ルーツから天命を悟る 2013.9.15



 昨日はやらかしたようなんです。後輩らと居酒屋で飲んでて、演奏とかもしてもらって、次々と吹奏楽部以外の後輩らも顔出し始めて、調子乗って完全に酩酊状態。気が付けば家で寝てました。帰った記憶が完全にゼロ。だけど、不思議と気分の悪さはない。お酒も割と抜けていた。どうやら後輩に車で送ってもらったそうなんですが、店を出た瞬間、つまずいてこけてしまい、頭をかすってしまったよう。ゴルバチョフのようになっています。記憶がないほど飲んだのは何年ぶりかなあ。それだけ楽しかったってことだけど、気を付けたいと思います。

 そして午後から演奏会。ちょっと前に顔を出して、次々と再会するOBOGらへと挨拶。20年ぶりって人もたくさんいて、とにかく興奮しました。このような機会があるのもそうだけど、フェイスブックがきっかけの部分も多いと思います。いや~、恐ろしい先輩方ともたくさんお会いできました。何年たっても、そしてどれほど期間が空いても、やっぱり先輩や先輩だし、後輩は後輩。先生は先生。このような「絆」っていいですよね。そして演奏はやっぱりサスガでした。たくさんのプロを輩出しており、実際に現役で活躍している人たちも演奏に加わっており、実に聞きごたえのあるステージでした。一部ではチャイコフスキーのピアノ協奏曲もあり、二部では完全なビッグバンドジャズだったり。もちろんソロをとるのは現役のプロ。なんと贅沢なステージなんでしょう。ちなみに私はアンコールで乱入しました。隣の隣には、これまた日本を代表するクラリネット奏者である大先輩が座ってたりなど、なんとも感慨深い思いがありました。
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 そしてステージが終わった後も、客席に来ていたOBOGと久々の再会が続き、話が尽きることはありません。そのまま会場のレセプションルームで懇親会・交流会。お酒を飲みながら近況報告になつかしい話。そして次々と写真撮影。この辺のノリは何年たっても変わらんなあ。最後のシメの言葉はなぜか私。写真見てビックリ。まるでお坊さんじゃないですか。
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 しかも連日連夜の飲み会で顔がパンパンにむくんでしまって、その分、丸くなってるところがお坊さん的。決してリバウンドしたわけではありません。ただし、気を抜くとヤバいですね。そう言えば2005年にインドで予言者から「あなたは40歳になったら本物のお坊さんになる」と言われ、実際に40歳になったのだけどどうでしょう。少なくとも「見た目」は限りなくそんな感じかもしれませんし、自分自身のアイデンティティもかなりマッチしてきたような。最近はコーチングやセラピーに、私なんかよりもずっと社会的に活躍している経営者、お医者さん、弁護士さんなどがよく来られるのですが、そのような人達が相談する相手って、宗教家に限らず、スピリチュアルやメンタルの専門家が多いようです。例えば18歳で仏門に入って、10年以上も山の中を歩き回るだけで、就職や結婚もせず、実社会からかけ離れた生活をしながらも、たくさんの人が相談に訪れる事実があるわけです。求められるのはそこ(実社会)ではないと。

 そのような本格的な仏教者・宗教者に比べると私などは完全に実社会の人間ではありますが、どこかでそのようなアイデンティティを残しながらも、同時に心理学や脳科学、精神世界などをきちんと学んで、それを多くの人にお役に立てるような仕事をしている。だからこそ、これからももっともっと学びたいし、そして楽しみたい。人生を喜びたい。

 今日、演奏を聞いて、参加して、そして今回、たくさんの「ルーツを同じくする人」と再会して、改めて自分を再認識することができました。お医者さんになったある先輩もおっしゃっていました。自分のバックグラウンドはここにある、と。この場合の「ここ」とは新興宗教の学校であっただけに、その教義に関する部分もあるのでしょうが、学校生活、寮生活、そして音楽を通した活動そのものも含まれているのでしょう。教義に関しても、それが広く受け入れられている以上、その宗教や団体も目指すところは同じ。宇宙。私自身も仏教・密教、その他の宗教を学ぶなかで、それらを違和感なく受けれられる素地はあります。それはそもそも「宇宙」を論じてきたからなのでしょう。

