なぜ、お金はアファメーションに弱いのか? 2016.3.8
2016年 03月 08日
そして日中はなにしてるかというと、本ばかり読んでます。朝に滝行に行って、なんやかんや家にいると騒々しいので、たまにカフェに行ったりするも、夕方には子どもたちの世話(歯医者、プールなど)が毎日ありまして、なんか集中できない感じ。
3月19日(土)の大阪セミナーの案内文も書くつもりでいながら書けていない。このセミナー、他でするかは未定だけど、そこそこ小難しい内容になるかも。
テーマは一言で言うと、「『物質的世界』から『量子的世界』への次元上昇」となるでしょうか。
ここ最近、物理学や哲学、世界史の本をよく読んでいまして、旅先でもテントの中でキンドルで読んでました。そもそも私自信の本の原体験が哲学でして、二十歳前後で貪るように読んでいたのが今にして生きてる感じ。
で、今日は「分析哲学」の入門書を読んでて気づいたのですが、以前、「数字はアファメーションに弱い」って話しましたよね。あれは自分自身の直観と経験によるものなんですが、やっぱり正しいことがわかりました。
年収10億円の謎のH氏から教えてもらった「億万長者のアファメーション」ってありますが、あれってめちゃくちゃ「無機質」なんですよね。唱えててワクワクもしなければ、イメージもできない。ただ無機質に、決まった語句配列に数字(金額)を当てはめて唱えるだけ。
なんだけど、私はこれで500万円の臨時収入を得ましたし、直接聞いた中では最大5,000万円の人もいました。もちろん100万、200万はザラでして、それをよりパワフルにしたのが『運がいいとき、「なに」が起こっているのか?』の144ページ。
先日、脳科学の杉本氏とお会いしたとき、「あの144ページは集合的無意識に直結しますね。私もあれで・・・」と言われていました。あのページ、マジでハンパないですから。
話を戻しますが、なぜ、数字(金額)はアファメーションに弱いのでしょうか? つまりなぜ、数字(金額)をアファメーションするだけで、その通りの金額が通帳に振り込まれる(可能性が高くなる)のか?
これも前提に「物質的世界(古典物理学的)」から「量子的世界(量子力学的世界)」への転換があるんです。
「物質的世界」では、まず、「現象」ありきで世の中をとらえます。「現象」とは物質的世界に起こりうること全般であり、つまりは「目に見える世界」のこと。目の前にリンゴがあるのは、あるからあるのであって、それは自分の認識とかリンゴ以外の関係性とかから完全に独立した「実体」としてとらえます。
一方、「量子的世界」では、リンゴは「認識」して初めてリンゴとして存在するのであって、無限にある可能性の中からリンゴを選択することで成り立ってるわけです。
つまり、
<物質的世界>
リンゴがある→それを認識する自分がいる
<量子的世界>
リンゴを認識する→リンゴがある
となるわけです。
もっと詳しく言うと、「量子的世界」では目の前のリンゴが出現するわずか前に「リンゴに対するイメージング」をして、それ(リンゴ)を存在させてるのです。
脳科学の最新の成果によると、「右手を上げる」という動作に対して、これまでだと「右手を上げる」と意識(意思)してから実際に右手を上げてるのだと思われてましたが、違うことがわかりました。実際の働きを観察してみると、意思よりも「右手を上げる」って動作が先行してるんだそうです。
なかなか実感としてわかりにくいですが、脳の世界では「意思」よりも「動作」の方が先だってのが定説になっています。
それと同じように、量子の世界ではリンゴを認識するより前に、リンゴに対するイメージングを瞬時にしてから、そのリンゴの存在を確認してるのです。
つまり、「現象」があるから認識するのではなく、先にその「現象」をイメージングしてから、それを認識してるんですね。
しかし、もっともっと厳密に言うと、イメージングよりも先行しているものがあります。それが「言葉」です。「はじめに言葉ありき」って有名な言葉は、なにも聖書の世界の話に限らず、この世の成り立ちに対する普遍的な真実なんです。
私たちはなぜリンゴをリンゴと認識しているのか。それは「リンゴ」って言葉(概念)があるから。もし仮に、リンゴを知らない人がいて、もちろんリンゴって言葉もなく、そこで初めてリンゴを見たらどうなるでしょう?
