今 2007.5.8
2007年 05月 08日
近頃、天職探し、自分探し、今生の使命探求なんてのが流行っているように思われますが、そういう気持ちも分からないまでもないものの、結局のところ、探さば探すほど深みにはまっているようにも見受けられます。自分だけじゃ埒が明かないので、目に見えない世界がわかると言われている人のところに聞きに言ったりして、一度は納得して帰るのですが、しばらくするとどうもしっくりこないと感じて、また別の力のある人のもとに通ったりする人を割りとよく見てきました。勝手に「時効」と言っちゃいますが、昨年、100人コーチングなるものをしてたとき、決して多くはありませんが、中にはそういう方もいらっしゃいました。いわゆる「自分探し行脚」をしている人が。いろんなスピリチュアル(サイキック)な能力のある人に聞きまくって、しっくりこないものだから、ついでに私のコーチングを受けてみて、何かあるんじゃないかと考える人が。正直言って「何もない」です。最終的に言えることは、天職は今してること。本当の自分は今のあなた。今生の使命は生きること。それに尽きるわけですが、例えば「前世」なんかを聞いて、今と関連付けながら、究極のところの真なる自己に出会おうとするわけです。「前世」などは数百通りもあると言われているので、ま、おそらくいろんな仕事をしてきたと考えるのが妥当でしょう。例えば300通りの前世があったとして、その300通りのすべてが「ヒーラー」をしているのであれば、今生も「ヒーラー」である必然性も伺えそうなものですが、必ずしもそうではないわけです。狩人のときもあれば、医者のときもあれば、奴隷のときもあれば、売春婦のときもあれば、中にはヒーラーの時だってあるわけです。300通りの前世がすべて奴隷だなんて言われたら、めっちゃ落ち込みそうですが、普通はそんなこともないので安心していいと思います。
しかし、よく考えたら、前世が何だったか、なんて誰も確約できないわけなんですよね。10人のリーディンガーがいれば、おそらく10通りの前世を指摘するでしょうし、それを証明する方法もないわけです。江原啓之が言えば、それが正しいというわけでもありません。ただ一つだけ、正しいことは、今の自分が自分であるということだけです。塩沼大阿闍梨が荒行をやったところで、過去や未来との何らかの関連付けがあるわけでもなく、たまたま高校卒業したら、そういう道に入ってしまい、たまたま千日回峰行を満行しただけの話です。そしてそこで得られた経験をたまたま私が見聞きして、それに感動しているだけの話です。塩沼大阿闍梨にも別の道があったかもしれないと考えたくなるでしょうが、それはあり得ないのです。それがあると仮定するならば、それは二通りの「今」を経験することと同じだからです。具体的に言うと、今、私は福岡市内に住みブログを書いていますが、それと同時にブラジルでサンバを踊れなければなりません。もちろん物理的には不可能です。「今」という限りにおいて、別の道は存在しないのです。
与えられた選択肢は「今」を肯定するか、否定するかしかありません。それは「今」という制限された物理的空間から開放された、意識の世界の出来事です。「今」に対して、意識の世界だけが自由になるのです。もっと言うと、「今」に対して感謝するか、憎むかの自由があるだけです。それは選択の問題です。その選択にこそ、その人の「人生」が表れるのだと思います。今流行りの「自分探し」、、、もしかしたら、実は徹底した「自己否定」なのかもしれません。ひょっとしたら「探す」という「今」を存分に味わっており、そのこと自体に人生の意義を見出していると言う人もいるかもしれません。それはわかりません。ただ、あくまで表面的なところで見ると、「自分探し」に対して人の力、目に見えない力を拠り所にして、延々と行脚し続ける姿は、私の目には「自己否定」に映ってしまいます。
本当の私はこうじゃない、もっと私らしい世界があるはずだ、誰かがそこに導いてくれるはずだ、ちがう、こうじゃない、こうじゃない・・・と果てしない「自分探し=自己否定」をする人もいれば、泥だらけになった飯粒一つに最高の「今」を感じ感動する人もいるわけです。どちらが良くて、どちらが正しいとかの話ではないのでしょうが、私個人ならば、飯粒一つに感動できる自分になりたいと思うのです。
未来の夢や目標を持つことは大切だと思います。しかし、未来に夢や目標を実現するためにも、「今」を生きるしかそこに近づく術はないのです。結局、私のコーチングでも、ただ一つのフレーズに集約されてしまいます。それは「今、できることはなんですか?」という質問です。
今の私にとっては、本屋に私が書いた本が並ぶ、という目標に対して、今、原稿を書くという行動があるのみです。もちろん、他にもいろんなことをせねばならないのですが、それもすべて「今」の行動となります。結局はその小さな「今」の積み重ねが、夢を物質化し、人生を創っていくのだと思います。明日は久々に早朝に滝に行き、宝満山に登ってきたいと思います。そして「今」という自分を充分に感じてきたいと思います。ありがとうございました。
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この瞬間、私たちは実は何だって出来るんですよね。そのあらゆる可能性の中からたった一つのことを選んでしているわけです。例えば「ブロブをかく」とか。失われた何億もの可能性(例えば「ブラジルでサンバを踊る」とか)、「今」というリアリティは、それら瞬間瞬間に失われて行った膨大なものによって支えられているのだとしたら、今していることがいとおしく感じられます。あたかも準決勝で負けた人が、決勝に進むその相手の優勝を応援するかのごとく。。。すると「泥だらけになった飯粒一つ」に感動するって、とてつもなく贅沢なことのように思えます~。
非常に面白い指摘ですね。「今」という現実は、多くの可能性の上に選ばれたものだということですね。
そう考えると、ほんとに贅沢な今を過ごしてるのですね。
そこに気づくか気づかないかの違いがあるだけで・・