何となく感謝の涙 2006.9.27
2006年 09月 27日
①10月15日(日)、18:00頃~:オープン飲み会(先着30名前後まで)
②10月16日(月)、11:30頃~:ランチ会(先着15名前後まで)
私の日程的には、12日に大阪に帰り、二日間、講習を受けます。13日の夜か14日の朝に大阪を出て、14日の昼には東京です。そして東京で仕事をし、夜はプライベートです。そんで15日の日中もプライベートで、夜にオフ会をしたいと考えています。翌日は昼のランチでオフ会。その後は名古屋に寄ります。そこで旧友に会ったり、仕事したりして、おそらく名古屋でもオフ会をするかもしれません。東京ではきとりかさん、名古屋ではバナナンさんにお世話してもらう予定です。東京ですが、15日は人数も多くなりそうなので、30名前後の貸切を複数予約しております(3時間前後、飲み放題~4000円以下)。それだと、いろいろ動き回れるし、いろんな人との交流も出来ますね~。16日のランチは日曜日NGの主婦の方が中心かも~。ただ、15日の方が盛り上がると思います。なんてたって、貸切ですから~。人数を確定させたいので、出来ればお早めにご連絡ください。連絡先は<hisaxr13@f7.dion.ne.jp「15日(or16日)オフ会参加希望」>でメールください。30名を過ぎたら、打ち切らせていただきます。それにしても今年はいろんな人と出会う機会が多くって、嬉しいものです。そうそう、昨日も書いた、「滝行&あんでるせんツアー」はさりげなく書いたつもりが、早くも参加申込者が出ているので、必ず実現させたいと思います。
ところで、昨日の滝の話ですが、
朝早かったため、滝は夜に行く。9時頃に滝に入る。おばあさん行者が一人で滝に入っていた。その後に私も入る。今日もメニューを坦々とこなすだけ。祝詞、心経、真言。。。本当は集中しないといけないのだが、いろんな想いが頭を巡る。ふと、何かが降りてくる感覚もあり。真っ白になっている瞬間もあり。「オレって、なんで滝に打たれてるんだろう・・・」、とハッと我に返る。「人を幸せにさせて頂くって、どういうことだろう・・・」、「なぜ、人は思い悩むのだろう・・・」、「人はどういうときに、本当の悲しみを得るのだろう」、「悲しみは誰にでも訪れる」、「人生いいこともあれば悪いこともある、みんな平等だ、でも違うものがある、それは個々人の想い」、「今の自分に感謝する事が、人生で一番大切なことなのか」、、、とか思い巡らせていると、ふと涙が出てきた。感謝の涙。
などと書いています。久々なのか、初めてなのか分かりませんが、滝の中で涙を流してしまいました。「感謝」の涙なんです。近頃、100人コーチングを始めとして、いろんな人とお話をする機会が多いです。リアルな出会いも連日です。話を聴くことが多いのですが、そんなことで、滝の中でお経や真言をあげながら、ふと考えてしまっていました。「いつもここから」の「悲しいとき~」ではありませんが、人はまず、「どういうときに悲しむのか?」を考えてしまいました。いろいろありますよね。試験に落ちたとき。財布を落としたとき。友達とケンカした時。怪我や病気をしたとき。恋人と別れたとき。何もする事がないとき。試合に負けたとき。失業したとき。などなど。でも私が考える限り、最も悲しいのは、「愛する人(家族、恋人、友達)が亡くなったとき」だと思いました。もっと詳しく言うと、「今まで当然のように存在していたものが、突然無くなって、永遠に戻らないと知ったとき」です。例えば家族(や恋人)などは、今まで当然のように側におり、別に「愛している」ことを意識せずとも過ごしてきたのが、突然、なくなったしまったらどうでしょう。船井幸雄さんだったと思いますが、彼は若い頃、奥さんを事故か病気で亡くしています。亡くなってお通夜の後、家に戻ると亡くなった奥さんの作ったお惣菜が冷蔵庫に入っており、それを泣きながら食べたそうです。そこで初めて「いない」ことを実感したのだそうです。先日の飲酒運転で海に放り投げられて亡くなった3人の子どもなんかも、親にとってはやりきれない話です。突然、3人の子どもが亡くなったのに、家に帰ると、子どもの衣服や食器があるのです。ペットでも同じです。犬が死んでも犬小屋は残ります。インコが死んでも鳥かごは残ります。
