滝行 考 2017.4.13
2017年 04月 13日
私など正直、他のブログ、ほとんど読めていません。毎日欠かさず読んでいるのは、自転車世界一周ブログと高野さんのジャズブログと、あとはBLOGOS辺りをチラッと読んで時事ニュースをおさえるくらいかな。その意味では私はやっぱりエセスピなのでしょう。
ヒトシ君は口調こそ乱暴ですが、フリーアナウンサーの長谷川豊さんのように、乱暴でないと読んでもらえない時もある。だけど、度が過ぎるとブログを畳まなければならなくなるリスクもあり、現に長谷川さんは半年休止しましたし、ヒトシ君も過去に数回、ブログを閉鎖しています。あ、あくまで架空の話ですが。
とにかく、それくらいリスクを背負って書きながら、他のブロガーに多大なる貢献をされているわけです。事実、ヒトシ君経由でアクセスの流入はあると思いますし、それは私に限ったことではない。他人のフンドシとのご指摘も受け、さすがにその認識はなかったものの、形として借りたことになるのかな。ただ、他の方はそんなき◯ないフンドシ、見向きもしないのですが、好奇心旺盛な私はつい受け取ってしまうんです。悪い癖だよと何度か言われながらも。
いずれにせよ、ヒトシ君が毎回レビューしてくれるので、アクセスは増えるし、多くのブログがその恩恵に与っていると思います。なので、遠隔ヒーリングはともかく、ハーブは買ってあげてほしいところです。おそらく皆さんからの感謝の言葉もないと思いますので、私が代わりに言っておきます。ありがとうございます×2万5千回。明日も愛のレビューを楽しみにしています!(写真はアイスランドの滝と虹)
さて、そのヒトシ君が「滝行」の話を聞きたがっていたので、今日はその話、します。今朝も滝行に行ってきました。一週間なので、今日が折り返し。2004年8月から始め、だいたい年間100日平均で行ってますので、通算で1300回は行ったかと。始めたきっかけは60代の知人男性と話をしてる時、たまたまそんな話になってオレも行きたいと言ったことから。当時はまだサラリーマン。そこで天台修験の導師と出会い、一通りの作法を覚えてから21日間、100日の滝行に入りました。最初は導師について、21日行を終わってからは一人で行ずることも許される。
そして今日も行ってきたのですが、しばしば話に上がるのが、「滝場には幽霊がいる」という指摘。「雑霊・邪霊・ケモノ霊の交換の場」と言う人もいる。ただ、私はこれまで13年間、1300回近く滝に打たれていますが、見たことがない。いや、それは私が見たことがないだけで、実際にいて、そして憑りつかれているんだと言われるかもしれない。「そんなことはない」を証明するのは悪魔の証明で不可能ですが、ただ、実感がない。しかし推測はできる。
滝場に、「雑霊・邪霊・ケモノ霊」がいると思っている人には、いる。これはこの世の仕組みそのものでもあるんですが、「あると思っている人には、ある。ないと思っている人には、ない」がすべてに。これは滝場とかパワスポとかに限らず。
「この世は楽しい」と思っている人には楽しい世界になるし、「この世は辛い」と思っている人には辛い世界になる。スピリチュアル系のブログを見ても、批判的な部分ばかりが目に付く人は、その人の根底に批判的な種が植えられていて、物事と対置したとき、それが発芽するだけのこと。もちろん批判そのものは社会を発展させる上で不可欠だけど、批判する当事者は、批判される人以上に苦しい責を負っている。毎日、批判する対象を見つけては発表するのだけど、それはその人の中にある「苦しみの種」のようなものを発芽させないと身体がもたないから。
だからこそ、毎日、多くのリソースを費やして批判(本当は「愛(笑)」だけどわかりやすくここでは表現)にあてるのだけど、本人にとってそれがヒーリング効果になっている。ただ、残念ながら「苦しみの種」を発芽させたとろで、また同じ場所に種がまかれてエンドレスで批判を続けるだけ。そのループに本人は気が付いていないので、たとえ同じ内容だとしても、単なる臆見だとしても、新旧問わずブログを見ては批判を繰り返すことになる。だからこそ、身体の「軸」や、ハーブ、波動グッズ等で外側からの癒しを探求して、相応の知識を備えるのは合点がいく。