 この世はあえて言うなら「物質社会」と「精神社会」に分けられます。そもそもそのような「二元論」で論じることが陳腐な気もするのですが、あえて。例えば医療や経済は「物質社会」に属するものとして、3次元ではどうしてもそちらの社会に重きが置かれています。人々の関心のほとんどがお金や健康、人間関係など「物質社会」のこと。一方で「精神社会」とは哲学、宗教、思想、芸術などがそう。哲学で飯が食えるわけじゃない、健康になるわけじゃない。それも一側面では事実と言えるでしょう。難しい哲学的思考をいくら深めたところで、人と会わなければ収入は得られません。目の前で交通事故にあった人に対していくら哲学を講じたところで救われません。お金を稼ぐためには人と会うこと、そのための仕組みを理解して実行すること。怪我人を救うにはまずは救急車で運ぶこと。私自身はお金の稼ぎ方はある程度は知っていますが、怪我人を助けることはできません。せいぜい119番に電話するくらい。

 では、私のアイデンティティをするところの「精神世界」は実社会に対してどのように貢献できるのか。今ではそれを「事実」を通して説明することができます。それは私のような仕事が成り立っているという事実。しかし、そうでなくてももはや当たり前のことと認識しています。繰り返しますが、この実社会は「物質世界」と「精神世界」で成り立っています。人は何のために生きるのか。それは「幸せになるため」です。お釈迦様が言うように、人間の本質は「苦」です。言い換えると「不幸」こそが人間の業(カルマ)です。本来ならば「魂」として存在する方が幸せなはず。それがなぜかこのストレスかかる実社会に産まれてきました。「さとり」を究極のリラックスとするなら、産まれると同時に私たちは大きなストレス下に置かれ、「さとり」を捨ててしまいます。そして誰もが死によって再び「さとり」の世界に帰っていきます。

 では、なぜに私たちは、あえて「さとり」を捨てて、ストレスに満ちた実社会に身を置くのか。それは逆説的ながら「さとり」を知るためです。人は「さとり」にあるとき、真に満ち足りた本来の自分に戻ります。「あ、そうだったのか」と気が付きます。しかし、最初から最後まで「さとり」にあれば、「自分」を知ることはできません。

 例えば人は自分の姿を見ることは絶対にできません。鏡や写真を通して見ることはできても、本当の自分の姿を見ることは永遠にできません。もしかしたら将来、眼球を取り出して自分の顔を見ることができる時代が来るかもしれませんが、それでも眼球そのものを見ることはできませんし、それ自体に何の意味もありません。自分では自分の姿を見ることができない。これが「さとり」の世界です。ここで「鏡」を見たとしましょう。それは自分自身の似姿ではあれ、場合によっては美しかったり、醜かったり、そうでなくとも誰かに比べて優れていたり劣っていたりはあるでしょう。それがストレスです。実社会のストレス下では、永遠に自分を見ることができながらも、自分の似姿と対置しながら常に苦しみを味わいます。これではダメだ、ダメだ、良くなったと思ったら、またダメだ。その繰り返し。しかし、あるとき、わかる瞬間が訪れます。

「なにやってんだ、、、これでいいじゃん」

 どうあがいても、どんなに化粧しても、賢くなっても、努力しても、「自分」ってものは同じじゃないか。「自分」で「自分」と思っていた姿は単なる似姿、つまり「幻想」であることを知り、本質的な世界には何の優劣もなく、そして差異もなく、ただ「ある」ことを知るのみ。な~んだ、そうだったのか。これが「さとり」です。だったら、今までやっていたのは何だったのか。産まれた瞬間に「さとり」を捨て、そして苦しみ、いつかは再び「さとり」へと帰っていくのだけど、それはたくさんの「さとり」の積み上げによって起こること。私たちは気づくと気付くまいと、「さとり」を経験しています。リラックスした瞬間がそう。ただ、リラックスするためにはストレスを感じる必要があります。ヨガでストレッチ(ストレスをかける)して身体に負荷をかけますが、それが目的なのではなく、そこから緩むこと、つまりリラックスすることが重要なのです。

 現実社会もストレスとリラックスの繰り返し。その都度、小さな「さとり」を経験して、いつかは真の「さとり」(=死)へと帰結します。しかしそれまでの間、「ストレス」と「リラックス」を繰り返すことによって、人は「成長」を遂げます。魂の成長と言ってもいい。アイルランドの詩人・イェイツがいみじくも言います。

「幸せとは、成長のことである。人間は成長しているときこそ、幸せなのだ。」

 この言葉を借りるなら、人が「幸せになるため」に生きるとするならば、同時に人は「成長するため」に生きる存在でもあります。この場合の「成長」とはまさに「魂の成長」であり、「ストレスとリラックスの相互作用による(弁証法的)成長」のことなのです。人間の生きる意味は、すべからくストレスとリラックスの繰り返しにより成長すること。そこでは私自身の使命は何か。ミッションは何か。それはまさに人々の「成長」を促すことだと考えています。