「実体」はなくなっても「関係」は残ります。命という「実体」はなくなっても、お惣菜、衣服、食器などその命と関連してきた「関係」は残ります。「関係」が残っているが故に「実体」がなくなったことがリアルに浮き彫りになってしまうのでしょう。そこに本当の空虚な悲しみがあるのです。命でなくとも、何かの大会かステージのために一生懸命に準備してきて、それが終わった後に、使った衣装や道具を見ると、なんとも切ない気持ちになる経験は誰でもあることでしょう。魂をごっそり抜かれた感じになります。ましてやそれが「命」だったらどうでしょう。切ないを通り越して、救いようの無い悲しみが襲ってくるでしょう。私が考える「最大の悲しみ」がそこにあります。幸いかどうかわかりませんが、私はまだそのような経験をしたことがありません。でも、いずれはするでしょう。私よりも先に親が亡くなるのは自然の摂理でしょうから。
しかし一方で、多くの人が抱える悲しみというのは、ほとんどが、「うまくいかない」ことへの悲しみです。「試験に落ちた」「異性からフラれた」「稼げない」「人間関係がまずい」「することがない」「忙しすぎる」など、ほとんどが「自分でどうにかできるのに、うまくいかない」ことへの悲しみや憤りです。試験に落ちたのは実力が足りなかったから、異性からフラれたのは自分に魅力がないから、稼げないのは能力がないから、人間関係がまずいのはコミュニケーションが下手だから、することがないのは何もしようとしないから、忙しすぎるのは時間の使い方が下手だから、、、など、ほとんどが自分でどうにかできることです。または、他人や世の中に対する不満が原因となっています。他人や世の中なんてのは自分が変われば変わるものです。自分を変えずに他人や世の中を変えようとするところに、やりきれなさが生まれるのです。そしてストレスになって身体を壊します。
しかし、また一方で、「いまあるもの」「うまくいってるもの」もあるはずです。例えば、五体満足です。家族も元気です。生活できるくらいのお金はあります。仕事もあります。それなりに友達もいます。趣味だって無いわけではありません。そういう「いまあるもの」「うまくいってるもの」に対しては全然フォーカスせずに、「ないもの」「うまくいかない」ものに対して一生懸命にフォーカスして、一人で悲しみを背負ってしまうのです。世の中で自分が一番不幸であるかのように。少なくとも、両手のない人よりは、両手のある私の方が便利です。でも両手のない人は、そこから多くの学びがあったり、足があることへの感謝を表しています。手がないお蔭で悪いことができなくってよかった、なんて仰る人もいます。子どもが欲しくてもできない夫婦は、世の中すべてを我が子のように愛して、ボランティアに励んでいる人もいます。滝の中でそんなことを考えてしまいました。
私には、「ある」。すべては持っていなくとも、今日必要なものすべてを持っています。私が考える最大の悲しみも背負っていません。人との比較でなく、自分自身に何があるかを考えた時、私はすべてを持っていることに気がつきました。そう言えば、昨日、「あんでるせん」の行く途中の車の中で、友達がこんなことを言ってました。「悟り」とは「さとり」、つまり「差取り」なんだと。要するに、他人との「差」や「比較」を取り払って、自分自身を見つめることが本当の「悟り」なんだと。なるほど。よくわかります。つまりは稲盛和男さんがよく言うように、「足るを知る」ことが「悟り」なのかもしれません。「悟る」つまり「足るを知る」ことで、世の中の多くの悲しみはなくなることでしょう。そんなことを考えていると、今の私って、なんて幸せ者なのでしょうか。大好きな滝に入って、しかも、21日とか100日とか続けて入ることもできました。何とか生活だって出来ていますし、日々、いろんな人と会ったり、お話したりしています。夢だってあります。足りないものなんて何一つないことを悟ると、その途端、涙がどば~と出てきました。「感謝」の涙です。何度か書いたことありますが、中学の時の寮長先生が、人生で泣いていいときが二通り、と言っていました。一つは「親が死んだ時」、もう一つは「感動した時(わかったとき)」。親が死ぬ時は大いに泣くでしょうが、原則的にはそれは二回しかありません。でも「感動した時」の涙はずっと流し続けていきたいな、、、と思いました。そんなことを、昨日の滝から教えてもらいました。ありがとうございました。
