ぼく、ドラえもん!! 2008.6.15
2008年 06月 15日
今回、このセミナーを受講しようと思ったのは、完全に「直観」です。昨年からなぜかNLPの仲間内の間で「山崎啓支」という名前が何度も出てきて、その中でも「願望実現5か月コース」は完全に別格だという話を何度も耳にするようになっていました。何度も聞くものですから、これは受けとけということかと勝手に「直観」して、それからお金を振り込んだのは早かったです。そして私の「直観」がまたもや正しいことを証明するのでした。このセミナーに先立って4月に「2日間セミナー」と言うのが開催され、それにも参加したのですが、その時はどちらかと言うと具体的な「願望」の実現方法に力点が置かれていました。そしてその時に設定した願望は、、、その一か月以内にすべて叶ってしまい、今となっては、個別単位の願望実現は簡単、、、という段階に到達しました。
それだけでも50万円近く払った価値はあったのですが、その上で何が起こるのだろうと、ワクワクしながら「5か月コース」に参加しているのですが、、、前回の「2日間セミナー」をはるかに上回る内容です。これは私の意見でもあるのですが、個別の「願望」の中には叶える必要がない、叶えてはならないものもあるように思います。例えば私に関して言えば、「医者になりたい」「弁護士になりたい」「アイドルと付き合いたい」「ミュージシャンになりたい」「遊んで暮らしたい」「ヒーラーになりたい」なんて「願望」は、仮に叶えるのが簡単であっても、その必要はないように感じています。少なくとも私は医者になりたいとも思いませんし、遊んで暮らしたいとも思いません。ただ、上にあげた「願望」は、別の人にとっては大きな「願望」かもしれません。
もっと具体的に言いましょうか。医者の息子がいたとします。その息子は小さい頃から親に医者になることを期待されています。そして良い小学校に入り、中学、高校、大学と医者になる道を歩み、本人にとっても医者になることが人生における大きな願望だったとします。しかし、「本当」にその人にとって医者になることが「本当」の願望なのでしょうか。例えば私は音楽が好きです。しかし演奏は下手です。でも好きです。だからと言ってプロになろうとは思いません。しかし仮に下手でもプロを目指す人はいるかもしれません。その人にとっては音楽のプロ、それも一流になることが「願望」かもしれませんが、本当にそれでいいのでしょうか。それが本当の意味での「願望」なのでしょうか。
今回、5ヶ月間のセミナーを受講するのですが、まだ、何を目指すセミナーなのかわかりません。しかし、今の段階で感じることは、どうやら見せかけ上の願望でなく、何かしら「本当の願望」らしきものが人それぞれあり、もしかしたらそれを見つけることができるのかもしれない、、、と言う話だと感じています。ただ、一言で「本当の願望を見つけるセミナー」と言うには、あまりにも陳腐過ぎます。世の中にはその手のセミナーやセッションは山ほどあります。例えば「見えない世界」に通じていると言われる人がおり、その人のリーディングやらチャネリングやらで、クライアントの本当の姿が見える、、、なんてセッションがあったとします。しかし、それは本当にその人にとっての真実の姿なのでしょうか。他人に言われる姿が。私が受けている山崎さんの「願望実現セミナー」も、もしかしたら表面上はそのようなものとしてとらえられるかもしれません。しかし私の「経験」と「直観」の限りにおいて、このセミナーは、、、ちょっと言うのを止めておきます。なんだか怪しい話になりそうなので。
ただ、昨日今日と2日間受けて、、とにかくぶっとびの連続なのです。その「ぶっとび」は単なる話としてでなく、私の「体験」と結びついた感覚として「ぶっとび」なのです。例えば私はいつも真剣に語る話があります。正直私は「スピリチュアル」が大嫌いです。もとい。「いわゆるスピリチュアル」が大嫌いです。例えば、江原某とかジュセなんとかとか、汗ンションだとかフォトン腹巻だとか、その手の話は正直虫唾が走ります。確かに以前は興味がった時期もありましたが、今は正直そうなのです。汗ンションなんて皮肉った書き方をしましたが、今、巷では「アセンション」なるものが流行っているそうです。正直よくわかりません。よく分からないのに言うな、と言われそうですが、そもそも「アセンションしたらどうなるの?」という疑問がいつも付きまといます。いわゆる「アセンション」と言う現象なりが「人生の究極の目的」であれば、それはそれでいいのですが、逆にそうだとしても、そんなに簡単にアセンション(人生の目的)に到達する人生って、、なんぼのもん?という疑問は離れません。
