連日体調が悪いと言い続けてますが、今日もそんなに良くなかったので午前中、病院に行ってきました。前回は喉が乾燥→咳→炎症からなる体調不良だったのが、それが気管支にまで下りてるようで、つまり喉の表面は治ってるのだけど、咳のしすぎか気管支が炎症を起こしてるってことで新たな抗生物質を投与。と言うか、前回もらったのは漢方薬だったので、そんなにすぐには効かないわけですよね。で、さっそく抗生物質を飲んだら、途端に咳が減るわけですよ。まだ完全ではないですが、かなり回復。このまま満行まで乗り切ってくれ。とにかく滝の中で声出すのもきつくって、だけど黙ってるのもきつい。なかなかいい感じですよ。こんなこと書くと、黙ってりゃいいのに「ご無理をなさらないでください」なんてコメントを頂くことがあるんです。今回はもらってないみたいですが。でもここで、「はい、無理をしないでやめます」なんて言ったら楽しくないでしょ。言いなりでしょ。それでやめるくらいなら最初からやってませんって。やめるなら勝手にやめますから。それよりも、「きつくてもやれ!」くらいに言われる方が嬉しいです。ま、去年の秋も滝場まで一週間歩き通して、足の裏の皮がべろんべろんになったのだけど、あっちの方が今回よりはるかにきついですが、あんなのを楽しんでる自分がいるんです。エムですよね。
ところで先日、「愛着」について書きました。8,000字以上の長文になってしまいましたが、実は肝心なこと書いてませんでした。このテーマはかなり深いので、いろいろ書きたいことはあるのですが、最後に「愛着障害」の克服には「スピリチュアルな体験」が大切、と書かせて頂きました。もちろんそれじゃなくとも克服はできるし、むしろ「スピリチュアルな体験」には再現性も乏しく、また、誤解を生じやすい概念でもあるので、説明は難しいのですが。「愛着障害」ってのは、平たく言うと、「この世は危険である」と思い込んでいる状態。典型的には、愛着障害になるといつもおどおどした雰囲気を醸し出し、しばしばイジメの対象にもなりやすい。するとますます「この世は危険である」という思い込み(ビリーフ)が強化され、ますますイジメられやすくなったり、臆病になったりする。だから幼少期の「抱っこ」はめちゃくちゃ重要で、私などは今がまさにその真っ最中ですが、どんなにきつくても今だけの話。抱っこすればするほど、愛する我が子に「安全基地」が作られるのだから、それが親がしてあげられる最初にして最大の子への貢献です。投資と言っていいかもしれない。
だけど、世の中には十分に「抱っこ」をしてもらえない子どもだってたくさんいて、多かれ少なかれ「愛着障害」的な要素は誰にでもある。研究によると国民の3分の1がそうだとも言う。では私はどうかと言うと、そこまで顕著ではないし、3分の1に入るかどうかわかりませんが、人並みの愛着障害は持っているでしょう。いや、厳密に言うと、持っていたでしょう。セミナーやコーチングなどすると、将来の夢や目標をおたずねすることがしばしばあります。10年後どうなっていたいか、など。そのとき、非常に多くの人が「安心でいたい」と答えるのです。「自然でいたい」、「心配したくない」など言葉は違えども、将来に対する「安心」の欲求は必ずしも小さくありません。それと「愛着障害」が結びついているとは一概には言えないでしょうが、無関係ではないと思います。では、どうすれば「安心」が得られるのか。人によっては「お金」かもしれません。経営者はもちろん、会社員、公務員であっても、必ずしも絶対に安泰とは言えない世の中。当たり前の話ですが。
だけど、世の中には経済的にまったく不安を感じてない人だっています。それを「自信」と言うのかもしれませんが、それはしばしば「能力」によって確保されています。例えばマーケッターの神田昌典さんは「一文無しになっても紙と鉛筆さえあれば大丈夫」のようなことを言っています。彼は広告が書けるので、その「能力」があればまったく不安がないと言うのです。じゃあ、ライティングの力を磨けばだれもが安全圏に入れるのかと言うと、確かにそうでしょう。だけど、逆にいえば安全圏に入れるまでライティングの力を磨く必要があって、それはそれで一筋縄ではいきません。だけど、言いたいことは「○○の能力を身に付けましょう」ってことではなく、安全圏に入れるくらい、「自分を表現しよう」ってことなのです。別の言い方すれば、行動、継続、そして、没頭。