10年前からブログの衣替えをしながら延々と批判(愛)を繰り返すこの人に、少し興味があった。おそらく実生活では「いい人」なんだろう。ボランティア精神もあり、道端のゴミを気づいたら捨て、賞味期限の近いものから買い、もちろん目の前のクライアントさんのために誠心誠意尽くす。しかし、それがネットでは、そんな「いい人」の仮面を被る必要がなく、言いたい放題にできる。つまり、自己ヒーリング。
久々にそのブログを見つけ、相変わらずのぶれない批判(愛)精神に感服した。ブログランキングで自分のことが書かれていると、やっぱり見てしまう。するとめちゃくちゃに批判されている。そこで一部のブログは「批判はよくない」のような記事を上げる。すると、本人は喜々として「『批判はよくない』と言う批判をしている、つまり、あなたも批判している、ゆえに私の批判は正当である」というメタ論で対抗するので取り付く島もない。そして放置され、再び自己ヒーリング(批判)を始める。
そこでどうだろう。逆にこの人を褒めたらどんな反応をするだろうか。こんな風にリアルに批判を繰り返す人が周りにいないので、一種の人間探求として実験してみたくなった。すると案の定、批判的な態度を繰り返す。では、もうしばらく付き合ってみようか。ぶっちゃけ、「Qさん、もうその人、関わらない方がいいよ~」とも言われ、おっしゃる通りなので、これを最後にしようと思う。いや、時々はまたいじるかもしれないけど、ま、そろそろ飽きてきたのも正直なとこなので。
話を戻すと、滝場を例にするなら、その人の中に「雑霊・邪霊・ケモノ霊」が存在するなら、そこはその交換の場となる。一方、私はこの13年間、通算1300回、滝に打たれているのだけど、正直、実生活は上手くいっている。本当は今の10倍は上手くいくはずで、それを滝の霊が邪魔してるからその程度なんだとの可能性もあるけど、それでも私は今の状況にとても満足しています。たとえば収入で言うなら、滝を始める前の10倍になっている。
では、これは滝のおかげなのか、または、せいなのか。結論から言うと、まったく関係ない。もちろん古来から、主に密教、修験、古神道などで行われてきた由緒ある行法には違いなく、おいそれと手を出すものじゃない。ときどき誰の指導もなく、自己流で滝行をやっていますと報告する人がいますが、絶対にやめてください。それなら風呂場で水垢離をした方がいい。
その点、私は一応は天台の流れを汲む導師(酒井大阿闍梨の元で得度)の指導の元で最低限の作法と手順を学んで許可を得たから続けている。しかも福岡県にはなぜか修行のための滝場が複数あり、私の家からも車で20分のところにあるから、その辺の手軽さもある。もしこれが片道二時間とかかっていたら続けていないだろう。正直、本職の行者でもないので、そこまで負荷をかける必要もない。
ようは、私が滝行を続けているのは、たまたま都合の良い条件が揃ったからであって、しかも、それは日々のいろんな身体のこりをリセットするのにちょうどいいから。出張も多く、人と接する機会も多いので、精神的な疲れがたまることもあり。もちろん滝でなく、マラソンでも、ボクシングでも、合気道でも、カラオケでも、なんでもいいのだけど、私は13年前にたまたま滝行に出会って、それが今のライフスタイルに溶け込んでいて都合がいいので続けているだけ。
その意味で、霊性開発や人間力向上などとはまったくの無関係であり、都合がいいからやっているだけ。もちろんそのスタンスに導師も賛同。これをしてエセスピと言うなら、もちろんそれでいい。スピとかエセとか関係ない。決められたルールの元で自分がやりたいようにやればいいだけ。
こだわらず、求めず、ただ淡々と。滝に入って冷たい、痛いと言うのは、己の都合。勝手に入ってきて、何を言いよるか。滝はただ、そこにあるだけ。霊がいる云々も己の都合。己の心に魔物が潜むなら、その場は魔物の巣窟。滝は物言わず流れているだけ。仏だの悪魔だの己が勝手にぬかしとるだけだろ。心に仏がおるなら、そこは仏の場。そうじゃなければそうじゃない。何もなければ何もない。外野で言いたい放題、何を言いよるかって!
