占いを信じない人間はクソ 2014.4.8

 いつものことだけど、最近、妙に楽しいんですよ。花粉もないし、気温もいいし。滝の水はまだ冷たいけど、出た後の爽快感は何とも言えないですね。ただ、その一方、これも毎年のことだけど、1月半ば~3月半ばの約二か月間って、超絶にスランプの時期。2月なんかは、「セミナーの集客するべからず」ってくらいに失敗する。これは単に季節のものか、また、バイオリズムか何かか。それはわかりませんが、ま、何かあるんですよ。一年を通してのアップダウンがあるように、それが12年とか、50年とかになると、確実に何かある。それは個人の意識を超えたところで、宇宙のリズムと言おうか、確実に何かあるんです。しかもそれは「統計的」にかなりの精度で確認できるし、カバラだとか、ま、いわゆる「占い」によっては、死ぬ日まで正確にわかるらしい。

 って人に出会ったこともあります。「石田さん、死ぬ日を知りたいですか?」と言われたことあります。マジの話で。答えはもちろんノー。もっとも、それを知るにはそれなりの費用がかかるとも言われたし、普通はやんないんだそうです。余程の理由がない限りは。で、そんな話を信じるかどうかで言うと、信じるに決まってるじゃないですか!そもそも宇宙から見れば、人間の意識なんてちっぽけなもの。宇宙には我々人間が及びもつかないような大きな動き、意思があるんです。人間なんて所詮は「考える葦」でしかなく、宇宙の動きに逆らっていきるとか、できるはずない。その「宇宙の動き」を統計学など様々な叡智を動員して導き出した「法則」がまさに「占い」なのです。

 正直言って、私は「占い」をまったく信じないという人とは一緒に仕事などできません。恐くて。「占い」を信じないとは、「宇宙の意思」を信じない、宇宙を冒涜してる、そのようにさえ思うのです。だてに「宇宙となかよし」なんてブログ書いてるわけじゃなくて、私の生き方はまさに「宇宙との調和」であり、大きな流れ、意思に対して謙虚になる、その上で自分のできることを精一杯やろうってこと。「占い=宇宙の意思(法則)」を信じない、バカにするような人とは、まったくもって相容れない。「占い」を信じるとは、宇宙に対する謙虚な気持ちを忘れないこと。これは別に、最近の記事で「アンチ占い」と思われたことへの弁明ってわけじゃなく、昔から一貫して言ってることなんです。

 ただ、私が忌々しきと思うのは、素人が勝手に「宇宙の意思(占い)」の代弁者のように振る舞い、他人をコントロールするようなこと。聞いてもいないのに一方的に鑑定などして、相手をミスリードするか、自分への承認を得ようとすること。そしてなにより、「宇宙の意思(占い)」に完全に依存して、自立した生き方を放棄するようなこと。まあ、言い出せばキリないですが、こんなところでしょうか。さらに言うなら、統計学的な「占い」ならまだしも、ハイヤーセルフとか宇宙人、天使などの名を借りて、一方的に自分の考えを押し付けようとする人間とか最悪ですね。場合によっては、「私じゃなくて、ハイヤーさんが言ってるんです」みたいな責任転嫁までしようとする。

 ないですから。もしもハイヤーセルフとやらの声を代弁できるのなら、自分自身をもっとハッピーにしてくださいよ、と言いたい。それか、客観的にわかることをちゃんと示して欲しい。例えばコインを投げるから、表か裏か、間違わずに当てて欲しい。10回やって10回とも当たったら少しは信じようとは思います。いや、10回くらいなら私も当てたこと何度もありますので、文字通り100発100中で当ててからの話ですね。それなら前世がなんとかって話も聞いていいです。でなければ、そんな「目に見えない世界」の話とか、百害あって一利なし。それも、酒の席とかは最悪中の最悪ですからね。

 話を戻しますが、「宇宙の意思」は間違いなくあります。私もそれを感じることは日常でよくあります。そしていろんな「奇跡」を体験してきました。例えばセミナーとかではよくお話するんですが、2005年9月に加賀田晃DVDをたまたま手に入れて、それに心酔して実践しまくって会いたいと思ってたら三年後に呼ばれるようにお会いできて、しかも、加賀田先生は昔から私の近所に住んでて、同じスーパー(エル)を使ってたなど、「宇宙」を感じずにはいられないでしょ。