答えは「見えない」です。
もちろん網膜には写ってるでしょうが、それは「見えている」とは言いません。たとえば車を接触してしまった人がいたとして、加害者の方は決まって「見えなかったんです!」と言います。しかし、網膜には相手の車が入っていたはず。接触する瞬間、相手の車を見ようとしてなかったし、「車が接近してる」って概念もなかった。だから「見えない」のです。
また、原始的な生活様式を送ってる人々のように、そもそも「車」が存在しない世界の人に「車」を見せたところ、本当に「見えない」んだそうです。仮に網膜に写ってるものを、それなりに認識したとしても、「知らない何か」としか認識できないんです。
同じようなことは日常にもあって、たとえば夜空に見たことない「光」を見たとします。その光、航空業界の人が見たら、「飛行機の発着の目印となる光」だと理解するでしょうが、そんな情報は一般の人には知られません。なぜなら、それが「飛行機の発着の目印となる光」だと誰にでも知られてしまえば、テロの標的にあう可能性が高まるから。
そこで一般の人が見たことない光を見ると、なぜかUFOだと断定しちゃうことがある。「飛行機の発着の目印となる光(実際の名前は知りません)」との「言葉(概念)」を持ってる人が見たらその通りなんですが、「言葉(概念)」のない普通の人が見ると、自分の知ってる「言葉(概念)」に置き換えて理解しようとします。その代表がUFO(未確認飛行物体)だったりするだけで。
整理しますと、一般に「物質的世界」では、
「リンゴがある」→「リンゴを認識・イメージする」→「リンゴという言葉として理解する」
と考えられますが、「量子的世界」では、
「リンゴという言葉(概念)がある」→「リンゴをイメージングする」→「リンゴがある」
となるのです。
ようは、何よりもまずは「言葉」なんです。その「言葉」が正確に「イメージ」になったとき、初めてそれが「現実」となるのです。
しかし、中にはイメージしにくいものがあります。その代表が「数字」。たとえば「三角形」と「四角形」の違いをイメージすることはできると思いますが、「千角形」と「千一角形」の違いはどうでしょう?
それを正確にイメージできる人は、よっぽど脳が異常でない限り無理です。だけども、「千角形」と「千一角形」の違いは言葉(概念)としては理解しています。
同じように「30万円」と「100万円」の違いは、実際のイメージとして認識できるでしょうか? できるとすれば、海外に行ったり、いい車を買ったりなど具体的な世界であって、「数字」ではないはず。
「お金」の願望実現がなかなかうまくいかない人は、「お金」そのものではなく、それで買った何かを一生懸命イメージするだけになってしまってます。
たとえば「ニュージーランドに行きたいので100万円欲しい」と願望したとしましょう。
そこでイメージするのは、ニュージーランドであって100万円ではないはず。その結果、たとえばテレビをつけたらニュージーランド特集があったり、友達が行ってきてたり、「引き」を感じることが増えるはず。それでいて、引き寄せたとか、近づいていると考えるのはいいですが、実際に行けるか、もっと言うと100万円が手に入るかは別の話です。(NZに行くのに100万円も要りませんが)
「数字(金額)はアファメーションに弱い」
この真実に立ち返ると、もし必要な「お金」を望むのであれば、下手なイメージングとかせずに、ただ金額(概念)を認識しておけばいいのです。その際、ありありとした臨場感など不要で、ただ無機質に「金額」だけアファメーションすれば、それで完了です!
と言うわけで、今日もまた小難しい話になっちゃいましたが、その辺のテーマに関心のある人は、19日の大阪でお待ちしています。「肉まんアトム」での懇親会付きVIP席もあと2名ほど空きがありますので、異次元の扉をくぐりたい方はお急ぎください。ありがとうございました。
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量子的世界は「我思う、故に我あり」を思い出しました。
太字の「リンゴがある」→「リンゴを認識・イメージする」→「リンゴという言葉として理解する」の2番目。
「リンゴを認識する」だけならわかるのですが、「イメージする」がこの時点で入ってくるのがわかりません。
この場合は、認識の中にイメージも込み込みで入ってそうな気がするからですけど。
リンゴが私たちにとっては身近すぎるからでしょうかね?
マジレスすると、「我思う、故に我あり」と量子的世界は真逆なんですよね。あらゆる認識を疑った(方法的懐疑)結果、最後に残るのが「我思う=理性」であって、それが近代的理性の始まりとなるんです。量子論は世界を対象化(客観化)する近代的理性(古典物理学)の限界から出てきた理論なので。
イメージする云々は自分では認識できない範囲のことで、それは行動は意思に先行することが認識できないのと同じようなことで。