動かない尽くす 2914.12.4
2014年 12月 04日
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寒い。ただそれだけ。今は1月下旬の寒さだそうで、滝行もやり甲斐があります。が、今日は早朝にではなく昼過ぎに行きました。言い訳のようですが、線香などお参り道具一式が切れていたので、買ってから行くのでした。午前中はぼんやりと過ごし、昼から買物の後、滝。あ~、今日もいろんなメッセージをいただいたのだけど、忘れちゃったなあ。ま、そのうちまた思い出すでしょ、必要ならば。そしてそのままボクシングのジムで汗をかきました。先日のトレーニングではウォーミングアップ的に、シャドウ、サンドバック、ミット打ちのみで、マススパーリングはカット。だけど、今日はやりました。2ラウンド。いくら自転車で身体を使ったと言えど、使う筋肉が違うので、先日から筋肉痛、さらにヘロヘロになりました。ジム代を半年分払ってるので、来年の5月にはもう少しマシになってるかなあ。いつかは試合、とか思いながらも、そうだったらもっともっと自分を追い込んで練習しないとね。ウェイトも落とさないと厳しいし。とにかくそっちも頑張ります。
ところで、ここ数日、数か月、怒涛の日々を過ごしてきて、今は久々の小休止中。だから滝行もできるし、家族でベッタリしてます。行が終わったら久々に一泊で温泉旅行にも。なんだか、自転車で旅してたのが幻だったような。だけど、ブログ見ると、しっかりやってるんだよな。ゴールしてまだ10日しか経ってないけど、無事に抜け殻からも脱し、今、いろんなことを考えています。年末でもあり、2014年をちょっと振り返ってみると、本当にいろいろあった。30日くらいに毎年恒例の「10大ニュース」をブログであげるけど、今年は10ではとても足りない。毎月何かあったし。とにかく恐ろしい一年だった。昨年の段階でサンマークさんから本を出すことは決まってたけど、白紙になる可能性だってある。それが無事に出せただけでなく、5万部のベストセラー、そして12月には2冊目までが出る。
他にもいろんなことがあった。けど、、、事実を言うとですね、
「オレ自身は何も変わってないじゃん」
確かに周辺環境は生涯で一番変わったかも。いや、そうでもないかな。ニート時代、サラリーマン時代の継ぎ目などは大きな変化であった。けど、独立後10年を経て、ここまでいろんなことがあった一年はなかった。それも毎年毎年、いろんなことが起こり過ぎてるので、来年もまたすごいことになるだろう。それでももう一度言う。
「オレ自身は何も変わってないじゃん」
そしてこれからも変わらないんだと思う。けど、人生で最も大切な何かがあるとすれば、これだ。つまり、「変わらない自分」を見つけること。それはつまり「ほんとうの自分」と言い換えてもいい。人はなぜに悩むのか。それは「自分」がわからないから。「自分」という軸に頼ることができないから。なので、その悩みを解消するために、自分以外の大きな存在に頼ろうとする。その典型の一つにカルト教団があったりするけど、スピリチュアルの業界にもとても多い。
以前、知人に誘われて公案禅(臨済宗)に参禅したことがあるのですが、その第一の公案に「父母未生以前於本来面目如何」ってのがあります。つまり、「父母が生まれる前から存在する本当の自分とは何か」という命題。人によってはこの公案を通過するのに10年かかるそうだけど、実は私は二回目の参禅で通ってしまった。一回目にそれとなく答えたら「違う!」と言われ、その瞬間に気が付いた。次は絶対の自信をもってその公案に挑んだら、見事に通過。その後、第二、第三の公案も通過し、そこで事情により参禅会に行くのをやめてしまった。
でも、その体験は自分にとってとても価値あるもので、「やっぱりな」と思うと同時に、生きていく上での「軸」がしっかりできた実感を持つことができた。思うに、「禅」とは生き方そのものであり、禅の一日に人生のすべてがあると言っていい。それは動くこと、動かないこと。ただ、それだけ。参禅会と言っても、朝から晩までずっと座ってるわけじゃなく、当然、ご飯も食べるし、休憩時間だってある。そして作務に多くの時間が割かれる。掃除とかいろいろ。そして、静かに座る。いついかなるときでも、「いま、ここ」にしかない。そして、そこには「わたし」しかいない。
