濃い酒だった 2014.2.19



 今日は夜、高校の同級生と飲んできました。ちょうど博多に出張中ってことで、久々に飲みながらじっくり話をすることができました。8時半くらいから飲み始めて、家に着いたのは2時過ぎ。結構飲んだな。その彼とは小学3年生から小中高と一緒で、中3からはずっと同じクラス。今は関西で最も勢いのある企業の一つで人材育成に関する仕事をしている。みっちり話をして、すごく刺激になったなあ。

 卒業してから23年。改めて見ると、すごい月日だ。それでもこの数年はフェイスブックのおかけで、いろんな同級生と再会しています。いい時代になったものです。ただ、まあ、これを言っていいのかどうか、フェイスブックに姿を出す人って、どちらかと言うと「リア充」なのかもしれない。ようは、少なくとも過不足もなく楽しく日常を過ごしている。同級生だけでなく、先輩後輩も。だから、消息の分からない人は本当にわからない。それはともかく、いろんなことがあるんだな、あったんだなってこと。人間誰しも。

 ちなみにこのブログ、、、読んでる同級生も思った以上にいるみたいで、在学中はほとんどしゃべったこともないような女子から突然、「読んでます~」ってメッセージを頂くことも多くはないけどある。もしかしたら、と言うか間違いなく、私に知らせないところでしっかり読んでる人もいるだろう。もちろんそれはそれでいい。まあ、これが私の日常です。基本的に包み隠さず、そしてこのブログ自体が日常の、そして人生の一部になっています。その中でいろんな考え方、情報を開示し、リアルに役立ってると言われる人もいる。ブログを書き始めた理由は単なる日記、備忘録だったのだけど、いつの間にか読者さんも増えたのは、少しでも「知りたい情報」が書いてあるからなのかな、とは思います。

 で、今日飲んだ同級生だけど、人材育成だけに人の育て方、働き方、達成の仕方など、いろんな勉強をされてて、それこそ人材育成に関するとある有名な第一人者からも直接学ぶことが多いとか。そしてその方の言ってることと、私がここで書いてることは、基本的に「同じ」だとの評価ももらい、何だか嬉しかったですね。

 そもそもは「考え方」で人生が決まる、もっと正確に言うと、「考え方『だけ』」で人生が決まるってとこからスタートして、そのことを実践し証明することで、独立後のこの10年間があったと思っています。最初の方は自己啓発書なども読んでたけど、最近はほとんど読むこともなく、読書と言えば、もっぱら小説、歴史、旅ものが中心かな。そしてこのブログに書くことは、基本的に「私の実体験」です。本やセミナーで聞いたことを、知った顔で書くのではなく、すべて私自身の体験と実感を通して書いてるので、その辺は説得力あるかな、と自分でも思っています。

 ただまあ、そうは言ってもシンプルなんですけどね。繰り返し言うように、やっぱり「考え方」だけで人生が決まってしまうわけで、それは単に気持ちの問題ではなく、「考え方」と具体的な「現実」はきちんとリンクしてるんです。「お金持ちになる」ための「考え方」をしていると、実際に収入も入ってこれは本当にそう。私がいわゆる「お金持ち」かどうかはさておき、少なくとも困らない程度、サラリーマン時代の5倍から10倍近い収入はあるので、個人的にはあと少しで打ち止め感はあります。コンスタントに年収3000万円、資産2億円、、、にはまだ遠いけど、それもまた「考え方」で現実化できると思ってるので、焦らずそのうちに到達するでしょう。

 そして話をしていて、改めて「そうだよな~」と思ったのが、やはり人生には「夢・願望・目標」があった方がいいってこと。もっと言うと「欲望」が必要。もちろんそんなものなくても、それはそれでその人の人生だからおとがめもない。だけどもし、この一つしかない人生を、もっともっと輝かせ、そして「今」を充実して生きるには、やはり「夢・願望・目標」はあった方がいい。

 では、私にとっての「夢・願望・目標」は何なのか。正直言って、そんなに大きなことじゃない。世の中には「『夢・願望・目標』は大きくなければならない」って思い込んでる人もいるでしょうが、それ自体がまさにビリーフであって、それが「大きな夢」を持てない自分を苦しめることにもなる。先日、知人のビジネスマンから「石田さんの(収入的な)目標は何ですか?」と聞かれたとき、「年収3000万円くらいで面白おかしく暮らすことかなあ」と言うと、返す刀で「それでいいんですか!10億目指しましょうよ!10億!」と言われてしまいました。気持ちもわかりますが、今の正直なとこが「年収3000万円」であって、10億である必要もないんです。確かに「人生ゲーム」としては10億を目指した方がエキサイティングでしょう。だけど、今のミッションに10億はないんです。3000万円もあれば、ある程度の好きなことができる。そしてその「好きなこと」だって、決して世のため人のためである必要もない。

