宇宙は動いている 2007.6.7
2007年 06月 07日
で、今日はセミナーのレジュメ作成。そして本の執筆、夜のコーチングでした。レジュメはごくごく簡単なものにして、90分間、私の熱いトークで埋め尽くします。いよいよ明後日なんですね。う~血が逆流する。ワクワクしてると足のつま先がムズムズするんですよ。夜のコーチングではいつも以上に時間をオーバーしたのですが、後半、スピリチュアルな話になってしまいました。私のスピリチュアリティの中心概念は「宇宙は完全」ということです。「宇宙となかよし」という偶然に付けられたブログ名も、私の抱く中心概念ととても調和しています。久々にそれ系の話をしてみたいと思います。
普段から、一人でいろいろ考えることはあるのですが、人の幸不幸や存在意義、社会や地球の未来なんてのを考えていくと、突き詰めたところ、最終的には「宇宙は完全」ということに行き着いてしまいます。これまた批判的な話になるかもしれませんが、よくブログなどで「大地を鎮める祈り」なんて呼びかけを見ることがありますが、そうやって連帯感を持って祈ること自体は良くも悪くないのですが、そもそも大地を鎮めるなんて、実におこがましいことではないか、と思ってしまいます。今日も別府市で地震がありましたが、確かに地震や台風などの天災によって、多くの命が失われたり、あるものが破壊されたりなど、悲しいことはあります。しかし宇宙的な視点に立ってみた場合、どこそこで地震が起きようが、誰それが亡くなろうが、すべては「宇宙の意思」の成せる業です。ある意味、必然と言えるでしょう。ですので、「大地を鎮める祈り」なんてのは、大いなる「宇宙の意思」に対する抗いのように感じてしまうこともあります。地震や台風などの災害はいつもどこかで起こっています。これはある意味、地球が活動している証拠だと言えるでしょう。逆に考えると、震源地で被害にあうことは、地球上の最もエネルギッシュな場所に居させてもらった、、、ということになるかもしれません。こんなこと言うと、被災地の方には申し訳ないのですが、そういう私情を抜きにして、もっと大きな観点から考えると、そうなります。
結局、「大地を鎮める祈り」なんてのは、地球活動を停止してくれ、ということか、自分とこやなく別のところで暴れてくれ、と言ってるのに等しい気がします。または人のいない場所でどうにか暴れておくれなさい、ということでしょうか。しかし、そういう祈りも空しいかな、常にどこかで災害は起こっています。それが「宇宙の意思」なのです。
で、そんなことを言ってしまうと、そもそも人が存在する意義もないじゃないか、と思う人もいるでしょう。なぜならすべてが「宇宙の意思」の成せる業であれば、幸せになるのも、不幸になるのも、飯を食うのも、クソをするのも、すべて宇宙の中でプログラミングされてることなので、結局、人は何を考えても無駄なんではないかと。宇宙に決められた運命があるのなら、どうせ抗っても無駄なんじゃないか、と。私もそう考えたことはあります。しかし、ここで重要な事実に目を向ける必要があります。それは「宇宙は動いている」ということです。
もしも宇宙が静止したままであれば、本当に何をしても無駄だと思います。一緒に静止してた方が身のためです。しかし、事実として宇宙はあり、そして動いているのです。なぜか分かりませんが、事実としてあるのです。それゆえに動き続けるしかないのです。よく「運命は変えられない」と言う人がいます。確かに運命はあるでしょう。変えられない運命もあるかもしれません。しかし私はこう思います。もしも宇宙が静止したままであれば、運命は絶対に変えられません。しかし宇宙が動いている以上、自らの意思で運命も変えられるのだ、と。世の中にはものすごい霊性を持って、人の運命を見通す人はいると思います。しかし、そこで見られた運命が100%正しいものであったとして、「もしも宇宙が静止していると仮定したならば」という条件付きの運命であると言っておきます。ひらたく言えば、今現時点の限定的な運命なのです。
「運命」は変えられるか、変えられないか、という論争について、私がとっても感銘を受けた話があります。NHKのラジオ深夜便のCDセレクションを私はよく買ったり借りたりして聞くのですが、その中に稲盛和夫さんの「素晴らしい人生を送るために~人は何のために生きるのか」という講演録があります。その中で言われていたエピソードを紹介したいと思います。
