「福祉」は今も昔もおせっかいとか言ったら怒られるかな? 2018.8.12

二日目は9時半からゼミ合宿で、大学院生の報告が中心。テーマはどちらかと言うと現場よりで、ボランティア、精神障害者福祉、介護と外国人労働者、児童福祉の歴史、みたいな内容が続きました。20年前はほとんど毎日この手の話を聞いていたのをなつかしく思い出しました。


その当時は「介護保険」が導入される直前のことで、いわゆる「介護の市場化」ってスローガンで現場の人からは批判ガンガンでした。福祉の人、と十把一絡げはできないと思いますが、一般的にロマンティックな人が多いようです。福祉を金儲けにするなんてとんでもない、福祉は奉仕だ、善意だ、愛だ、みたいな傾向が強いような。20年たって、財政的な見直しはあるものの、介護保険自体は破たんすることもなく、平然と社会に浸透しているんじゃないでしょうか。


「福祉が愛」って考えは、おそらくキリスト教的博愛の精神に基づくんだと思いますが、かつてその総本山は「同志社大学」でした。今はわかりませんが、かつては福祉を学問として教える人の同志社の占める割合は少なくなかった。


「福祉」という概念がない時代、戦前も戦前の話ですが、環境は確かにひどすぎた。それを見たキリスト教の洗礼を受けた知識人、そしてマルクス主義の洗礼を受けた知識人たちは、「どうにかしなければいけない」と思い、立ち上がった。

極端に言えば「福祉」とは「キリスト教」、そして「マルクス主義(左翼)」とイコールだったのです。そしてその人たちがいなければ、日本の福祉が立ち上がるのはまだまだ遅かったでしょう。


ただ、うがった見方をすれば、キリスト教もマルクス主義も「おせっかい」なのです。キリスト教はもちろんですが、マルクス主義もその本質は宗教です。理論に基づいた宗教と言う意味では、昨今の「~の科学」などとは比べるものでもありません。少なくともマルクスは霊と対話はしませんでしたし。


マルクスの理想は「資本主義は貧富の差が拡大して、いずれ内部崩壊して完全に平等な理想の社会が作られる(共産主義)」ってものでした。その思想に影響を受けた知識人たちは、そんな「理想」に向かって拷問されようとも負けずに日本の福祉や労働環境の改善に勤めました。

ただ、マルクスにも誤算がありまして、確かに資本主義で貧富の差は拡大しましたが、「修正」することで落ち着いてしまったわけです。公共投資、各種制度によって修正する。いわゆる中産階級が出現し、それでそこそこ満足して生活ができてしまう。結局、内部崩壊を待たずに共産主義を作ってしまったソ連、中国、北朝鮮、東欧、東南アジアの一部(カンボジア、ベトナムなど)は、国自体が解体するか、都合よく資本主義を導入することで、その理想は滅んでしまいました。


キリスト教にしても、「聖書」って強烈な基軸を元に、「世界がキリスト教になれば平和になる」と本気で思い、世界中を植民地化し、場合によっては先住民の文化や生命を奪ってまで、自分たちの理想を広げようとしました。

ちょうど今、「潜伏キリシタン」で世界遺産になった「天草」にいますが、当時のキリスト教など異教も異教で、かなり残忍なところもあったわけですよ。ただ、そんな手段はともかく、目的や理想は美しい。日本にキリスト教も受け入れた方が今よりも絶対によくなる。


ただ、日本には神道や仏教など土着の宗教があった。キリスト教さんに救ってもらわなくても、救われるもんね。そもそも神様がいるんなら、洗礼を受けようが受けまいが同じじゃない?みたいな問答をしたとも伝えられます。

それでも、キリスト教のそのような「おせっかいさ」は貧しい人たちには受け入れられます。なぜなら、わざわざ探しに来てくれて、救ってくれるのだから。仏教や神道も貧しい人を救う精神はもちろんあるのですが、基本的に「来るもの拒まず、去るもの追わず」であって、わざわざ探したり、広げたりするようなことはない。


仏教などはインドで生まれてから、むしろ追われるように四方八方に広がっただけで、力づくで布教するものでもなかったわけで。ただ、貧しい地域、貧しい時代には「キリスト教」が圧倒的にありがたく、その「おせっかいさ」ゆえに広がっていくのもわかりますし、実際、キリスト教的精神によって近代化が進んだ側面もあります。


もちろん仏教・神道とキリスト教と、どっちがよくてどうとかって話ではありません。単にキリスト教っておせっかいだな~と思っただけで、良い悪い別として、福祉とキリスト教には親和性があるのもよくわかります。「福祉」ってそもそもから「おせっかい」で成り立ってる部分もあり、そんなこと言うと怒られるのでしょうが、なんかやりたがる人が多いな~って印象はありますよね。