 私の人生の目標は一つ。88歳まで毎日ブログを書き続けること。今はそれだけです。今日やることを、明日もやる。それだけ。だけど、今でようやくと10年になりましたが、88歳まで書くならあと47年は同じことを繰り返さなければならない。およそ半世紀。その頃の日本、世界はどうなってるわかりません。「ブログ」って言葉があるかどうかもわかりません。だけど、人間に「表現する役割」がある限りは、何らかの形で情報発信はしているでしょう。そしてそのためには、一番は健康。肉体的にはもちろん、精神的にも健康である必要がある。昨日は健康診断に行きましたが、まだ結果はわかりません。だけど、前回に受けたとき、今より10キロ以上体重があるときは、肝臓とコレステロール、尿酸値に「注意」がついていました。お医者さんから「コレステロールを下げる薬を飲むか、それとも体重を減らすか」と言われ、後者を選びました。薬を選んだら、飲み続けないといけないらしく。まだ若いんだし、なるべく飲んで欲しくない、とお医者さんから言われました。

 で、あれこれあって10キロ減はできましたが、もし、あのまま右肩上がりに体重が増えていたらどうなるか。間違いなく健康を害していたでしょう。そしたら毎日書けないかもしれない。88歳まで生きられないかもしれない。つまり、「88歳まで毎日ブログを書き続ける」という些細(かどうかはわからんけど)な目標であっても、その目標への思いが強ければ、そして何度も何度も言葉にしていれば、そうなるための「現実」を引き寄せるのです。

 私が10キロ減に成功したのは、間違いなく、昨年6月からコーチングを受けたこと。50万円もしました。それを受けるには、4月末にあるセミナーにたまたま」参加したことがきっかけ。その「たまたま」ももしかしたら、「88歳まで毎日ブログを書き続ける」という目標が引き寄せたのかもしれない、と考えると辻褄はあいます。逆に言うと、88歳に向けて「毎日ブログを書いている」限り、私は健康でもあり、そして思ったことが何でも実現するようになるんでしょう。そして今や、ブログを書くことは、歯を磨くことと同じように、「やらないと気持ちが悪い」の段階にあります。海外に行くときも、パスポート、お金、保険の次くらいに「パソコン」が来ますから。もちろん、パソコンでなくても、ポメラ(キーボード端末)とスマホだけでもきちんと書けますが、パソコンがあった方が何かと便利には違いない。今度のフィリピンではWi-Fiルータも予約していますし。

 で、「88歳まで毎日ブログを書き続ける」ってのは、私の感情や、そして魂に対してもすごくフィット感がある。その上で、「何を書くか」に目を向けると、やっぱりどうせなら読者さんのためになるような、刺激になるような、そして人生を豊かにするような文章を書く方が楽しい。私にとって何が一番嬉しいか。それは、このブログを読んでためになりした、願いが叶いました、楽になりました、とか言って頂けること。もちろんセミナーやセッションの結果としても嬉しい。ただ、それでも私は「人を幸せにする『ため』」に書いているのではないです。あくまでも、自分が書きたいから書いている。それ以上でも以下でもない。「ため」になろうがなるまいが、オレは書きたい。だけど、「ため」になった方が楽しいし嬉しい。それだけのこと。

 ですので、少しでも「ため」になるような文章を書くには、まずは私自身がハッピーな方がいい。願いをガンガンにブログに書いて、本当に叶える様子を見て欲しい。それで、「私にもできそうだ」と思って欲しい。そしてさらに言うと、願いを叶えること、その前に、「願いを持つこと」それ自体へのブレーキを取っ払って欲しい。なぜか。純粋にその方が楽しいことを知ってるから。

濃い酒だった 2014.2.19_b0002156_16562743.jpg 今日の同級生とは、ある意味、核心に迫る話にまで及びました。小3から高3までずっと同じ学校であり、後半は同じクラス。だけど、実質上の付き合いは小3以前から、いや、産まれた瞬間から始まっていると言っていい。その辺の話はあまり詳しくは書けないのだけど、と言うか、今までも書いてきたとは思うけど、我々の母校の母体はある宗教法人でした。卒業生はプロ野球にたくさんいます(いました)。「宗教」には必ず「価値(規範)」が備わります。その「価値」は絶対性を帯びていて、例えばイスラムならば「お酒飲むな、豚肉食うな」から始まり、ラマダンには断食しろ、一日5回メッカに向かって祈れ、貧しいものに施せ、いつかはメッカに巡礼しろ、、、などが生活の、そして人生の「規範」になります。キリスト教、ユダヤ教、仏教、ジャイナ教、ヒンズー教、いずれの宗教において、何らかの「価値」が必ず付帯します。

