資本主義の次 2005.3.18

 仕事が一日一日終わりに近づいています。年度末は毎年忙しいのですが、今年の忙しさはちょっと普通でなく、さらに精神的にも辛い部分があります。こういう状況で退職するというのは、表面的に見ると「逃げ」と取られるかもしれませんが、私自身も、そして身近な友人からも「もう充分だ」という見解を示してもらっています。

 うちの会社だけでなく、業界全体が疲弊しており、業界に対する社会のニーズは減る一方で客先の要求は大きくなります。なので、給料が年々減りながら、仕事量だけは増え、そうなると社員が減り、さらに受注が落ち込み給料が減り仕事が増える…、という完全なるデフレスパイラルに陥ってしまいます。このような状況に対しては、剥がれ落ちたところをコンクリートで穴埋めするといった「延命治療」では埒が明きません。メタファー(比喩)で言うと、西洋医学では限界があるのです(つまり、部分部分を対処的に治療していくやり方。抗生物質の投与によって副作用で他の部位がやられるなど)。会社の蘇生においても、東洋医学の手法、つまり、ナチュラルな方法で全体を治すといった観点が必要になると思います。

 では、会社の蘇生における東洋医学的手法とは何か。やはり、社員一人一人の潜在能力を引き出していくこと基本となります。そのためには、「楽しい」を仕事の第一におき、そして何が起ころうとも「ツイてる」とか「ありがとう」とかいう波動の高い言葉を会社内で充満させることです。

 そんなことしたって会社がよくなるものかい、、、と訝しく思う人もいるでしょうが、基本的に金がかかる問題でもないし、考え方一つなので、やって損はないはずです。しかし、多くの企業は、リストラや給与カットなど目の前の対処療法に終始してしまいます。そうなると、ため息や罵詈雑言が増え、社内の空気、場のエネルギー(波動)が低くなるばかりとなります。つまり、リストラ(抗生物質)の投与によって、ため息(副作用)が生じ、全体として業績(健康)が悪化していくものです。

 やはり、今の時代は人間の身体(健康)についても、会社という組織(経済)についても、特定部位の治療に特化した対処療法ではなく、身体や組織の全体を視野に入れ、根本から気長に治すといった療法が必要なのだと思います。仮に末期癌などで医師から見放されたような患者の場合、抗生物質やモルヒネの類を投与して無為に延命させるくらいなら、ダメ元でも食べるのを控え(不食)、クラスターの小さな天然の水だけを飲ませるとか、生薬や薬草に切り替えるとか、「笑い」を積極的に取り入れるとか、または、レイキや気孔などに頼っている方がよほど良いと思います。

 会社においても、リストラや給与カット、過労を押し付けながら少しでも長く会社を永らえようとするくらいなら、「ありがとう運動」をしたり、コーチングを取り入れたり、「笑い」の職場づくりを進めるなど、社員の心と気持ちの面からマネージメントする方がよほど良いと思います。

 会社については、私自身も社内で「ツイてる」を連発したり、変なことばかり言って笑わせていましたが、どうも「手足」には限界があるようです。ここはやはり「脳」や「心臓」にあたる会社の中枢である社長や事務所長がそのようなマインドを持つべきだと思います。

 実際の話を言うと、福岡県の地場企業で最も法人税を支払っている会社などは、そこの社員に言わせると、まさしく、波動の高い言葉で会社を包み、社員一人ひとりがとても元気にやりがいを感じながらやっているようです。ちなみに、江本勝さんの「水の結晶」の写真を社内に貼っているそうです。そこにはやはりトップの理解と強い意志が感じられます。

 20世紀は近代合理的な手法、身体で言えば西洋医学、経済で言えば資本主義によって、生命や技術、経済を飛躍的に発展させ、一定の成果を出しましたが、21世紀は、西洋医学や資本主義の限界が露呈し、新しいパラダイム、手法が不可欠となってきています。とりわけ、身体については東洋医学の理念や手法がより重要になってくるとともに、会社(経済)については、資本主義に代る新たなパラダイムが必要だと考えられます(当然、社会主義ではありません)。それは何か、、、一言では到底言えませんし、それに移行するにはもう少し時間をかけて人々の意識を変えていくことが重要です。

 しかし、そう言うからにはその糸口を述べておく必要があります。これから書くことはおそらく国民の1%にしか理解できないと思います。もっともこのブログを毎日読めるような方だと、2割(30~40人)は理解を示してくれると思います。世の中を変えるには国民の2割が変われば変わると言われています。「百匹目の猿現象」のように、ある一定の人が理解すれば世の中が変わります。

※百匹目の猿:宮崎県の幸島の猿が、芋を水で洗ったり、海水で洗うと美味しくなるということを発見し、それがその島の猿の間で広がり、周辺を含めて一定の数に達すると、北海道の猿までもが海水で芋を洗うようになったという話。つまり、何事も全体の中である一定に達すると、全体が変わるといった現象。