ま、それはそうと、私がいつも真剣に語る話です。それは「なにかある」ということ。私は前世も守護霊も守護天使も、あるかどうか分かりませんし、少なくとも見たことはありません。しかし「なにかある」ということだけは、否定できません。例えば会社を辞めて一番ヤバい時に「加賀田晃DVD」がいきなりやって来て、そのおかげで今があります。全財産3万円になった時、開き直った瞬間、30万円が振り込まれました。そんなこと日常です。いつも「なにかある」のです。その「なにか」を人は守護霊とか神様とか言うのかもしれませんが、それを「実体化」するには、あまりにも粗雑な気がするのも事実です。よくわかないけど「なにかある」、、、これが私の信念の一つであり、その「なにか」に対して畏敬の念を抱かずにはいられないのです。
そしてこの2日間、山崎さんのセミナーを受けながら、その「なにか」がどうもおぼろげながら、、、やっぱ言うの止めておきます。怪しい話になりそうなのです。とにかく、言えることは、何かしら「本当の」とか「らしさ」と言うのが、キーワードの一つのようには感じます。例えば「本当の自分」と「偽りの自分」がいたとします。そして「高所恐怖症の自分」がいたとします。この「高所恐怖症の自分」は「本当」か「偽り」かと言えば、これは「偽り」だと断言できます。なぜなら生まれつき高所恐怖症の人など、いないからです。つまり人間と言うのは、ほとんどすべてにおいて、生後これまでの「学習」や「体験」によって、ある種の「衣」がかぶせられた状態だと言えます。そしてその「衣」を一枚一枚はがしていくと、もしかしたら「本当の自分」に出会えるかもしれないし、もしかしたら玉ねぎのように何もないかもしれません。もし何もなかったらショックですよね。なので場合によっては「本当の自分」など探究しない方がいいのかもしれません。しかし多くの人は、もしも「本当の自分」が存在するのだとすれば、それを知りたいと思うのも事実。そもそも「本当の自分」を知りたいという欲求はアプリオリなのかもわかりません。
ただ、少なくとも現段階で言えるのは、今の私は、生後これまでにかぶせられた「衣」をまとった状態の自分であるということです。そんなわけで、今日、ひとつ、面白いワークがあり、とてもびっくりした気づきがあったので、それをシェアしたいと思います。いわゆる「今の自分」を知る上で、何かしら源流(元型)となるものがあるとすれば、それは何にとって形成されたか。その一つとして、幼少期に読んだ何がしかの「物語」があります。実はこの話、木曜日の加賀田先生の研修でもありました。何ともシンクロです。
ちなみに加賀田先生は「ある漫画」がこれまでの自分の基礎になっていると言っておられました。その漫画の題名は分からないのですが、こんな話です。あるところに4人の少年がいました。それぞれ夢を語っています。一人は医者になる、一人は警察になる、一人は弁護士になる、そして最後の一人は、、、なりたいものがない、という話。その少年たちは大人になり、ある事件によって再会します。その事件とは殺人事件。医者が殺され、警察がその犯人を捕まえ、弁護士がその犯人の弁護をする、、、という展開。これは言うまでもなく、4人の少年たちの未来です。そしてその「犯人」とは、、、言うまでもなく、「なりたいものがない」と言った少年でした。つまり「夢を持たない人生なんてカス!」と言うのが加賀田先生の持論であり、それは少年時代、その漫画によって形成されたのだと言います。
こう言う話って誰にでもあると思います。例えば人によっては、その「物語」が「ハイジ」であったり、「フランダースの犬」であったり、「サザエさん」であったり、「デビルマン」であったります。そして私にとっての「元型」となる物語は、、、小学校一年生で読んだ「ドラえもん(てんとう虫コミック第一巻)」でした。これも「直観」で思いつきました。そしてワークの過程において、次々と「元型」を辿ります。ある手法を用いて。すると、、、なんと出てくるのです。その「ドラえもん」から。オートクライン的に自分で一人でしゃべっているのですが、自分で口にした話に、、、涙が出そうになりました。こんな話です。