中国のある昔の話です。あるところに人の運命を100%見通すことの出来る、優れた易者さんがいました。とにかくその人の言うことは100%だと言われています。ある夫婦が自分の子どもを連れて、その易者のもとへ訪ねました。「私はこの子を医者にしたいと思っているのだが、どうだろうか?」、と易者に尋ねました。するとその易者は「その子は医者にはなりません。華僑の試験に合格して、立派な役人になります。幸せな人生を送るのですが、子はできません。そして53歳で亡くなります」と言いました。それ以外にも、いつどこで何をして、試験には何回チャレンジして、何回目で何歳で合格して、その時の点数は何点だ、などの細かいことまで見通したそうです。
そしてその子は大人になり、その易者が言ったのとまったく同じ人生を歩みました。ある日、大人になって、若くして立派な役人になったその男は、赴任先の土地のとある禅寺を訪れました。そこで老師の言うとおり、座禅を組んだのですが、その男は、老師が唸るほどの立派な座禅を組んだそうです。老師はいたく感心して言います。「あなたはどこでどのような修行をなされたのか。あなたのように若くしてそのような立派な座禅を組めるなんて。あなたには雑念、妄念がまったくありません。」、と。すると男は「私はどこでも修行などしておりません。ただ、私に雑念、妄念がないと言えばその通りかもしれません。私は幼き頃、ある易者から自分の運命を知らされました。そしてその通りの人生を歩み、役人になって結婚はしたのですが、子はいません。あとは53歳で死ぬまで生きるだけです。今さら願いも欲望もありません」、と言いました。
そこで老師はたいへんに立腹され、「運命のままに生きるなんて、なんて愚かなことか。あなたの立派な座禅を見て、さぞ立派な人生を送ってこられたのかと思ったが、ここまで愚かな男とは思わなかった。」、と言いました。老師が続けます。「運命は、絶対に変えられない宿命ではない。良きことをすれば良きことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる。宇宙にはそういう純然たる法則がある。良き行いをして良き運命をつくる。それを『立命』という。運命のままに生きるなんて、愚かなことだ。宇宙には因果の法則がある。どうか、良き行いをして、良き人生を歩んで欲しい」、と。
男はたいへんに感動して、すぐに帰って奥さんに老師に言われたことを伝えます。その奥さんも感銘を受けて、その先は二人で良きことを思い、良き行いをする人生に変えたのです。すると子は生まれ、70歳を過ぎるまで生きながらえます。そこで生まれ育った子に言います。「これがお父さんの人生だ。禅寺の老師に会うまでは、易者から言われたとおりの人生を歩んできた。しかし、老師に会って以降は、良きことを思い、良き行いをして生きた。その結果、お前が生まれ、ここまで生きている。どうか、これからも良きことを思い、良き行いをして生きていって欲しい。」、と。
長くなりましたが、こんな話です。まさしく「宇宙は動いている」という話ですね。確かに運命はある。しかし、その運命とて、自分の思うまま、行動するままに、変化していくのだ。それを立命と言う。宇宙が動いている限り、自分が動けば、その通りになるし、動かなければ、また、その通りになるのです。だったら、自分の思うように考え、動いていけばいいわけです。
宇宙は動いている。だから運命も動く。だったら良きことを思い、良き行いをして、自分にとってのベストな人生を歩んでいけばいい。それが私の「宇宙」と「運命」に対する考え方のすべてです。
で、最初の話に戻ります。運命が動くのであれば、いかに「宇宙の意思」であろうとも、「大地を鎮める祈り」によって地震だって台風だって来なくなるということじゃないか、と言われるかもしれません。話が矛盾しているように思われるかもしれませんが、私は、それは「ない」と思っています。なぜなら宇宙、そして地球は「私」一人のためにあるわけではないからです。地球が活動している限り、地震も台風も起こります。もし、地震や台風がなければ、地球は進化しなかったし、生命だって生まれていません。そしてもし、これから先、地震や台風がなくなってしまえば、地球は活動を停止し、酸素は宇宙に奪われてしまい、人類は瞬時に滅亡してしまいます。