 資本主義の次のパラダイムを述べる前に、私自身の体験をお話しておきたいと思います。この体験は小さなことのようですが、私の考え方に大きく影響を与えています。私は、5年程前、大学院を退学し、フリーターのようなことをしている時、知り合いが施設長をしている老人ホームで一ヶ月ほどボランティアをしました(始めて一ヶ月で就職しましたので)。ある日、ホームの利用者(要介護度4~5の老人)の車いすを押してショッピングに出かけました。ショッピングモールを利用者と一緒に、施設の職員、ボランティアが周り、買物をしたり食事をしたりします。私もあるおばあちゃんの車いすを押していたのですが、その方は老齢に加えて半身不随の障害を抱えています。身体が片側しか動かないので、話をすることもままなりません。一通りモールを周り、帰りの時間が近づいた頃です。おばあちゃんが行きたいところがあると言い、最後に連れて行ったところが「まんじゅう屋」でした。おばあちゃんは身体が不自由なので、私は言われるがままに、財布からお金を取り出しまんじゅうを買いました。結構な数でした。どうしてこんなにたくさん買うんだろう、、、と思いましたが、そのおばあちゃんは「いつも世話になっている人たちにあげたい」と言うのです。私にも2つ取れと言います。しかし、ボランティアの身で、しかも決して余裕があるわけでもないおばあちゃんから「もらう」ことに躊躇し、最終的にもらわずに帰ってしまいました。帰るとき、そのおばあちゃんはものすごく悲しそうな顔をしており、その顔が実は5年経った今でも鮮明に思い出されます。

 今になって考えたのですが、実は人の本当の喜びとは「与える行為」にあるのではないかと。今の世の中は、物でもお金でも「得る」という行為とそのエネルギーによって支えられ、経済システム、資本主義が成り立っています。誰もが「得よう」とすることで、確かに技術は発展し、生活レベルも上がってきました。しかし、「心」はどうでしょうか。他人を投げ倒すこと、弱いものから金品を取り上げることが続き、逆に荒んできているのではないでしょうか。よく言われるように、物質的には充足したけれども、精神の面がおろそかになってしまっている状況です。

 私のブログの名前は途中から「宇宙となかよし」に変わりましたが、これは「宇宙の法則」を知り、「宇宙の生き方」を実践しようという意志の現れによります。思うに、「宇宙の法則」の根本とは「与える」ことにあるのではないでしょうか。宇宙は我々人間に対して何一つ「得よう」としません。そもそも、我々が持っているものは宇宙はすべて持っていますので。宇宙は我々に光を与え、空気を与え、水を与え、火を与え、大地を与え、、、すべてを与えてくれています。その宇宙の恩恵によって我々は生きている、いや、生かされているのです。

 つまり、「与える」という行為は「宇宙の生き方」そのものであり、「与える」ことは人間にとっての究極の喜びでなのではないでしょうか。先ほどの老人ホームの話ですが、私がついたおばあちゃんは、ショッピングモールでは、いなり寿司と巻き寿司を3~4個食べ、下着類を2枚ほど買っただけで、他はすべて「まんじゅう」にあてました。年齢を重ね「得る」という行為に興味を示さなくなったおばあちゃんは、「与える」ことで人間本来の「喜び」を見出そうとしたのです。しかし、私はまんじゅうを受け取りませんでした。無為な気遣いのために。。。
 
 そもそも、「得る」も「与える」も回転の方向が違うだけで、そこで流れる財は一定です。しかし回転の方向が違います。資本主義とは誰もが「得る」というエネルギーによって展開してきました。そこで、資本主義に変わるシステムとは「与える」というエネルギーによって成り立つものだと思われます。「得る」も「与える」もシステム全体に流れる財(フロー)は一定ですが、システムの構成員たる、人々の心が違います。「得る」によって物質的に豊かになっても心は荒んできました。しかし、「与える」によって人々には真の喜びが芽生え、物質と心の両面で社会が発展していくと思われます。

 「与える」とは「宇宙の法則」です。私の守護仏である「文殊菩薩」をはじめ、宇宙及びその体現者である「釈迦」の行き方を実践してきた「菩薩」の宿命は「求めず与える」ことです。菩薩行とはそういうものだそうです。つまり、宇宙に近いレベルの人々、釈迦や諸菩薩は「与える」という行いを真剣にしてきたのに対し、その下のレベルの進むにつれて、どこからか「得る」が中心になってしまったのでしょう。

 資本主義に代わる新しいシステムに移行するには、「与える」ことに本当の価値を見出せる人が増えること、そう、国民の2割の人が「与える」価値を知ることで成し得ると思われます。そういう時代がまさに近づいているように思われます。

 私は今の会社を辞めることになりましたが、非常に懸命な選択であったと思います。不遜な言い方ですが、新しい社会を作っていくパイオニアとしては、旧態依然のシステムの「手足」となっていてはいけません。新しい社会の「頭」となっていくべきです。「宇宙の意志」は私という人間を旧態依然のシステムから引き離そうとして、会社の中で様々な要因を作ってきたのかもしれません。