それは滝場に限らず、パワスポに限らず、職場も、家庭も、風呂も、トイレも、みな同じ。スピな人は、とかくどこそこは波動がいいだの悪いだの言いたがる。それも己らが勝手に言ってるだけ。世のパワスポだって、確かに物理的に気持ちのいい場所はあるけど、それも人間どもが勝手にパワーだのエネルギーだの言ってるだけ。その場所は人間がそんなこと言う数百万年以上前からただあるんだよ。
まあ、オレも旅行とか、放浪とか、パワスポとか、好きでよく行くけど、そんなこともすべて承知の上で、ただ、自分たちが楽しく、気分がいいから行けばいいだけ。そこに「パワーがある」なる物語があれば、それはそれでまたよし。その「場」は何も言わない。己らが勝手に言ってるだけなんだ。そしてそれでいい。
だとしたら、どんなこと言って生きていきたいか。それも選択でしかない。ただ、己の心に魔物が宿ったら、それはどこだってそうなる。ネットの世界にもそれは広がり、やたらと毒を吐く人もいる。それは、ネットの世界がどうとかではなく、それもまた己の心がそこに反映しているだけ。だけど、見ると素晴らしいブログもたくさんある。いや、ヒトシ君ブログも含め、どれも素晴らしい。そして己の心に仏がいるなら、その素晴らしい部分を見つけて、人生をもっともっと良くすればいい。
「ツイてる」を「ラッキー」の意味で使う人もいれば、「憑いてる」とおどろおどろしい解釈で使う人もいる。どっちでもいい。けど、どっちが自分にとって都合がいいか。私は「ラッキー」の意味で使っているから、やっぱりラッキーなことが続く。滝行の意味も、言葉の意味も、すべては己の心の反映に過ぎないのだから。
そして、滝行を始めて、一切の霊性開発もない。霊も見えない、聞こえない、感じない。人間力だって相変わらずだ。だけど、それでもライフスタイルの一つにたまたまあって、定期的に滝をいただいては心身をリフレッシュするとともに、ありがたいと感謝するだけ。
確かに霊性開発を目的に来る人はいるけど、たいてい三回で来なくなる。なぜなら霊性開発などしないとわかるから。その人はそれでいい。また何かセミナーとかワークショップとかパワスポ巡りとかして、ジプシーのように彷徨えばいい。いつか気づく時が来るでしょうし、自分で気づくしかない。
私の場合は、たまたま滝行の機会があり、近所に滝場があり、都合がいいから続けているだけで、そうじゃない人の方が大半だろう。だとしたら、水垢離でも、瞑想でも、エネルギーワークでも、ヨガでも、筋トレでも、なんでも自分にとって都合の良いことを、都合の良いやり方でやればいい。もちろんやらなくてもいい。そんな特別そうなことは必要なくて、ただ、淡々と目の前のことに心を込める。それ以上に素晴らしいこともない一方で、そうでなければならないという理屈もない。それぞれが、自分の好きなように生きていけばいいじゃないですか。
と言うわけで、今日も長々とお疲れさまでした。最後に、滝行について「それらは口外するものではない」とのご意見がありました。それは半分は正しい。もちろん密教なので、導師からの口伝の部分が大半。作法のやり方とか、ま、いろいろ言えないこともあります。なのでそれは書かない。だけど、「滝行やってます」は書いてもいい。なぜなら導師がOKしてるから。密教の世界は口伝であり、導師の言うことが絶対。なので、「滝行やってます」自体も言っちゃいけない人もいるでしょう。「口外してはいけない」はその人のルール。ただ、私のとこは過去にNHKで取材までされてちゃって、そんなことは言えなくなりましたが、
以上、滝行については何かればまた追々書きましょう。ヒトシ君もこれからも頑張ってください。愛のレビューでアクセスをどんどんまわしてくださいね。あなたの惜しみない振る舞いに感謝します。ありがとうございました。
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