津留さんが早くに亡くなったわけ 2006.5.18
2006年 05月 18日

近頃、ジャズの話ばかりで興味のない人には恐縮なんですが、この本田竹広氏、今年還暦だったそうです。還暦というと、人生80年の今日日もう一仕事してもいい年齢で、ミュージシャンにとっては一番熟した時期なのかとも思います。言わば早死になんですが、先日、紹介したミシェル・ペトルチアーニは35歳、モダンジャズの開祖チャーリー・パーカーも35歳、不世出の天才トランペッター、クリフォード・ブラウンなどは26歳で亡くなっています。今年、生誕250年のモーツァルトも35歳で亡くなっています。天才や美人は薄命と言われますが、残された我々にとっては非常に残念な思いがしてなりません。手塚治虫も60歳くらいでしたっけ。彼なんてまだ途中の原稿を残して亡くなっているので、ファンにとっては生殺しです。そんなことを考えていて、ふと、頭に飛び込んできたのが、津留晃一という方のことです。私のブログに始めて登場する名前ですが、読者の方の中にはよくご存知の方も少なくないと思います。実は私、津留氏の著作を一冊も読んだ事がありません。昨日もみんなのメンターとして紹介した「実現くん」における願望実現の源のような人なのですが、当然、前々から知っておきながら、著作を手に取ることはありませんでした。私は人から勧められた本などはすぐに手を出す性質なんですが、津留さんの著作には一回も手を出そうとした事がありませんでした。理由はおそらく、既に亡くなった人だから、、、だと思います。斎藤一人さんにしても、小林正観さんにしても今生きているから読もうと言うのであって、亡くなった人、しかも一般よりも早くに亡くなった人の本をどうしても読もうとは思わなかったのです。芸術家はいつ死のうが問題ないのですが、「人の幸せ」や「成功」を説く人が早くに亡くなっているなんて、私の喩えでは病人が健康食品を勧めるようなものだと思っていたのです。そういう理屈でジェームズ・アレンの本も読んだ事がありません。
津留氏が若年死したことに関して、「実現くん」の「津留晃一さんのこと」のコメント欄にある読者から次のような質問がなされていました。
精神的指導者の中には、津留晃一さんやジェームズ・アレン氏のように若年死される方が時々いらっしゃいます。宇宙の法則に従い人生を歩んでいるはずの彼らが、生物としての生を何故全うできないのか?
私は思想は実践により証明されると考えますし、例えば高名な方でも不幸ばかりの人生だと、その思想に眉唾をつけてしまいます。
しかし津留氏やアレン氏の思想には何か根本的なものが欠けていたり過ちが含まれているようには思えない。
にも関わらず、何故老年を待たずしてお亡くなりになったのか?私にはどうしても納得できないのです。
“実現くん”氏はこの事実とどう折り合いをつけていらっしゃるのでしょうか?
この問いに対して「実現くん」は「わからない」と答えています。ニュアンス的には「わからなくてもいい」という考えのようでもあり、私もそれ以上追及する気はありませんでした。そしてこの読者の問いの「私は思想は実践により証明されると考えますし、例えば高名な方でも不幸ばかりの人生だと、その思想に眉唾をつけてしまいます。」には100%同意しながらも、実は最近、この「折り合い」についてなんとなく私の中で諒解すべき何かが出てきたように思うのです。
と。衛藤氏はその言葉を聞いて気が狂いそうになったそうです。自分が鏡を見て愕然としたことを母親が知ったらどんなに悲しむだろうか、、、余命幾ばくもない幼い少年はそんな気遣いをしたのです。「どうしてこんなに優しい、心の美しい少年の命を、、、神様はそんなに早く奪ってしまうのか・・・」、衛藤氏は文字通り気が狂いそうになったそうです。しかし、「すべてに意味がある」と考えることでその心が救われることになります。その少年は無駄に早死にしたのではなく、人に「優しさ」を教え、現にこうやって今、彼の教えた「優しさ」を伝えているではないか、と。仏教の世界では「この世は修行」という考え方をして、きちんと修行を全うした人は(まんぎょうマン)、文字通り「大往生」して、再び修行の地に戻ることはないのです。「老年を待たずして」というのは、「この世」という不自由な修行の場から見た浅薄な思い込みであって、全宇宙レベルで見たとき、この修行の期間が80年であろうと5年であろうと関係ないのです。少年は未だ修行中の我々に「優しさ」を教えて天に召され、高い次元から我々に向かって微笑んでいることでしょう。
それから最後にまたお知らせ。もう一ヶ月近く配信が止まっている「メルマガ」ですが、ようやく配信の方針が固まりました。今までのスタイルではどうも滞りがちだし、なんとなく義務感みたいなものが私を圧迫しているようで、どうにかせねばと思っていたのです。これまでとは方針をガラリと変えて、リニューアルした「週間!!『宇宙となかよし』」が再出発します。どうぞお楽しみに。ありがとうございました。