 それはイスラムやキリストのような大宗教にのみならず、町の小さな新興宗教も同じ。私がいた学校は新興宗教としてはそれなりの規模があり、組織も日本全国、世界に及んでいました。そして私たちは産まれついたときから、ある種の宗教的な「価値」を共有しながら育ってきました。それは私も彼も同じこと。そして多くの場合、その「価値」とは「~でなければならない」という規範と強く結びついています。もっとも、私がいろいろ勉強する限りにおいては、その宗教は他の大宗教、新興宗教と比べて、さほど規範の厳しいところではなかったと思いますが、それでもゼロではありません。各々の家庭での習慣・慣習の上に、宗教的な価値・規範が置かれてたのは否定できないところ。

 例えば「世のため、人のため、にありなさい」などは、小さい頃からよく教えられてきました。そのような規範で生きることに疑いがありませんでした。だけど今なら思えますし、言えます。「世のため、人のため、にありなさい」という規範が自らを苦しめるものであれば、それはクソだ!と。心理学(交流分析)では自らを不自由にする信念として、「完璧であれ」、「人のためであれ」、「急げ」、「我慢強くあれ」、「努力しろ」の5つがあると言われますが、誰にでも多少はありながら、時として自分を苦しめるほどに強いケースも多々あります。生きていく上で、そのような「規範」を誰もが満たせるとは限らないのだから。

 「テストは100点でなければならない」と育てられた人は、そのために努力するしょう。だけど、ある人は同じテストで70点で幸せを感じるのに対し、その人は90点で苦しくなる。「完璧でない私には価値がない」と考えてしまう。「人の役に立ちなさい」と育てられた人は、そのように一生懸命努力するでしょう。だけど、世の中には自己中心的な人だってたくさんいます。自分は「人の役に立つこと」が人として当たり前と思っていたのに、そうじゃない人がいる。それだけで人を嫌いになったり、そして自分を苦しめたりすることがある。

 このような「5つの信念(拮抗脚本、ドライバー)」は誰にでも多少はありながら、家庭(両親)によっては強いこともあり、さらにその上に文化(宗教、慣習等)があると、ますます強化されるようになります。もちろん「世のため、人のため」にあることは、素晴らしいこと。そのような姿勢で生きる方が、人からは好かれるし、社会からも評価されます。だけど、です。人間として本当に大切なのは、そこだろうか。これまで疑わなかった価値がある。それが絶対だった。そうやって育てられてきた。だけど、、、本当に正しかったのだろうか。

 結局、答えは「人による」にしかならないのだろうけど、現に今、苦しい人だっている。その人に対して、宗教は本当に意味で救いになるのだろうか、、、みたいな話を飲みながら真面目にしていました。まあ、たまにはこんな話も悪くない。実際、お酒も美味しかったし。で、最終的にオレ自身のスタンスは何かと言うと、やっぱりね、、、「楽しく生きる」しかないと思うのですよ。

 私にとってブログを書くことは楽しい。だから書く。決して「世のため、人のため」に書いてるんじゃない。文章を通して自分を表現することの楽しさをただ知っている。それを毎日してるだけ。海外に行くのも楽しい。純粋に楽しい。では、ある程度好き勝手に海外旅行するにはどうすればいいか、、、みたいなことをずっと考えていたら、それも実現してきた。それ以外にもやりたことはいろいろある。だけど、「夢・願望・目標」を語る際、私はあくまで「楽しい」にしか基準がない。そしてそれでいいと思っている。社会の「ため」にならなくてもいい。ビッグでなくてもいい。独善的であってもいい。「楽しい」に直結していれば、オレはそれでいいと思っている。それが今のオレの基本的なスタンスかな。だからこれからも「楽しい」を求めて生きていこうと思います。

 てなわけで、かなり濃密な飲みになりました。普段の同級生との飲みにはない感じ。いいね、こんなのも。これからもお互いに楽しく、そしてまた飲みたいね。そんなとこです。いい一日でした。ありがとうございました。

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by katamich | 2014-02-19 23:39 | ■人生哲学 | Comments(0)