 「21日行を通してとりあえず、お前の考えはわかった。先ずは今の会社を辞めて、次のステージに進むがよい。そこで真に宇宙の行き方を実践できるか図ってみるが良い。」、と言っている気がしています。3月14日の神がかり的な展開による辞意表明は、まさしく「宇宙の意志」を感じさせてなりません。
 
 会社を辞めるということで、以上のような考えがまとまりました。「与える」ということをいかにシステム化し、それを多くの人(2割りの人)にわかってもらえるか。それがこのブログの一つの使命であるようの思っています。「5,000円の寄付によってその当日に5,000円の図書券が送られてきた」とか、「翌月には5万円の臨終収入が入った」とか、「トイレ掃除をすると臨時収入が入る」とか、これまでもブログで書いてきましたが、これから先はもっともっと、そういうことが増えてくると思われます。現実、このブログを書くという「与える」行為によって、私には多くの友達と理解者が増えてきました。「与える」ということがどれだけすごい行為なのか、このブログを通してもっともっと発表していきたいと思います。

 会社を辞めるという人生の大きな転機に、世の中の大きな動きを肌で実感する毎日です。

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(近代の祖)
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Commented by at 2005-03-19 17:59 x
新しいスタート切られんですね!おめでとうございます。大いなる共感を持って読ませていただきました。
私も以前肝臓をやられ死の宣告を受けたのですが、自然食品店を始めるに際して、東洋的な発想・情報を受け入れ始めていたころでしたので、入院せず、自分を病人扱いせず、絶食からはじめ、玄米粥と大根おろしのスープとヤンノー(塩味の汁粉)などで回復したという経験をしました。
その時の西洋医学を学んできた総合病院の先生との手に汗握るやり取りはまさに命がけでした。(以降、陰陽・マクロビオティックなどを本格的に学びました。)
Commented by at 2005-03-19 18:00 x
私はどちらかというと文系なのですが、もう何年も前になりますが、書店で偶然手にした「タオ自然学」フリッチョフ・カプラ著、量子物理学の先端
分野と仏教は実は同じものを見ているのでは・・という着想から執筆された本で、当然西欧科学の中では物議をかもしたそうです。
その本から学んだのは、「部分は全体である」という視点です。西欧近代科学の祖はそれこそ写真にもあるように「デカルト」なのでしょうが、彼は「方法序説」の中で、神からの独立を目指していました。宇宙は目に見えないものと目に見えるものとで成り立っている、見えない世界はまだ神の領域かもしれないが、とりあえず我々人間は、目に見える世界、測定できる世界を研究しよう!でもその思想の根幹は「部分は部分」だから人間も自然もばらばらにして各部を分析的に研究してそれを総合すれば研究対象は理解できる、という発想です。この発想が20世紀まで延々続いてきたのでしょうね。
Commented by at 2005-03-19 18:01 x
総合病院なのに総合課は見当たらない。(西洋・東洋両方の視点を含んだ上での患者の扱い)
「どうせ、俺なんか会社の歯車さ!」
「自分ひとりが、いまさら何をやっても社会は変わらない」
「誰も見ていなければ何をやってもかまわない」
こんな思いの背景には「部分は部分」という近代合理主義・個人主義のにおいがします。
全体と繋がっていない孤独な自分!
しかし、「部分は全体」という視点は私にとってはまさにターニング・ピントでした。
大げさに言えば「私が会社そのものでsる」「私が社会そのものである」
「私が宇宙そのものでsる」
宇宙に責任を取る生き方!
Commented by at 2005-03-19 18:02 x
私は、マザー・テレサ、宮崎駿などにそれを感じます(他にもたくさんそれを体現した生き方をされている人間はもちろんいっぱいいますが・・・)
マザー・テレサは下手な政治家のように大向こうをうならせようとする底の浅いスピーチやパフォーマンスをしたわけではなく、ご存知のように、目の前の行き倒れた人をその人の所属する宗教に沿って介護し、見取る、淡々と地味にその活動を続けただけです。それなのに全世界に共感を呼び(呼ばなくてもかまわないのですが・・)ともに歩きたいというシスターが増え、援助しようとする人達が増えていく・・最後はノーベル平和賞・・(それが目的では、もちろんありませんが・・)
Commented by at 2005-03-19 18:02 x
宮崎駿、どこかのインタビューを見てしびれたのですが、映画の製作動機が、友人夫婦に小さい女の子がいる、その子に喜んでもらいたくて!
でも結果的に大勢の人の心をつかんだものになりました。
こんなところに「部分は全体」の事例を見てとっております。そして自分の進む道、前例のない道なき道を歩む勇気をいただきました。
自灯明、心を静かに澄ませ、魂を羅針盤として進んでおられるQさんもまたその一員なんだなーと心からそう思います。
人生を深く味わいたいものですね、お互いに!
by katamich | 2005-03-18 23:15 | ■人生哲学 | Comments(5)