長生きって、日本一のお金持ちだから斎藤一人さんのお話を聞く、みたいな感じで現世的な、話を聞くきっかけでしかないような気がします。
何を残したか・・・。
誰もが忘れた時に本質的に現世的存在の死が訪れるとすると、津留晃一さんはまだ生きてますし、モーツァルトだって、お釈迦さまだって生きてますよね。
それは肉体のあるなしに関係なく、とてつもない長生きなんだと思います。
ボクは、津留さんがなぜよりによってガンで死んじゃったのかがとても疑問でした。
でも考えてみると、仏陀は毒キノコ食べて死んだし、キリストも磔にされたし、マホメットも高熱で死んでいるという、みんな様(さま)が良いとは決していえない死に方をしているということが分かりました。
そっと目を閉じ、すーっと死んでいき、魂の光りが天へと召されていく、なんて死に方をされようものなら、依存度が高くなるように思いますので。

私がよく訪問しているサイトの身近な方(セラピストさんだったようです)が先日お亡くなりになったことを知ったり、友人から昨日プレゼントされたマンガ本が死を取り上げたものだったり・・・。
私などもこうして元気に何不自由なく過ごしていると、命に限りがあることをついつい忘れてしまっていることがあります。
(肉体的には)永遠に続かないことが分かっていながら。
こうして何気ないときに死について触れたとき、命の重みや尊さに改めて気づかされます。
どういう死に方が正しいとか、若くして亡くなって可哀想だとか・・・そういうこと自体がナンセンスなのかもしれませんね。

津留さんしかり、今でも影響力の衰えない短命の方たちは、人生の使命を全うしたからこそ、早くに天に召されたんじゃないかなぁ。と思います。
死ぬということは新しい始まりでもあるわけですしね。

今のところ吐き気や頭痛などの好転反応はこれといってないのですが、夢見が妙にリアルでうるさく感じ(笑)ちょっと眠りが浅い気がしています。
今日のQさんの津留さんへの考え方私も全く同じように思っていました。
(なので津留さんの本は読んだ事がないです)
でも最近ちょっと読んでみようかな~という気がふつふつと沸いてきた
ところ、今日のこの記事!
これもペンダントのシンクロ効果でしょうか(ココのところこんなの多いです)

sakura358と申します。
津留晃一さんと聞いて、おもわずコメントしてしまいました!
私は、Qさんがおっしゃるとおり、「この世の修行(私は遊行と思っています)」に長い短いは全く関係ないと思います。
大切なのは、その期間をいかに自分らしく『うたし』に生きるかではないかと思う今日この頃です。
『幸せテクニック』は、私のお気に入りの本です。感想などをアップしてくだされば嬉しいです。^^
>そっと目を閉じ、すーっと死んでいき、魂の光りが天へと召されていく、なんて死に方をされようものなら、依存度が高くなるように思いますので。
なるほど。そうですね。フランダースの犬じゃあるまいし、死に方だけで神格化されちゃあ、残した遺産もかすむというものです(笑)
モーツァルトにしてもチャーリーパーカーにしても最後は悲惨な死に方だし、歴史に名を残す人ってすべからくそうなのかもしれませんね。
人間は皆、瞬間瞬間、「死」に向かって生きているのですよね。普段忘れがちなんですが。
かと言ってあまり「死」を意識しすぎても辛いので、「生」の長い短いに関係なく今を生きるのが勝ちだと思っています。
最近、よくシンクロしますね~(^^)
まさにすごペンのなせるシンクロでしょうか・・・(笑)
生の長い短い、その人格などにとらわれず、残されたものにきちんと向かい合って、自分にとってプラスになる部分があればそれでいいかな、と思っています。てなわけで、津留さんの本を読むのが楽しみです。ぶんちょこさんも是非一緒に読みましょう。
はじめまして、、、と言うか、お名前はよく拝見させて頂いております(^^)
今度、、、お会いできるのかな・・・??
「幸せテクニック」、、、読んで何か感じる事があれば、是非、感想をアップしたいと思います。