岡田尊司著「
愛着障害」で取り上げらえる、いわゆる「天才」たちも、文学や芸術、ビジネスの分野に没頭することで愛着障害を乗り越えたとされます。逆に言うと、そこまで没頭するほどに愛着障害が深刻だったとも言えるのですが、現代人、多かれ少なかれ、愛着障害です。極端な話、何らかの形で「不安」を覚えている限り、そこには広義の意味での「愛着」の欠如があると言えるでしょう。
では、私の場合はどうか。何度も書いてきたと思いますが、細かいミクロのレベルではいろいろありますが、人生全体を通して、私にはまったく「不安」がありません。ただし、そうなったのはきっかけがあり、それがまさに「スピリチュアルな体験」なのです。だからと言って、天使に会った、神の声を聞いた、守護霊と対話した、宇宙人とコンタクトを取った、などの話ではありません。表現形態としてはそれもあるでしょうが、天使も神も守護霊も宇宙人も、、、いわゆる超越的な存在を代弁する最も核となるもの、つまり「宇宙」と「なかよし」になってるからです。なんて言うと、またふざけてるように思われるでしょうが、「宇宙」と言うか、「大いなる意思」と言うか、それらを人は「神」と呼ぶのかもしれませんが、その「存在」をありありと感じた瞬間、私はまるで「宇宙から抱っこされている」かのように、絶対的な至福を感じるのです。では、そうなるにはどうすればいいのか。瞑想、座禅、滝行、トランスパーソナル、ドラッグ、NLP、いろいろあるでしょうが、そのどれも正しいと同時に、どれも間違い。
宇宙に抱かれる感覚を得るにはどうすればいいのか。答えは「知りません」です。と言うか、すでに抱かれてる、あなたも今、まさに宇宙から抱かれてるのですよ。そのことに気づけと言っても、言葉じゃなかなか伝わらない。だから、いろんなメソッドに手を出すのでしょうが、例えばNLPを学んだところで、そんな感覚を得られるはずありません。何もせずとも宇宙から抱かれてるモードで生きている人もいれば、ありとあらゆるメソッドを行脚しながらも、今もなお「不安」に覆われている人などいくらでもいます。じゃあ、どうすればいいの。やっぱり行動、継続、そして没頭。とにかく進むことしかないです。進みながら「待つ」しかないのです。
じゃあ、具体的に何をすればいいのか。それは人それぞれ。私にとっても最も大きな「それ」はブログでした。2004年5月からなんとなく初めたブログ。いつ頃からか毎日書くようになった、と言うか、始めた瞬間から欠かさず書いてるのですが、毎日書くことを意識し始めたのは3か月くらいしてから。厳密には2週間後くらいに「毎日書いてみよう」と宣言したことはありましたが、まさか続くとも思わず。だけど、曲がりなりにも一年間、それも会社勤めでめちゃくちゃ忙しく、しかも滝行とかもやりながら、毎日書いていたのですが、ある日、「書いている」と言うより「書かされている」と感じる瞬間があったのです。今だってそうです。手が勝手に動いて、どんどん文章が進み、新しい概念や理論が下りてくることもしばしば。こんなとき、決まって起こる現象が、ディスプレイに移る文字が「倍」になること。手が止まらない。そして文字がでかい。そんな瞬間、私は私でどこか冷静客観で自分を見ているのですが、これはまぎれもなく「書かされてる」んだと感じるのです。
そしてどんなに忙しくても毎日書き続けられる。それだけ、行動、継続、そして没頭をした過程で、どこか「大いなる意思」つまり「宇宙」を感じる瞬間があるのです。そのときすでに自我はなく、ただ、宇宙に抱かれてるのみ。なかよし。私のような凡人が、それもブログなんてありふれた手段を続けるだけなのに、そんな感覚をしばしば得ている。ブログを始めて一年後、私は会社を辞めましたが、そこには滝行で21日間やったこと、そしてブログを継続してるという、ある種の「神」が横にいたことはリアルに思い出されます。だけど、頭で考えると不安だらけ。会社を辞めてすぐに21日間のインド放浪に行きましたが、初日に殴られ、金取られ、散々な目にあいながらもラダックに飛び、そして丘の上で般若心経を唱えるその820巻目に劇的な体験がやってきた。だけど、今思うと、ごく当たり前のことに気づいただけのような気がします。つまり、大丈夫ってこと。それを証明するためには、わが身で実験してみたくなる。あれから8年。やっぱり、大丈夫でした。