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【21日滝行日誌 12日目】
8時頃に滝に入る。昨日の夜に会ったばおばあさんとまた会う。21日行も折り返し地点を過ぎた。やっぱ早いものだ。そしてエロい夢を見る。煩悩や。滝に打たれているときに、日の光が差し込む瞬間が気持ちいい。昼、夜、鮭チャーハンを作って食べた。


以前、すごペンを購入させていただきましたmakkoと申します。
今日の記事、読んでて胸がふるえて涙があふれました。
「本当にそうだよね~」って。
私の話でなんですが、数年前にQさんが書いてらっしゃるような
自分で何とかなるもののほとんどを失ったと共に、
自分ではどうしようもない流産という経験もしました。
悲しみを重ねたあげく、カラダも心もボロボロ状態になり、
何度も死のうとまでした大バカものですが、
おかげさまで数年かけて復活(?)することができました。
そして、生命、健康、笑顔、愛する人、仕事、情熱、、、、
本来あった(持っていた)いろいろなものを取り戻すことができました。
つらい思いしなくても、すぐそこに感謝の念が自然と湧いてくることが
いっぱいあるのですよね。
素晴らしいお話をありがとうございました。


意味があるんですね。
もがくことをやめれば何かがきっと見えてくる・・・
Qちゃんの滝行
回を重ねるごとにまた違うものとなっているような気が致します。
今日、日が落ちていく時間にこの記事を読めたことに感謝します。
ありがとうございます。
大切なこと、いろいろお話くださり、ありがとうございました。。
今生で「生かされている」には必ず意味があるので、それを知るまでは生き続けないとですよね。まあ、知る事が人生の目的ではないとは思いますが、そこに「感謝」があれば十分なのでは、、、と考えています。
makkoさんのブログにもコメントさせていただきました。
これからの活躍が楽しみですね!!
ほんと、そうですよね~

愛する人を亡くすという経験は、何時間も真冬の滝に打たれたり、世界中の人と出会い経験を積む事などを超越するほど大変厳しい修行です。
ある日突然愛する人を亡くす、余命宣告を受ける、その時からが本当の人間としての修行の始まりだと思います。自分自身ではそれらの事全て自分を成長させてくれたありがたい経験として感謝したところ、存命の母の身体から癌細胞が消えて行きましたしツイてきました。
以前成功者でもない人からモノを教えられるのに抵抗があるような事を書かれていらっしゃいましたが、今成功しても数10年後も成功し続けられるとは限りませんし、今失敗した人がある日成功するかも分からないのが人生です。成功した人失敗した人、と区別する事は傲慢に近く好きではありません。
成功したか失敗したかは死ぬ時に初めて分かるものだと思います。
コメントありがとうございます!!
本当に仰る通りです。まだまだ本当の辛さって経験したことないかもしれません。
ニュースなどで放映される事件などで、自分の身に降りかかったらやりきれないとは考えても、実際はまだまだ経験不足だと思います。
成功者云々の話は、単純に技術的な話だとお考え頂ければと思います。英語の話せない人から、英語の理屈だけ学んでもロスタイムと同じ理屈です。
でも「人生」という大きな範疇では、「成功・不成功」は相対的な概念だと思っています。死ぬ時に「成功」と思えば成功、どんなに冨を持っていても成功と思えなければ「不成功」だと思います。
死ぬ時に「成功した」と思えるような、悔いのない人生を送って生きたいと思います。