地球が活動している限り、どこかで災害は起こります。やっぱり人ですので、自分のところには地震も台風も来て欲しくないと思います。それは世界中の全人類が思っています。動物だってそう思います。となると、地球の活動の証である自然災害も、どこかで起こらざるを得ない以上、そこには「宇宙の意思」が働くしかありません。もしかしたら、ルーレットのように、ランダムに決められているのかもしれません。もし、そこに当たってしまったらツイてない、と思うしかないのでしょうか。諦めるしかないのでしょうか。
私はそうは思いません。何も自然に任せて地震や台風に飲まれろ、ということではありません。ようは災害が来ても、対応できる暮らしをしていけばいいだけです。戦後日本最大の自然災害と言われた阪神大震災においては、実はお隣の京都ではほとんど被害がありませんでした。私の兄貴がそこに住んでいたので、わかります。つまり神戸があれほどの被害を被ったにも関わらず、京都ではほとんど無傷。違いは何かと言えば、無秩序な計画性に他なりません。神戸は振興開発によって、災害時のことを考慮に入れずに次々と無秩序に開発が進められていきました。一方、京都は歴史的な古都ということもあり、開発計画にも厳しい規制がなされ、昔ながらの災害に強いまちづくりが残されていたのです。その意味で神戸の被害は、自然災害ではなく、人為災害だったのかもしれません。
つまり、地震が起ころうが、台風が来ようが、それに備えられる生活をしていけばいいのです。それは自治体レベルの話かもしれませんが、個人レベルでも、普段から備蓄をしておくとか、部屋をきれいにしておくとか、違法駐車をしないとか、ガスや電気を安全に使うとか、いろいろできることはあるはずです。そのようなできることを一つ一つやっていけば、災害が起こったとしても、被害を最小限に抑えることができます。本来ならば地震で死ぬはずの運命も、普段の心がけで、被害を防ぐことができるのです。それを立命と言います。
長くなりましたが、もう一つお話します。私が毎月購読している「致知」という雑誌の7月号に、素晴らしいお話が載っていました。7月号のテーマは「機を生かす」です。その中にプロゴルファーの古市忠夫さんのインタビュー記事がありました(そう言えば、古市忠夫さんは五日市剛さんの講演会にも時々名前が出てきます)。古市氏は阪神大震災で家も財産も親友もあらゆるものを失ったのですが、災害復興が一段落を得た後、車の中に自分のゴルフクラブがあるのを見つけました。古市氏はアマチュアとしては、それなりの腕前であったそうですが、年齢も60前。プロになることなど考えたこともなかったそうです。ただ、大切なゴルフクラブですので、車上あらしにあってはいけないと、いつも家に持ち込んでいたのが、その震災の日に限ってトランクに入れっぱなしだったそうです。家は崩壊したのに、車だけは残って、そしてゴルフクラブも無事でした。その時に思ったそうです。生きてゴルフが出来るなんて、自分はなんて幸せなんだ、亡くなった人たちのためにも、自分は悔いの残らない人生を送りたい、と。
そして間もなくプロテストの準備をして、還暦を過ぎてからの異例のプロ合格となったのです。ちなみにそのプロテスト合格のプレーの話も信じられないのですが、長くなるので割愛します(^^;)。古市氏の話は映画にもなりました(題名『ありがとう』)。ここで、古市氏はこのような「奇跡を起こす方程式」を思いつかれました。「成功」は「成功=才能+努力+運」と言いますが、「奇跡」は「奇跡=才能×努力×感謝力」と言うのです。
「感謝」なのです。仮に災害にあって大きな被害にあおうとも、そこに「感謝」があれば、古市氏のように奇跡を起こし、それまで以上に素晴らしい人生を歩むことが出来るのです。災害前はゴルフ好きの一介の商店街のオヤジだったのが、災害後はプロゴルファーとして活躍し、自分の話が映画にもなるという人生です。つまり、どのような状況であっても「感謝」があれば、如何様にでも人生を好転できるし、思い通りの人生を歩むことができるのです。宇宙は動いています。その動きに逆らわず、宇宙の意思に従って生きるには、良きことを思い、良き行いをする。自分ができることを一つ一つする。そして何があろうとも感謝の気持ちでいることなのです。そうすることによって、完全なる宇宙と調和して生きていくことが出来るのだと思います。
ちなみに今月の「致知」は他にも泣ける話、いい話がたくさんあります。紹介したいのですが、長くなったので別の機会とさせて頂きますね。てなところで、今日はこの辺で。
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