占いを信じない人間はクソ 2014.4.8_b0002156_117734.jpg また、拙著「宇宙となかよし」でも書きましたが、2005年5月にインドに行って、暴漢に殴られたり、金とられたり、散々な目にあいながらも、何とかブッダガヤまでたどり着き、そこで「占い師」から予言されたのはともかくとして、どうしても買いたかった「香木の釈迦像」を所持金がなくてなくなく断念したら、なんとそれと同じのを滝の導師が持っていた、なんて話、どうですが。導師の持ってた釈迦像は、私がインドに行ってる間、たまたま仏像マニアのご友人から整理して欲しいと言われて、一体だけ余った仏像。捨てるわけにもいかず、だけど、「そろそろ持ち主がくる」との連絡が入ったので預かってたら、その持ち主がまさにオレだったんだってさ。どっから連絡が入ったかって?宇宙から。マジの話。

 だから、いつも言ってるんです。「これは何かあるぜ?」って。だけれども、そんなのって最初から知りようがない。「占い」も少しは役に立つかもしれないけど、「冬だから着込む」のではなく、「寒いから着込む」のように、いわゆる外から「情報」ではなく、自分自身の「感度」で判断するしかない場合もあるんです。その「感度」を鍛えるには、やっぱり動くしかない。行動しかない。
 
 「占い」は「転ばぬ先の杖」と言われるようだけど、転ばなきゃわからないことだってる。転ぶことを恐れて、杖ついて歩く老人になってはいけない。まずは転んでみて、ああ、こんなもんかとわかれば、もっと大胆に行動できますし、よっぽど痛かったら次回から気を付ければいい。若いのに、杖なんか突いて歩くなよ、とオレは言いたいわけ。まずは転べ!いいじゃないですか、人生なんてどうとでもなるんだから。転んでこそ「感度」は鍛えらえるのだから。

 そしてに何より、逆らえない「宇宙の意思」があると言っても、私たちは「小さな葦でありながら、考える葦」です。大きな宇宙の流れがあるなかで、葦ながらもしっかり考えて生きていくこと。これが人間です。そこで、私の好きな話を紹介しましょう。稲盛和夫さんの講演等でよく聞く話ですが、こちらから引用させて頂きました。


袁了凡はもともとの名前は袁学海といい。代々医術を家業とする家に生まれました。父を早くに亡くしたため、母の手で育てられ、彼の母は息子に医者を継がせようと医学を学ばせていたところ、ある日頬髯の立派な老人が訪ねてきて、こういいました。

「私は雲南で理法(易)をきわめた者です。袁学海という少年に理法を教えるようにと天命が下ったのでやってきました。お母さんはこの子を医者にしようとお考えかもしれませんが、彼は科挙の試験に通り、立派な役人になります。県で受ける一次試験には何番でとおります。二次試験、三次試験にも何番で受かります。そして科挙の本試験に臨む前に役人になり、若くして地方長官に任じられます。結婚はしますが、子供はできません。そして53歳で亡くなる運命です」

学海少年は実際に医者の学問をやめ、役人の道へ進みます。すると、恐ろしいぐらいに老人が言ったとおりになっていく。何番で試験に受かるかというのもそのとおりなら、地方長官になるのもそのとおりでした。すべてが老人が予言したとおりだったのです。

その後、南京の国立大学に遊学することになった袁了凡は、雲谷禅師という素晴らしい老師がいる禅寺を訪ね、相対して三日間、座禅を組みました。

「お若いのに、一点の曇りも邪念もない素晴らしい禅を組まれる。これほど素晴らしい座禅を組む若い人を見たことがない。一体どこで修行をなされたのかな?」

雲谷禅師が感心していいました。これに対して、袁了凡は子供のころに出会った老人のことを話しました。

「私の今日までの人生はその老人の言葉と一分の狂いもありませんでした。すべて老人がいったとおりです。子供もできませんし、おそらく53歳で死ぬのでしょう。だから、思い悩むことは何もないのです」

その話を聞いた雲谷禅師は一喝しました。

「悟りを開いた素晴らしい男かと思ったら、そんな大馬鹿者だったのか!」

そして、「老人があなたの運命をいったというが、運命は変えられないものではない」といって、善きことをすればよい結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生まれるという「因果応報の法則」を説きました。

「善きことを思いなさい。さすれば必ず、あなたの人生も好転していきます」

そういわれた袁了凡は、「自分は間違っていた。老師にいわれたように、今後は善きことをしていこう」と誓い、善きことをすればプラス1点、悪いことをマイナス1点というように、点数をつけ、日々善きことを重ねるよう努めました。その後、袁了凡は73歳まで生きながらえました。