たとえば「協議会」なんて話がすぐに出てくるのですが、これは当事者と地域・コミュニティをつなぐ役割だったり、推進主体になったりするもので、いろいろ計画したはいいけど、推進する主体がいないから「協議会」をつくっちゃえ~ってのは20年前から言ってたし、今日も言ってたし、まったく変わってない印象を受け、ある意味、ブレてないと好意的に見る反面、ちょっと揶揄したくなる側面もありました。


20年前と今と、まったく違うファクターがあるとすれば、それはインターネット。当事者やその家族の悩みを具体的に解決する舞台として、役所やNPO、協議会も必要な部分はあるでしょうが、ネットコミュニティで解決される部分も多い。昨日の報告の中で「ガンサバイバーの就労ケア」みたいな話がありましたが、セルフヘルプグループ(ピアグループ)のようなものは、すでにインターネット上にたくさんあって、そこで解決されることも多い。


昨日・今日の議論の中でインターネットの話が誰からも出なかったのがとても不思議でありながら、「らしい」とも思いながら、休憩時間にちょっとふってみたら、「変な人がいる」などと10年以上前のテーゼからまだ脱してないんだな~と、ちょっとビックリもしました。


今回、私は聞く側の一方で、何らかの報告をする時間がなかったのは残念でしたが、言いたいことたくさんあったし、その意味でいろんな気づきをいただけて、実に有意義な二日間でした。次回も呼んでいただけたら参加しようと思います。ただ、その時は私にも「発表」の時間をいただきたいもの(笑)


あ、もちろんタイトルで「福祉はおせっかい」と言ってますが、不要ってわけじゃないですよ。まだまだ、そしてこれからも「福祉」は必要でしょうが、でも、「福祉」って言葉自体はなくなってほしい気持ちもありますね。「福祉=慈善、愛、ボランティア、弱者」みたいなイメージが長年で定着してまして、それこそ戦前の「福祉」と今の「福祉」とでは量的にも質的にもまったく違うわけで、それを同じ言葉で括ってしまうのは無理があるもの。より良く生きるのが当たり前で、誰もが「いい気分」な社会を作りたいと改めて思うのでありました。


と言うわけで、終了後、私は自転車で「天草(本渡)」に行きました。途中の「道の駅」でいつもの定番の写真。
「福祉」は今も昔もおせっかいとか言ったら怒られるかな? 2018.8.12_b0002156_16514836.jpg


50キロほど走り、7時半には到着。宿は取ってなかったのですが、楽天でカプセルが6室ほど空いていたので、ギリギリでいいやと思って到着して電話すると満席。オーマイガー。Google mapで「旅館」で検索すると、いくつか出てきたので、近くのに電話をしたらOKだった。隣の居酒屋で郷土料理も食べた。「YouTube100本ノックを挑戦中」で、こちらが今日の行程です!




よかったら見てくださいね。まだまだ練習段階ですが、これから先、いろんな構想があるので、どうぞお楽しみに!ありがとうございました。


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Commented by たまお at 2018-08-13 21:15 x
いつも動画の類は倍速で見るので
フェイスブックライブの動画は倍速ができないものですから、密かに「QさんYouTubeに投稿しないかな〜」って思ってたんですよね
Commented by katamich at 2018-08-17 15:02
> たまおさん
ありがとうございます!
Commented by 当事者より at 2018-12-29 17:21 x
当事者です。
福祉や医療の方たちに、お節介な人が多くいるのは、私も長年の治療から感じております。
お節介な人と、そうではない人の二種類が確実にいます。
お節介な支援者は、人の役に立つことで自分の存在意義を感じたい人なのだと私は思っています。なぜなら、お節介な支援者は、相手のニーズを知ろうともせず、自分が良かれと思うことを勝手にしてくるからです。そして、こちらのこうして欲しいという具体的な要求は、無視する傾向があります。恐らく、周りの評価が欲しくてやってるような人で、本質的には親に認めてもらいたい気持ちを乗り越えていない人ではないかと感じます。そういう支援者は大抵、適切な心理的境界線も引けていませんから、やたら馴れ馴れしいです。
一方、お節介でない支援者は、こちらの要求する必要最低限のことだけしてくれたら、あとは放っておいてくれます。非常にあっさりした人たちです。

お節介な支援者は、依存心の強い障害者には便利なのかもしれませんが、依存を深めるだけだと思います。
本当の支援とは、障害者の自立を助け、自立の邪魔をしないことなのに、お節介な支援者はそれがわかりません。平気で邪魔してきます。
障害者支援だけでなく、介護、子育て、教育に至るまで、様々な分野でお節介な人は、相手の依存を許し、深め、それを助ける役目として、自分の存在価値を継続しようとします。
だから、キリスト教を布教してきた人も、人の役に立つことで自分の存在意義を確認したい人なのかもしれません。
by katamich | 2018-08-12 23:39 | ■まちづくり | Comments(3)