セカチュウの最終回 2004.9.10
2004年 09月 10日
さて、今日の夜は「世界の中心で愛をさけぶ」のテレビドラマ版の最終回でした。これは初回を見た後、2回に1回くらいのペースで見ていました。以前書いた通り、原作を読んでいたので、ドラマの脚本とはずい分違うのがよく分かりました。原作で描かれる世界はひたすら高校時代のサクとアキが中心であったのに対し、ドラマの方は、大人になってからのサクの目線から、高校時代を客体化するような視点で描かれていた点が大きな違いだと思われます。原作の最後の方で長い語りを展開するおじいちゃんはドラマの方では早くに死なされてしまい、一方で原作に登場しない大人になってからの恋人(子持ち)や高校時代の担任の先生、サクとアキそれぞれの両親の存在が大きくクローズアップされていました。
おじいちゃんが早くに死なされたのは、おそらく原作でのおじいちゃんの役割を大人のサクに負わせたかった、すなわち、物語の「純愛性」を原作ではサク及びおじいちゃんの2人が負っていたのを、ドラマの方でサク1人に統合させることで、「1人の人間による純愛性」をより強めたかったのではないかと思いました。つまりは、この物語の「世界」とはまさに「サクの世界」であり、「中心」とはまさに「サク」で、その「サク」が長年にわたって「愛」をさけび続けるところ分かりやすく表現したかったのではと思われます。
ドラマでは最終回とその前を見たのですが、クライマックスはどう見ても前回にあり、飛行場のシーンなどはかなり「泣かせ」が入っていました。最終回では「アキの死とそれからの断ち切り」のプロセスが主題となり、ハッピーエンドに向けてトーンダウンしていたように思います。「泣き」を期待していた視聴者には肩透かしだったかもしれません。
ただ、原作の方でアキの死後、あまりにもたんたんと物語が終わってしまい、いわゆる「満足な読了感」を感じなかった人にとっては、無理やりにせよ「一応の解決」を見たドラマはある意味、お茶の間のテレビドラマとしては成功だったのかもしれません。
今年は、「冬ソナ」といい「セカチュウ」といい、「純愛」が一種の流行であったことは否めないでしょうが、それらのメディアが現実社会に対していかに「調整」していくのか、そちらの方が見ものだと思われます(つまり現実社会に生きる若者が「純愛」をいかに受け止めるか)。
最後にキャスティングについて。サク役の山田君とアキ役の綾瀬はるかはとっても良かったと思います。映画は見てないですが、仮に「セカチュウごっこ」をするんなら生意気そうな柴崎コウよりは、清純そうな綾瀬はるかの方がいいな~と思いました。と思って、グーグルで「綾瀬はるか→イメージ」で検索するとこんなん出てきました。意外やセクシー系なんですね。どうりで、セーラー服のお腹のあたりが浮いているはずです。
(写真はサク)