 例えば心理セラピーの場では「ストレス状態にある人をリラックスに導くこと」が目的であるのに対し、コーチングの場では「リラックス状態にある人をストレスに導くこと」が目的となります。セラピーに来られる方の多くは生き辛い状態、つまり大きなストレスに置かれてる人。それを専門的な技法によってリラックスに導く。コーチングを受けられる人の多くは、現状に不満でもっと自分を高めたいと思っている人。そのためには自分の枠を超えることが重要。しかし、超えることは大きなストレスになる。そこをあえて導く(コーチする)ことがコーチングの目的になるのです。

 もうちょっと具体的に言うと、例えば「存在してはいけない」と思い込んでいる人にセラピーをすると、「な~んだ、これでよかったじゃん(自分の存在価値は人が決めるんじゃなくて、自分で決めていいんだ~)」ってことに気が付きます。それもまた「(小さな)さとり」です。「自分を変えたい」と思っている人にコーチングすると、新たなチャレンジをしてみて、自分の枠が広がったとき、「な~んだ、できるじゃん」ってことに気が付きます。それもまた「(小さな)さとり」です。そのダイナミズムを引き起こすことが私の仕事であり、「精神世界」における私の役割だと思っています。

 話を戻します。私自身は「精神世界」に極において、「思考(考え方、思い込み)」の部分を担当しているとすれば、「芸術(音楽、絵画等)」を担当している人もいます。例えば今回お会いした、プロになった先輩後輩もそうだし、私たちOBOGの出自である「吹奏楽」もまたそうです。もしこの社会が「物質世界」だけだったらどうでしょう。成長も何もない、ただの「生物」と同じです。成長するから人間なんです。そこで、例えば「音楽」は成長に対してどのように影響するのか。それは「リラックス」を導くため。苦しくても、音楽があるから頑張れる。私自身もこれまでモーツアルトやジャズを聞いて、どれだけ助けられたことか。問題や悩みを抱えていても、たった一曲好きな音楽を聞くだけでスッキリとリラックスすることができる。一説によると、モーツアルトはドーパミンやセロトニンの出にくいてんかん体質だったと言われていますが、彼の音楽は実は自らの癒すためにあったんだと分析する人もいます。それが真実かどうかはわかりませんが、モーツアルトの音楽が人を究極に癒してくれることだけは確か。

 昨晩、居酒屋にて、プロのジャズクラリネット奏者として活躍している後輩に勢いでリクエストしました。それを目の前で聞きながら、めちゃくちゃハッピーな気分になって、思わず涙が出てきました。3曲もやってくれて、嫌らしい話だけど、思わず財布から御ひねりを出して無理やり押し付けてしまいました。でも、そんなことでは足りないくらいに、いい経験させてもらったのですよ。そしてそんな後輩たちを持つことを心から誇りに思うのですよ。実は今回、結構、お金を出したと思います。それは完全に純粋な気持ち。最初から後輩ミュージシャンには(私と飲むときは)一円も出させないと決めていたのもありますが、それは純粋に彼らを応援したい気持ちの現れなんです。今まで何度も助けられてきた「音楽」を仕事としてやっていることへの敬意と感謝。その程度のことはさせて欲しいのです。

 とにかく、話はあちこち行きましたが、今日の記事でもわかるように、私は今回を通して自分自身のアイデンティティ、そして使命、天命を改めて確認することができました。それは飲み代を出す程度のことには変えられないギフトなんです。ほんとに行ってよかった、みんなに会えてよかった。そしてオレも彼らに負けないよう頑張る。だから、彼らももっともっと活躍して欲しい。その世界でさらに飛躍を遂げて欲しい。そして今度会うときは、またお互い「成長」した姿を見せあいたい。もちろん彼らミュージシャンだけでなく、誰もが自分の使命、天命を持っていて、それぞれの世界で大活躍して欲しい。ルーツを同じくする仲間だけに、これから死ぬまでずっといいお付き合いができればと思うのです。そんなとこで、、、今日の一日のレポートを終わりたいと思います。ありがとうございました。

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Commented by at 2013-09-17 12:36 x
ブログの内容もすばらしいですけれど、Qさんのお写真、きれいなお坊様ですね。なかなかこれだけきれいなお坊様を見る機会ってないのじゃないかしら?ありがとうございました!
Commented by katamich at 2013-09-17 21:49
■くさん!
そんな風に言われたのは初めてです。ありがとうございます!
Commented by くれよん at 2013-09-17 22:14 x
あれぇ、「く」になっていたんですね。すみません。また、名古屋でのセミナーご開催を楽しみにしています。お世辞じゃないです。ほんとうきれいって思いました。
Commented by katamich at 2013-10-01 17:27
■くれよんさん!
ありがとうございます!今年はもう一度名古屋に行きたいかな~
by katamich | 2013-09-15 23:39 | ■人生哲学 | Comments(4)