確かに多くの人は、皆に受け入れられる思想の人は、神のように全てにおいて皆の手本であるような、うそもつかない、金を儲けない、皆にやさしい、奉仕の人等、、であることを思っているのではと思います。しかし実際は人間ですから、裏は幾つもあるでしょう。云えるのは鵜呑みにしないことなのかなあと思います。受け入れられることだけを受け入れればと思います。生き(死に)神様的に、盲信的に全てを崇め奉ることではなく、相容れる所を受け入れ役立てることなのかなあと勝手に思っています。
コメントありがとうございます!
>受け入れられることだけを受け入れればと思います。
私も同感です。ようするに自分にプラスになる部分だけ、素直に取り入れられればいいのかなと思います。

はじめまして。コメントありがとうございます。
そう、人にはいろんな部分があって、他人がとやかくいうことじゃないんですよね。
本物でなければあれほど人に影響を与えることはないんですから。

なるほど!そういう考え方もありますよね。

今生きる私たちにとって、惜しむ先のビジョンを見せてくれるからです。
「他のために残す価値」が死に際に現れると考えると、いろいろ見えてきます。

・事象の善悪や上下は決まっていない。ましてや、生死の善し悪し、生の長短の価値も決まっていない。今を精一杯生きることに価値があるのであり、生きる目的は元々無い。
津留さんは、まさに教えを死を持って体現した人ですね。

ですから、Qさんが津留さんの死にどう意味づけするかが正解になるのでしょう。ふにゃふにゃしたコメントですいません。ふとそう思ったので。




津留晃一さんを検索し、こちらにたどり着きました。
たしかに、若くして亡くなられた方の本を読む気にならない というのにも納得でしたが、
コメントを拝見し、死 への捉え方も いろいろあって、おもしろいなあと思いました。
死に関してだけでなく、物事を 自分のいいように捉え、受け入れようと思いました。
ステキな記事とコメントをありがとう


こうした、宗教やスピリチュアル関係に携わる人々の早死にについてですが、ひとつはこうした分野を志向する人が抱きがちな、「罪悪観念」があると思います。
わずか37歳にして世を去った宮沢賢治は、はたして「珠玉の文学作品を世に残して現世の使命を終えた」のでしょうか?
彼は本来、法華経の使徒として、世の為に尽くさんとする、大なる理想に燃えていたはずです。
賢治は亡くなる十数年前から、自らの早世を予期していたとも聞きます。
しかし、彼特有の「世界全体が幸せでなければ、自分の幸せも無い」という観念が自らの身体的生命に制限をかけていなかったと、どうして言い切れるでしょうか?
難病で早死にする子供を通じて、人々に何かの気づきをもたらすという事はあるでしょう。
しかし、難病を含めた、この世のあらゆる悲惨が学びや気づきの糧となるでしょうか?
魂の学び、経験といった事柄は最終的に何の確証も出来ません。
その概念を抱き、この世のあらゆる事象をその解釈に当はめようとする試み自体もまた、人を蝕む罪悪観念となっているとしか私には思えません。

この世は、意識による遊び、神のリーラです。たった一つの源から、現象が現れてエネルギーを発散し終えたら、また収縮して一つになり、また発散する。これの繰り返しです。

