書くことの魔力〜表三郎回想 2026.1.3

12月からジャーナリングを続けているわけだけど、続けられるのって、僕だからって説もある。というのも、僕はもともとブログを毎日更新してデビューした経緯があるわけだし、ブログを書く前はサラリーマン時代も手帳に三行日記を続けていたし、その前の旅の間もずっと書いていた。

もっともっと遡ると、浪人時代も毎日日記を書いていた。その日記は現存するけど、読み返せない。30年後に読んでみてもいいけど。実のところ、毎日を「書く」という点で言えば、高校卒業してからほぼ書いていなかったのは「大学4年間」だけだと思う。いや、1年間は書いていたので、正確には3年ほどか。卒業して1年間旅に出て、その間は毎日書いた。帰国してからも書いていた。次第に三行日記になったけど、やはり書いていた。2004年からはそっくりブログに移った。

つまり、52年の人生で日記を書かない期間は「18年+3年」の21年間のみで、僕の日記歴は30年以上とも言えるわけだ。これから先の人生、毎日日記を書こうと思う。僕がなぜ「日記」を書こうと思ったのか。こんな言葉を誰かから聞いたのもある。

「日記を10年続けることができた人間は、何かを成し遂げた人である(原敬・元首相)」

もう一つ。僕の人生に大きく影響を与えた人物がいた。駿台予備校の表三郎氏だ。高三になる直前、春季講習で5日間ほど駿台の英語の授業を受けた。確か辰巳くんと一緒だった。

なぜ表氏の授業を受けたのかは覚えていないが、上級クラスで、僕は本来もう少し下げるべきだったのだと思う。しかし、英語はともかく、そこで「人生」を初めて学んだ。実は予備校には「表信者」がたくさんいたそうだが、僕もそんな感じになって、熱が上がっていた。

英文和訳を前から訳す独特のスタイル。「ポスト構文主義」などと言っていたけど、その時は意味がわからなかった。伊藤和夫という、「英語構文」を重視する参考書のアンチテーゼだったと思うけど、それが「ポスト構造主義」をなぞらえたものだと、1年後に知った。

伊藤和夫の主張を一言で言うと「英語は構文である」だ。つまりSVOCをしっかり理解すれば、受験英語は大丈夫とする。それに対し、表三郎の「ポスト構文主義」は、伊藤の構造主義を受け継ぎつつ、単純なSVOCの理解だけでなく、「教養」がないと読み解けないよ、みたいな話だったと思う。

ちなみに現代思想の「構造主義」は人類学の文脈で、いわゆる未開文明においても、文明国には預かり知らぬ「高度な構造(女性の交換など)」がある、という話で、それが「ポスト構造主義」になると、構造の流動性が指摘され始めた。

あの当時の思想の中心はマルクス主義である。表三郎は学生時代、文字通り革命家であり、予備校くらいしか就職先がなかったと言われる。革命とは「資本主義をマルクス主義に変える」ための運動のこと。しかしなかなかマルクスの言うように、弁証法的に発展してくれなくて、最後は暴力をも辞さなくなる。

10年以上前にKindleで買っていた『日記の魔力』を再読してみた。というか、前田なんとかの『メモの魔力』を思い出し、その連想で表氏の本があったのを思い出して買おうとしたら、すでに買っていた、という話。

そこには、「マルクスを捨てたけど、その経緯を話すと本何冊にもなる」と書かれていて、その辺を読みたいと思うものの、推測はできる。

一つには単純に、1990年代にソ連の壮大な社会実験が失敗に終わった現実に直面したこと。もう一つは、革命が成功しないのは構造のせいだ、という話があって、そこに絶望を感じてしまったことか。たぶんだけど。

つまり、ポスト構造主義の「ポスト」とは、構造を乗り越えるための希望的スローガンに過ぎなかったわけで、そこに受験英語のドンであった伊藤和夫に立ち向かうために(資本主義のアナロジーとして)、あえて「ポスト構文主義」などと言い出したのではあるまいか。

しかし思想家(宗教家)としての破壊力は表に軍配が上がるとしても、ついに伊藤和夫の牙城を崩せなかったという意味で、表は資本主義にも受験主義にも敗北してしまったのだ。

