々と涼しくなってきて、秋の気配を感じるようになります。しかし私にとっては、毎年のことながら「9月」からの4か月が一年のハイライトとなります。これ、毎年書いてますが、毎年そうなります。いわば収穫の秋でしょうか。


ところで、今回はお騒がせしました。体調は万全ではないものの、回復には向かっています。日常生活には差支えないのですが、今のところはあまり出歩くことはできません。まだ、右足が言うことをきかず、動作がまだ鈍いです。ただ、これはいわゆる「筋肉痛」のような痛さなので、適度に動かしていると、徐々に良くなってきているようです。


それにしても今回は本当に肝を冷やしました。雷の鳴り響く山の中で気絶していたのですから。しかも覆うものもない嵐の中の雨ざらしの状態で。気がついた時は、本当の状況を把握するのに時間がかかりました。私にとって気絶とか気を失うとかは、酒の飲み過ぎ以外ではない経験でしたので。一歩間違えたら命にかかわるところでした。生かされてるって、ありがたいです。


そしてにしも、今さらながら「生かされる」ってことを深く考えてしまいました。今、中村天風の「運命を啓く」という本を読んでいるのですが、その中に吐血して病に苦しむ天風に向かって、「「Hello!Haaiest you are in the world(おお!世界一の幸福者よ!)」と呼びかける導師の話がありました。天風は頭にきて、導師に反論したところ、


「生きていることを、なぜ感謝しないのだ。そんな酷い病に罹っていても、生きているお恵みを考えてみなさい。」


と、諭され、そして気づきを得ます。どんな不遇な状態であろうとも、生きてさえいれば、いかようにも改善できる、人生を楽しめるもの。実際の話、山の中で目が覚めた瞬間、状況把握に時間がかかりましたが、同時に、「おれ、生きてる?死んでる?」なんて自問自答もしていたように思います。意識がはっきりして、よろよろと動きだした時、ハッキリと言った言葉があります。「ありがとうございます」、と。そしてつくづく感じました。「おれってツイテルな~」、と。その時はまずは下山することが先決でしたが、真剣に「生かされていること」に感謝した瞬間でした。天風はこの世で一番に神聖な感情は「感謝」と「歓喜」だと言っており、その感情こそが、天風の言葉で言う「宇宙霊」に正しく呼びかけるものだと言います。


「宇宙霊」ってのは、おそらく、神や宇宙そのものと同じ意味だと思うのですが、要はこのブログのタイトル通り「宇宙となかよし」になるためには、「感謝」と「歓喜」が必要だと言うわけです。「宇宙となかよし」になるとどうなるか。禅問答みたいですが、やっぱり「感謝」と「歓喜」に満たされた人生になるんでしょうね。そう考えるとシンプルなものです。いかなる状況におかれていようと「感謝」と「歓喜」の心でいられるかどうか。それだけだと言えます。宗教をはじめ、いろんな考え方、それを伝える本などメディアがありますが、極論すれば、この「感謝」と「歓喜」の心を持ち続けるために、それらがあると言えます。「感謝」と「愛」でもいいです。「歓喜」と「愛」は同じような意味ですし。ですので、私の「軸」もこれだけです。他にはありません。


しかし人は、私を含めて弱い生き物です。すぐに「状況」にコントロールされてしまいます。人生、いいこともあれば、悪いこともあります。ここが修行の場である以上、それは避けられません。しかし、その「いいこと」と「悪いこと」の繰り返しの中で、いかにして心を「平穏」に保ち、「感謝」と「歓喜」「愛」の心で満たし続けることができるのか。そのため修行の場がこの地球であり、三次元であり、人生だと思っています。


正直言って幸せな人は、心が穏やかです。穏やかでない人に幸せな人はいません。その幸せな人は、悪い状況が訪れないから幸せなのかと言うと、決してそうではありません。人並にいろいろあります。それでも心を「平穏」に保つことができるため、自然と幸せな状況におかれ、その結果としてさらに幸せな状況が訪れるわけです。