とにかく迷うより進め、です。進んでいると神が見える。天才たちもそうだったのでしょう。エジソンだって完全に「おかしい子」だったそうですが、どんなに失敗してもまったく挫けず、それは忍耐ではなく、当たり前のことだったのでしょう。だって失敗しようが成功しようが、そこに「神」がいるのだから。成功のために続けるのじゃない。常に神と同体であるゆえ、続けさせられてるだけなのです。
「神」のついでで、以前も書いたことあると思いますが、1997年に
中東を旅してるとき、エジプトのシナイ半島でタクシー運ちゃんともめてる日本人男性がいました。英語がよくわからず、タクシー代金をぼられまくってもめてる最中。そこを通りかかって、その運ちゃんに「それ、高いよ」と言うとそのまま引き下がって、その男性と一緒にダハブに行くことになりました。右の写真がそれ。その男性はちょうど失業中。シナイ山の頂上にテント張って3日間、「祈り」続けたそうです。この後はエルサレムに行く。つまり、敬けんなクリスチャンなんですが、そのとき、言った言葉が実に印象的でした。
「ボクには『祈り』があるから」たとえ失業中であろうと、なんであろうと、「祈り」があるから大丈夫。当時はまだスピリチュアルなんて言葉も知らず、せいぜい「宗教かぶれのおっさんがなんか言ってる」、、、と思うところですが、実はリアルに感銘を受けていたのです。そうだよな、そうだ。「祈り」があるもんな。素直にそう思ってる自分がいたのです。そして今、その当時の私の感受性は「正解!」と振り返るのでした。
スピリチュアル系の人って、確かに「祈り」をよく口にするけど、それはせいぜい神社やお寺やパワースポットくらいのことでしょ。本当に毎日、毎日、毎日、祈りともに生きてる人ってどれくらいいでしょうか。そもそも「祈り」って何か。困ったときだけ、願いがあるときだけ祈るのか。それって「祈り」なのか。久高島は「祈り」の島です。今年もまた久高島に行ってしまうのは、私自身も「祈り」を思い出したいからかもしれません。前も書いたと思いますが、私は久高島にて、初めて「祈り」を知った、いや、その片鱗に触れたんだと思います。
そこで結論。「愛着障害」を克服するには。祈り。祈りしかありません。祈って、祈り続けて、祈りに没頭する。これが「宇宙」から抱かれることを実感する最大の秘訣です。では、どうすれば「祈り」になるのか。それは、、、「完了形で祈ること」です。もちろんウソです。そんな表面的なメソッドくさい、効率的・効果的な「祈り方」を求めている以上、「祈り」に到達することは不可能。じゃあ、久高島に行けばいいのか。それまた、わかってないな、と言わざるを得ない。そんなことじゃないんです。祈るには祈るしかないのです。何も期待せず、何も求めず、ただ、祈るだけ。実は今、めちゃちゃ深いこと言ってますからね。いや、言わされてますからね。もうこれ以上の説明は不要だそうです。わかる人は、今、わかったと思いますから。
そんなわけでですね、愛着障害を克服するには祈るしかない。こう言っちゃえば身も蓋もないでしょうが、そう言うしかない。ブログとか滝行とかもそうだし、仕事だってそう。子育てだってそう。自分のやってることの根底に「祈り」があるか。これがすべてなんだけど、セミナーとかでは言えない。だって、伝わらないから。ここで言う「祈り」は言葉を超えています。めちゃくちゃ難しいようでいて、たぶん簡単なことだと思います。もし私のセミナーとかで、「祈り方教えてください」なんて質問されたら、「知りません」としか答えられませんので、そんな質問しないでくださいね。いや、してもいいです。「知りません」の一言にその深さを感じ取って頂けるなら。てなとこで、今日はこの辺で。ありがとうございました。