先ほどの公案の答えをブログに書くことはできないし、そもそも答えが一つかどうかもわからない。その答えを他に伝えることはご法度であり、当然、他の人がどう答えたかを知ることもできない。だけど、その公案に向き合ったとき、確かに、確かな何か得ることはできた。ああ、まさにそれが「ほんとうの自分」なんだな、と。
では、どうすれば「ほんとうの自分」につながることができるのか。公案禅はその手段の一つかもしれないけど、もっともっと大切なことがある。それは、もう一度言うけど、動くこと、動かないこと。もっと正確に言うと、動き尽くすこと、動かない尽くすこと。子どもを見てると、ホントにそうだな~と思います。特に小さければ小さいほどそう。起きてるときは、精一杯に動きまくって、寝たら時間まで起きない。これこそが人生であり、そして禅なんでしょうか。
スピリチュアルな業界を覗いてみると、とかく「動かないこと」に力点が置かれがちに感じます。その手段として、瞑想とか、座禅とか、滝行とか、何らかのワークとかあると思いますが、「動かないこと」がさも精神性の高い営みのように語られることも多い。逆に、動く、行動する、頑張る、努力する、なんてのはなぜか低く見られがち。もちろんバランスは大切で、リアルに動きまくってる人が、ときには歩みを止めて「動かない」を実践するのは重要だけど、普段から動いてない人まで「動かない」になびいてしまう。そして多くの場合、「動かない」ことが悩みを打消し、さらに言えば豊かになれるとさえ考えてしまう。
しかし断言できる。普段から動き尽くしてない人が、どんな瞑想やワークをやっても深く入ることは難しい。逆に動き尽くしてる人は、一日の終わりに、(形式も呪文もなく)ただ、静かに座るだけで、本当に深い瞑想に入ることができます。それが「動かない尽くす」の本質。「動き尽くす」と「動かない尽くす」はあくまでセットであり、どちらが先かと言えば、やはり「動き尽くす」しかないのです。
座禅の会では「作務」をとても大切にしますが、そこで一所懸命に取り組み、味わい尽くし、その上で「座禅」が置かれるから意義がある。「作務」を中途半端にやって、ただ座るだけでは、「禅」を理解することは難しいでしょう。同じように「禅=人生」である限り、まずは動くこと。斎藤一人さんが「地球は行動の星」と言ってることに同感ですが、まずは何でもいいから動く、そして動き尽くす。尽くす、尽くす、尽くす、そして尽くし切ったとき、あ、そうか、とわかるときが来るかもしれないし、来ないかもしれない。ま、どっちでもいい。
けど、個人的な実感としては、この10年、どちらかと言うと動いてきたと思うし、これが日常になっている。もちろん小休止することもあるけど、まずは「動く」を日常におき、そして動き尽くしたかどうかわからないにしても、どこかで「あ、そうか」と気づく瞬間があり、そこに「ほんとうの自分」なる「変わらない自分」があるんだな~と感じてるのです。
まどろっこしい表現ばかりで恐縮ですが、今年もたくさん動いてきたけど、結局、何も変わってないってのが正直な実感で、そして「それでいい」と思ってます。さて、明日は滝行7日目。明後日の朝に畑観音の滝に打たれて、晴れて満行となります。なかなかいい行ができてると思います。ではまた明日。ありがとうございました。
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私は・動かない尽くす・に根が張ってる感じで、毎回Qさんに・もっと動け~・って、
怒鳴られてる気がしてますよ。
それが快感なんだなあ。(笑)
寒い日が続いてます。風邪ひかないように気をつけてね。
秘伝・今日が100日目・ファイト。
願いが叶う為にどうするか、方法がとても分かりやすく書いてあって、ありがたいです。
【100日ノート】頑張って続けます(^-^)
私は動きすぎとかなんとなく焦っているとか言われます。当然瞑想しようもんなら3分で熟睡です。止まっているとなんか時間を無駄にしていると思ってしまいます。ゆっくりTVを見るとかのんびり温泉旅行なんて無理です。
影山さんいよいよ達成ですね。何か変われば教えて下さい。
でわでわ
まずは動く、自分なりに考えて動く。 それに併せて秘伝を実行していけば願望は果たせると思います。 改めて気づかせていただきました。
それで快感なら動きそうにないですね。
ありがとうございます!頑張ってくださいね!
休んではいけないってビリーフがある人もいますからね。
おっしゃる通りです。秘伝とは言うものの、決してオカルトではありません。行動のきっかけをつかむものなんですよね。