ところで、最近、「目標」や「夢」は持たない方がいい、と言う人の話を聞きました。そんなものを持つよりも、私が今言ったように、日々、平穏に過ごすことの方がいいのではないか、目標や夢を持つことによって、それだけ苦労も大きくなるのだから、いっそのこと持たない方がいいのでは、と言う意見です。なるほど、言ってることはわかります。しかし、それって「人生」でしょうか?その前に「人間」でしょうか?せっかく「人間」として生まれたのであれば、「人間」として役割があるはずです。「人間」として役割とは、「魂」や「自我」の求めに応じることだと思います。そもそも「魂」のレベルでは、人としての役割は大方決まっていると言われています。それは千差万別です。しかし、その「魂」の求めを受け取るのは「自我」であり、同時に生き方を決めるのも「自我」です。


シュタイナーによると、鉱物、植物、動物になくて「人間」にだけあるもの、それを「自我」と言います。そして「自我」があるからこそ、目標や夢を持てるのです。逆に言えば、目標や夢を持たないのであれば、犬や猫、その辺の草花でもいいわけです。何のために「人間」をしているのか。それは人間だけが持っている「自我」を活動させるためです。そして「自我」を活動させる一番いい方法は、やはり目標や夢を持って、それに向かって進むことだと思います。


しかし目標や夢を持つと、それだけ苦労も多いし、面倒なこともいろいろあります。だけど持つのです。この時、いかなることがあろうとも、心をどれだけ「平穏」に保ち、「感謝」と「歓喜」の心で満たすことができるのか。それこそが「修行」であり、地球に生まれてきた意義だと思うわけです。そもそも聞いてみたいです。目標や夢を持たない人生、あなたはそれで幸せですか?と。


私個人の意見ですが、そんな人生はカスです。不幸です。私なら、その都度そのつど、身の丈に合った夢や目標を持ちながら、情熱的に生きていきたいです。そうすると、確かにいいことも悪いことも出てくるでしょう。しかし、それが私にとっての修行。いいことも悪いことも同様に「感謝」できる人間になるための。そして「世界一の幸福者」になるための。


そんなことを考える、昨日今日でございました。ありがとうございました。
Commented by トマト at 2008-08-18 13:42 x
こんにちは
『目標を持たない方がいい』、その方の本心がどこにあるのかが重要に感じます。
今、私には細かい夢、目標があります。
それ以前から、人間の生きる目的、目標は『天寿を全うすること』
これが人の最大目標だと思っています。
夢や目標を持っていなくても自然と人生には波風立つので『目標を持たない』と言う人も有りだと思いました。
長くなりそうなのでこれそのうちブログに書きます。^^
Commented by katamich at 2008-08-18 15:56
■トマトさん!
ま、人それぞれでいいとは思います。
私も何が絶対正しいのかわからないので。
Commented by zanki at 2008-08-21 23:58 x
>「人間」として役割があるはずです。
というのも、あくまでそうあって欲しいという願望ですよね。
役割があるという前提から始めずに、あるのかないのかを考える
ところから始めるべきかと思います。
Commented by katamich at 2008-08-22 00:53
■zankiさん!
そうです。願望です。あるかないかよりも、どう考えた方が人生にとって建設的かの方が私にとっては大切です。その意味で、そう言う願望を持つ方を選んでいるだけですので、あるなし議論はお任せします。
Commented by zanki at 2008-08-23 22:31 x
 精神世界的なヒトの反応はいつもそうなんですよね。結局、それぞれ
の気持ちの持ちようという話になってしまう。
  だから、各人の経験で終わってしまい、世代をいくら重ねても全く
進歩が望めない。あるなし議論を軽視したら、科学のように成果を積
み上げていく事も情報を共有することも、検証したりすることも出来ない。
  これでは何百年経っても人類が変わるわけがない。

  ……、っと、別に私は「荒らし」をしたいわけではありません。
Commented by katamich at 2008-08-23 23:08
■zankiさん!
是非、人類の進歩に寄与されてください!応援します!
by katamich | 2008-08-17 23:55 | ■人生哲学 | Comments(6)