長崎の旅② 2005.8.13
2005年 08月 13日
朝食後、チェックアウト。まずは南に下って海水浴に行きました。高浜海水浴場という海です。車で接近すると海の家の人たちが手招きしています。そのうちの一つに入り、値段を確かめると、「1人1000円」と。これは高いので、こういうときこそ大阪人バックパッカーの血が滾ります。「福岡からやってきて、小一時間しか泳がへんのに1人1000円は高いんちゃいますか。せめて1人500円でしょう。」、と。すんなりその値段でOKしてもらいました。写真は「海と俺」です。よく見えないと思いますが、中央左上あたりで水色の浮き輪をしているのが私です。私は泳ぐのがあまり得意ではありません(背泳ぎしかできません)。
水平線の付近になにやら変な形した島が見えます。そう、これが「軍艦島」なのです。是非リンク先の画像を見てみてください。とてもショッキングです。
遡ること江戸時代。この小さな島に石炭が発見され、その後の日本のおける産業革命により、大規模な掘削が開始され、島全体を三菱が買い取った後、南北約480m、東西約160mという小さな島に、全盛期で5200人もの人が住んでいたそうです。そこには学校や病院はもちろん、映画館や娯楽施設なども揃い、ましさく「全てがここにあった」と言っても過言はなかったでしょう。そして、当時に生きる人のどの位の人が、現在の姿を想像できたでしょうか。その後「石炭から石油へ」というエネルギー革命により、全国の炭鉱が次々に閉山され、軍艦島も1974年に閉山しました。全ての島民が島を出て行くことを余儀なくされ、まもなく廃墟だけが残された完全な無人島になってしまい、今に至るのです。
「全てがあった、でも今は何もない島」なのです。私はこの島に社会の条理を感じます。形あるもの全てが永遠ではないのです。そして今もまた、軍艦島予備軍となる人や組織がたくさんあります。いつまでも軍艦島に残ることを欲している、いや、軍艦島しか生きる場所がない人がたくさんいるのです。当時は軍艦島を捨てても、世は高度経済成長からバブル経済の時期でしたので、食うには困らない時代でした。しかし、今は取り残されては本当に取り残され、最悪の場合、年間自殺者30000人の中に入ってしまうのです。世は「モノから情報へ」とドラスティックに社会が変わっていき、もっと凄惨な軍艦島が近い将来も頻出することでしょう。海水浴をしながら、そんなことを考えていました。
海水浴の後は、そのまま岐路に立ちます。途中いろいろ道草を食いながら。夕方には再び武雄市に戻ってきて、ついでに武雄温泉に入ってきました。この温泉は以前も入ったことがあるのですが、保温効果がめちゃくちゃ高く、また、肌がすべすべになり美肌効果も抜群です。私の知り合いにはこの湯を冷やして飲んでいる人もいます。一風呂300円なので、とてもリーズナブルです。こんな温泉が近くにあれば毎週でも入るでしょうね。
夕食は家の近くで「地鶏」を食べました。前から気になっていた店でした。オープンな店の造りで地鶏のバーベキューをいただきます。ごちそうさまでした。
そういうことで、とても充実した二日間でした。ありがとうございました。
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