また、できないといわれていた子供にも恵まれました。袁了凡はその子に向かってこう語ったそうです。

「雲谷禅師に出会うまでの人生は、運命のとおりだった。しかし、そのあと考え方を変え、善きことに努めたところ、おまえが生まれ、本当なら53歳で死んでいなければならないのに、70を過ぎたいまでも元気だ。なあ、息子よ。人生とは、善きことを重ねることで変えられるものなのだよ」

『運命』というものは決まってます。われわれが望んで動かせるものではありません。一方。『運命』と同時並行で流れる『因果応報の法則』は、そうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの『運命』すらも変えられるのです。

このことを『立命(りつめい)』といいます。そうであれば、われわれは「運命」を変えることができる、この「因果応報の法則」をもっと有効に使うべきだと私は考えています。


 そうなんです。確かに「運命」、言い換えると「宇宙の意思」はあるでしょう。しかし、人間は「運命」に完全に依存すべき存在じゃないんです。それだったら、人間である必要もなし。宇宙には「運命」と同時に「立命」なる生き方が用意されています。つまり、「因果応報の法則」。善き考えをすれば、善きことが起こる。ようは、動けば動く、動かなければ動かない。では、どうするか。「運命」に身を任せて、依存して動かない人生を選択するか、いや、「運命」があることは認めながらも、謙虚な気持ちは忘れずに、動きながら自分の人生を切り開いていくんだ。そう、オレはこっち。動き続ける人生を選択した。

 だからこそ、「占い(宇宙の意思)」への敬意は忘れずながらも、同時に「自分の意思」を大切にして動いていきたい。だから、人生は思いのままに流れるんです。確かに逆らえない何かを感じることはあります。だけど、宇宙は決して厳しいだけじゃない。見ているところは見てる。決して裏切らない。むしろ、自らの意思を大切にして動き続ける人間をこそサポートするもの。それが本当の意味での「宇宙の意思」だと分かった瞬間、人生は一期に展開する。すべては自らの選択と責任。すべては自分次第。だけど、何があっても大丈夫。なぜなら、宇宙はちゃんと見ているから。

 明日で滝行も一応、満行を迎えます。一週間は早かったな。そして木曜日から東京。金土日とアンソニー・ロビンズのセミナーに参加して、月曜日は「人生計画書セミナー(残3)」があり、その後、「宇宙の飲み会(ツアー参加者限定)」です。またまた、何かが起こる。木曜日からの出張は、また、何らかの「宇宙」を感じさせることが起こりそう。ガンガン進みます。ありがとうございました。
Commented by おっしー…ってどこの馬の骨よ? at 2014-04-09 10:34 x
今回の記事、めちゃめちゃ腑に落ちました!
人間は運命を認めつつも、その奴隷になってはいけませんね~。。
いや~流石は正統な仏道コースを歩まれるQ先生!
昨今憑き纏う魑魅魍魎を一喝されるかのような快文ですね♪
Commented by みさき at 2014-04-09 11:21 x
私は占いはあまり信じていませんでしたが人生のドン底を味わい死ぬか占いに頼るか・・・と言うくらいまで落ち込み3年くらい前に人生初の占いに行き出会ったのが算命学でした。
あまりに当たっていたので自分で学んで今では算命学カウンセラーになりました。
算命学と出会っていなかったらどうなっていたかと思うと怖いです。
ただ占いだけを信じて進むというよりも道に迷った時に人生の舵取りの
良い方向への道しるべに役立ててほしいと思います。
Commented by K at 2014-04-09 21:36 x
運命と立命の話、すごく良かったです!
そして何よりQさんの文章がとてもイキイキとしてて
こちらもなんだかポジティブな気分になります。ありがとう!
Commented by katamich at 2014-04-13 22:03
■おっしー!
まかせてください!
Commented by katamich at 2014-04-13 22:04
■みさきさん!
これは間違いなく導かれてますね!
これからもガンガンにご活躍ください!
Commented by katamich at 2014-04-13 22:04
■Kさん!
どういたしまして!
Commented by カルト乙wwwww at 2016-11-08 12:13 x
カルト乙wwwwwwwww
Commented by katamich at 2016-11-08 23:02
■カルト乙wwwww さん!
はい!お疲れ様です!
by katamich | 2014-04-08 23:39 | ■精神世界 | Comments(8)