「ドラえもん」の第一話は、、それこそ一言一句覚えているくらいに印象に残っています。のび太が横になりながら、「今年も正月がやってきた、どんな一年になるかな、どうせろくな年にならないだろうな」なんて独り言を言っている場面です。ちなみにこのセリフから「ろくな」という言葉を知ったのは言うまでもありません。私にとって「ドラえもん」は言葉を覚える辞書の役割もありました。すると突然、机の引き出しから「ドラえもん」が登場します。子孫の「セワシ」も出てきます。ドラえもんもセワシも22世紀、つまり200年後からやってきたのです。何とかわいそうなことに、22世紀のセワシはお年玉で50円しかもらえなかったと言います(ちなみに今、何も見ずに記憶だけで書いています。それほど印象深いのです)。その原因は「おじいちゃん」つまり「のび太」にあると言うのです。そこでドラえもんは一冊のアルバムをポケットから出します。それはのび太の生涯のアルバムです。のび太は浪人して大学に入りますが、卒業しても就職できずに自分で会社をつくります(よく考えたら大した奴だ)。しかし、その会社は花火が原因で火事になり全焼します。当然、倒産するのですが、借金が大きく膨らみ、その借金の返済がなんと22世紀まで続いているという展開です。のび太はしずちゃんではなく、ジャイ子と結婚し、子どもをたくさんもうけるのですが、やせ細っていくのび太に対し、ジャイ子はどんどん太っていきます。そしてずっとろくなことが起こらず生涯を閉じるのです。
何とのび太は小学生にして人生を決められてしまうのです。22世紀のセワシのお年玉が50円である原因は20世紀ののび太にある。だからドラえもんの力で何とか未来を変えられないか、、という目的でやってきたのです。
実は私は小さい頃からあるテーマを持って生きてきました。それは何かと言うと、「人生は決まっているものか?」「もし決まっているとしたら、それは変えられるのか?」というテーマです。つまり生まれた瞬間に何かしらの「運命」や「プログラム」を持って生まれてきたのか、、、と言う疑問です。実はこのテーマ、、、考えてみたら、中学や高校の時から持っていたように思います。そして小学校低学年に「てんとう虫コミック」のドラえもんと同じくしてはまっていた本に「ドラえもん占い」という本がありました。そこには人相や手相の話が書かれてあり、兄弟で一緒になって読み占いあったものです。
もしも「運命」があり、それが変えられないものであるとすれば、、、何をやっても無駄ではないか、と思ったことがあります。そして高校卒業後、それまでほとんど読書をしたことがない私が、予備校講師の影響で読み始めたのが哲学書でした。で、この「運命」があるかどうかの話は、哲学上の大きな論点の一つであることも学びました。結局、これは立場の違いであり、もし選べるのであれば、私は「自由意思」を尊重し、「決定論」とは対立的な立場に立とうと思ったのです。私がヘーゲルの歴史観を否定し、フッサールの現象学に傾倒したのもそんな背景があったのだと思います。ただ、その後もずっと「運命」はあるのかどうか、いつも頭を悩ましているとき、船井幸雄かなんかの本に、「運命はあるけど変えられる」なんて、矛盾するどうでもいい記述を発見したこともあります。しかし、実はこれって「真実」なのでは、と思う話にであったのが去年の今頃でした。これはブログでも紹介しています。こちらから引用します。
中国のある昔の話です。あるところに人の運命を100%見通すことの出来る、優れた易者さんがいました。とにかくその人の言うことは100%だと言われています。ある夫婦が自分の子どもを連れて、その易者のもとへ訪ねました。「私はこの子を医者にしたいと思っているのだが、どうだろうか?」、と易者に尋ねました。するとその易者は「その子は医者にはなりません。華僑の試験に合格して、立派な役人になります。幸せな人生を送るのですが、子はできません。そして53歳で亡くなります」と言いました。それ以外にも、いつどこで何をして、試験には何回チャレンジして、何回目で何歳で合格して、その時の点数は何点だ、などの細かいことまで見通したそうです。
