「どうぞご自由に」は批判されるべきか? 2021.12.22

滝行、満行しました。今日はそこまで寒くもなく、非常に気持ちの良い滝でした。般若心経は7巻あげました。写真は手前が導師。
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滝の前で少し撮影し、帰ってから田んぼで撮影しました。


昨日の動画はエネルギーを感じた方、かなりいたそうです。今日はリラックスして田んぼですが、内容的にはちょっとセンシティブ。テーマは「自由」についてで、この話は何度かしてはいます。なぜ人を殺めてはいけないのか。それはその人の自由を奪うから。自由を重んじるからと言って、それは決して好き勝手わがままではない。「自由」は個々人に独立して存在しているのではなく、この宇宙に一つの球体として存在している。自分勝手をすると、誰かの自由が侵害されるかもしれない。それは自由とは言えない。

動画のたとえ話が良くなかったのは承知の上で、やっぱり批判コメントもあった。世の中に「不倫」ってのがありますが、これは民事上は処罰の対象になります。おそらく風紀の乱れ、国家システムの柱となる「家族」を脆弱化させるからってのもあるでしょう。しかしここに「自由」って前提を入れるとどうか。極論で言うと、「誰も不幸にならなかったらどうか」って問題があります。もちろん不倫そのものを肯定するわけではありません。しかし世の中にはそれで真に幸せになる人もいる、みたいな話をするから物議を醸すのでしょう。


たとえばこんなケースはどうだろう。明日の食べ物を心配するような母子家庭があった。お母さんは健康に問題があり、仕事もままならない。家にはお腹を空かせた4歳の娘がいる。見るからに栄養状態もよくない。歩いていると、お地蔵さんに置いたばかりのお饅頭が備えてあった。娘に食べさせたい。しかしこれを持って帰るのは「窃盗」で法律違反かもしれない。ただ、このお饅頭を放置していると、どうせ腐るか虫に食われるだけ。だったら、娘に食べさせたところで、誰も損はしないし、娘は満足する。ここでお饅頭を取ることは窃盗だと裁いて、娘さんが満足する自由を奪うことにはなりはしまいか。

以前、お寺のお賽銭箱に「お賽銭泥棒は警察に突き出します」みたいな厳しい張り紙があるのを滝の導師が見て、「ほどこしゃいいものを・・」をつぶやかれたのが印象的でした。誰だって盗みたくて盗んでいるわけじゃない。お寺だって毎日お賽銭を集めるのだし、その隙間のわずかなお金、本当に必要なところに行くことに、何の罪悪があろうか。法律の世界では犯罪であったとしても、仏の世界ではどうなのか。お寺のお賽銭は非課税で、そのまま寺の収入になります。それでベンツを買うところもあります。ベンツを買うなとは言わないけど、そのわずかなお金が乳飲み子の栄養に充てられるなら、どちらを是とすべきなのだろうか。


以前、とある女性3人と飲んでいました。その中の40代の女性、男性とお付き合いしたことがなく、経験もありません。そして今、妻子ある男性から交際を申し込まれている。交際と言うか、身体の関係を求められている。その女性は、よくないと知りながらも、その男性に対して好意を持っている。どうしましょうか、、、と話になりました。この文脈だと、その女性はおそらく「背中を押してほしかった」のだと思う。その話を聞いたある女性は、「私の基準は墓場に入る直前に後悔がないこと」だと言い、どちらかと言うと背中を押すスタンス。

それに対しもう一人の女性は「ダメよ!あなたにはもっとふさわしい男性がいるの!絶対にダメ!」と猛反対しました。「もっとふさわしい男性」が実際にいるのならベストでしょうが、その確証も今はない。ここで断ってしまえば、もしかしたら今後求められることもないかもしれない。自分は受け入れたい。断ったらきっと後悔するだろう。一人は背中を押してくれた。でももう一人は猛反対。正論は確かに「猛反対」になる。だけど、、、あなたならどうアドバイスする?

ってことで、宇宙の球体としての「自由」を前提とした場合、法律や習慣、常識こそが、その「自由」を侵害することもあるのかもしれない、、、という話でした。法律違反をほう助する意図はありません。考える材料ってこと。お饅頭のケース、そして40代女性のケース。どうだろう。僕の意見は「どうぞご自由に」です。ありがとうございました。

by katamich | 2021-12-22 23:39 | ■人生哲学 | Comments(0)