その昔、僕が日記を書こうと思ったきっかけの一つ。それは、どこかで表氏が「日記を書きなさい」と再三言っていたからだ。僕は翌年、浪人して駿台ではなく河合塾に行ったのだけど、表氏の親友ともされる現代文の牧野剛の信者になったのも、自然な流れだった。

『日記の魔力』を読み直してみて、確かに古いのは否めない。パソコン日記なんて言葉も出てくるし、紙に書く日記を否定さえしている。それはもちろん、パソコンの方が便利だからだろうけど、AIが社会に浸透した今、「中途半端」という意味において、パソコン日記は完全にオワコンだ。

むしろ今なら、表氏も「日記は紙に書いてなんぼだよ」と言いそうな気もするが、それは瑣末な話。ちょっと興味をそそられたのが、「日記を書くきっかけになったのがフッサール」みたいなところ。

フッサールの現象学は、そもそも構造主義なんてものと対極にあるし、もっと言うと、近代科学さえも相対化する破壊力をもって登場した。「霊を見た」という人がいたとして、それは「本物の霊」なのか「錯覚」なのか「そもそも霊などいない」のか、という議論が始まるのが近代科学的だとすれば、現象学は、「霊を見た」という人にとっての「霊を見た」という現象そのものからスタートする。

実は僕は、なぜだか浪人時代、現象学を受験勉強以上に読んでいた。おそらく、どこかのきっかけで知った「現象学」という言葉に酔ったのが発端だと思うけど、当然、最初から理解できるはずがない。

現象学を理解するには、それ以前の哲学史を勉強するしかない、ということで、予備校の行き帰りの電車では、常に「哲学辞典」を読んでいた。頭おかしかった。そのおかげで「倫理政経」だけは満点で、その科目の先生とも仲良くなり、「君は変だ」と言われたものだった。ついでに言うと、阪大文学部後期の「自由論文」の模擬試験では、全国11番にまでなった。

現象学と日記の接点。表式の日記には「事実だけを書け」とあり、確かに現象学的だ。ただ、僕はジャーナリング(=日記ではなく)では、気づき・感想・批判・悪口などもバンバン書く。「10年日記」には事実だけを書く、と棲み分けるつもりだ。

と、ここまで書いてきて、何のことかわからない人の方が大半だろうけど、つまりは僕と日記の付き合いは、そんなに簡単なものじゃない、ということ。

この正月から、また新たに「日記」に目覚めてしまい、「Qさん、どうなるんだ」と不安に思う人もいれば、それこそ「Qさんってそういう人だよね」と思う人もいるだろう。どっちでもいい。明らかにフェーズが変わったのが事実なのだ。現象学的に言えば、「日記を再び書き始めたQさん」が、いまここにいる、とい

夜、ジャズに行った。石川さんとみさとちゃんの。
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8月にお会いしたともさんも。先日の録音では譜面ベースだから大人しそうに見えたみさとちゃんが、実はブリブリ系だったことを知り、嬉しくなった。
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「十二支」って「十二音」みたいだなと思い眺めていると、ジャイアント・ステップスが「三合会局」であることに気づき、Xにポストした。

「なんだこれ! ジャイアント・ステップスの転調って、算命学でいうところの三合会局じゃないか! この図に倣えば、G=丑、E♭=酉、B=巳の『三合金局』になるわけで。十二支と十二音がシンクロしているのは既知だろうけど、コルトレーンの革命的楽曲と三合会局の共通点に気づいたの、世界で俺が初だと思う。この曲をもってジャズ史が大きく飛躍したように、異次元的飛躍を意味する三合会局の宇宙的真理について、コルトレーンは概念として知らずとも、察知していたと考えたらロマンがある」
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ジャズと算命学、両方にマニアな人ってあまりいないと思うので、何を言っているかわからないだろうけど、こんな余計な「気づき」に直面するのも、「書く」ことの効果だと思うのだ。

ジャズの後、家に帰ると「ご飯がない」と言われ、CoCo壱に行った。美味かった。明日は年末のレコーディングの仕上げ。とことんやります。ありがとうございました。


by katamich | 2026-01-03 23:39 | ■読書・映画 | Comments(0)