そしてその子は大人になり、その易者が言ったのとまったく同じ人生を歩みました。ある日、大人になって、若くして立派な役人になったその男は、赴任先の土地のとある禅寺を訪れました。そこで老師の言うとおり、座禅を組んだのですが、その男は、老師が唸るほどの立派な座禅を組んだそうです。老師はいたく感心して言います。「あなたはどこでどのような修行をなされたのか。あなたのように若くしてそのような立派な座禅を組めるなんて。あなたには雑念、妄念がまったくありません。」、と。すると男は「私はどこでも修行などしておりません。ただ、私に雑念、妄念がないと言えばその通りかもしれません。私は幼き頃、ある易者から自分の運命を知らされました。そしてその通りの人生を歩み、役人になって結婚はしたのですが、子はいません。あとは53歳で死ぬまで生きるだけです。今さら願いも欲望もありません」、と言いました。
そこで老師はたいへんに立腹され、「運命のままに生きるなんて、なんて愚かなことか。あなたの立派な座禅を見て、さぞ立派な人生を送ってこられたのかと思ったが、ここまで愚かな男とは思わなかった。」、と言いました。老師が続けます。「運命は、絶対に変えられない宿命ではない。良きことをすれば良きことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる。宇宙にはそういう純然たる法則がある。良き行いをして良き運命をつくる。それを『立命』という。運命のままに生きるなんて、愚かなことだ。宇宙には因果の法則がある。どうか、良き行いをして、良き人生を歩んで欲しい」、と。
男はたいへんに感動して、すぐに帰って奥さんに老師に言われたことを伝えます。その奥さんも感銘を受けて、その先は二人で良きことを思い、良き行いをする人生に変えたのです。すると子は生まれ、70歳を過ぎるまで生きながらえます。そこで生まれ育った子に言います。「これがお父さんの人生だ。禅寺の老師に会うまでは、易者から言われたとおりの人生を歩んできた。しかし、老師に会って以降は、良きことを思い、良き行いをして生きた。その結果、お前が生まれ、ここまで生きている。どうか、これからも良きことを思い、良き行いをして生きていって欲しい。」、と。
つまり「易者」の言うように「運命」はあるのかもしれない。しかし「立命」は「運命」を上回るという結論であり、私もその考えで納得しています。「ドラえもん」の話に戻りますが、ドラえもんは22世紀からやってきて、のび太に「運命」を提示します。その「運命」は200年も影響するような根深いものです。しかしドラえもんはやってきたのです。なぜか。つまり、
「運命(未来)は変えられる!」
というメッセージを伝えるために。我々は多かれ少なかれ「運命」の中に生きています。それはこの世に生を受ける以前の「魂」のレベルで決定されたものもあるでしょう。そして生まれた後、いろいろな「体験」によって条件づけられた「運命」もあるでしょう。そして我々は多かれ少なかれ「運命の奴隷」として生きています。しかし、、、「運命」は変えられる!」のです。奴隷から解放されるのです。ドラえもんはそれを教えてくれました。そしてもしかしたら「運命の奴隷」から解放されることこそが、、、、生きる目的なのではないか、と、今思っています。その意味で、ドラえもんは全人類に対する「コーチ」であり「メンター」であると言えるのです。そして私自身も、、、コーチとして、メンターとして、、これから先、ミッション(使命)を持つのかもしれません。あたかもドラえもんをモデリングするがごとし。
今日は他にも多くの気づきがあったのですが、この「ドラえもん」という「元型」の発見には鳥肌が立ちました。これから10月まで、、、本当に私はどうなってしまうのでしょうか。。。
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私は人生で最も大切なものは「物語」だとなんとなく思っていましたが、それを腑に落ちる形で説明していただきました。
すごいです。ありがとうございます。
実はこのセミナーのサイドストーリーは、、「神話の法則」なんですよ・・・!

読み応えありありでした。
ありがとう!またお会いしましょう!