すべては「愛着」にあり 2013.1.19
2013年 01月 19日
ところで今日は積読状態だった本を何冊か読みました。その中でも今年一番、と言うか、今年はまだほとんど読んでませんが、かなり面白かった本をご紹介します。岡田尊司著「愛着障害」という新書です。そう言えば岡田さんはこの手の本をたくさん出してますが、読むのは初めてでした。小説家としての顔もあるだけに、文章がすごく読みやすい。それでいて内容が濃い。岡田さんの本はすべて読む必要がありそうですね。で、本書ですが、私の関心とズバリの話で、ようはビリーフについて。「ビリーフ」にもいろんな段階があって、最も破滅的なビリーフを「存在するな」だとすれば、恐らくその次に破滅的と言っていいでしょうか、「愛着を感じる」というビリーフについての一冊。これ読むといろいろ恐ろしいこと、考えさせられることがあります。ここでの「愛着」とは一言で言って「安全基地」のこと。
つまり生きていく上で、この世を「安全」であるか「危険」であるかと感覚が、ビリーフ、つまり無意識に入っており、当然のこと、「この世は安全だ」というビリーフがある方が生きやすいことになります。潜在意識が求めるものは「安心・安全」だけ。人が変われないのは、変化を「危険」と感じるから。潜在意識は自分の身を守るため、変化させまいとする。これが、収入が上がらない理由、結婚できない理由、恋愛できない理由のすべてです。もちろん、「収入を上げることは安全」だけど「結婚することは危険」などに細分化されることはありますが、だけど、「そもそも」として私たちはこの世を「安全」か「危険」かでとらえているもの。例えば、
「生きることは」⇒「かなり危険・危険・どちらかと言うと危険|どちらかと言うと安全・安全・かなり安全」
のどこかに人は当てはまるもの。あえて中間の選択肢をなくしたのですが、大なり小なり、私たちは生きる上でこの世を「安全」か「危険」かでとらえています。もちろん無自覚的に。当然のこと、「安全」で生きている人は幸せだし、「危険」で生きている人は不幸である傾向にあります。私の言葉でいうと、「危険」の度合いが高ければ高いほど「心のコリ」が強いことになり、そのコリが生きにくさの原因となっているわけです。
では、「安全」か「危険」かに関するビリーフはどうやってできたのか。それはやはり幼少期、とりわけ「生後半年から一年半」の間における「お母さんの抱っこ」によって決まるとされています。これは最近よく聞く話だし、発達心理における定説になろうともしています。一昔前は、と言うか今でもそんな人はいると思いますが、「赤ちゃんを抱き過ぎると『抱き癖』が付くからよくない」なんて言われ方がありますよね。そもそも「抱き癖」の意味がよくわからないし、それが付いたところでどうなるのか。確かに親の負担はありますが、ほんの一時期だし、それを負担と思うのは親がどうにかしてる。
なぜその時期の「抱っこ」が大切なのか。それは「この世の中は『安全』ですよ」ということを知ってもらうため。私も子育てしててわかりますが、放置してたら泣きますよね。お腹がすいてるのか、おむつが汚れてるのか、眠たいのか。いろいろ理由はあるのですが、一番の理由は「抱っこして~」というメッセージなのです。人間の赤ちゃんは一人では生きていけません。放置されると確実に死にます。そのことは人間の本能ばよく知ってる。だから放置すると泣くし、抱っこで泣き止むのです。前世の因縁があって、親を苦しめるために泣くんじゃないです。不安だから泣くのです。そんなとき、ただ、抱っこしてあげるだけで、安心するのです。そしてこれは単純に「時期」と「回数」の問題。「生後半年から一年半」の間に「十分な抱っこ」をしてあげるだけで、その子はほぼ一生の間、「この世は安全だ」とのビリーフを持つようになり、生きることがさほど苦しくなくなります。当然、やりたいこともできるし、恋愛や結婚も当たり前のようにします。
では逆にその時期の「抱っこ」が不足していたらどうなるか。それがまさに「愛着障害」と呼ばれる状況。本書が面白かったのが、「愛着障害」にかかった人の事例。夏目漱石、太宰治、川端康成、種田山頭火、中原中也、三島由紀夫、ヘミングウェイ、ルソー、そしてビル・クリントンにスティーブ・ジョブズ。まるでそれぞれの伝記を読むかのように詳細に説明されています。作家の事例が多いのは著者が作家でもあるかでしょうが、実は後世に残る傑作を創造した人は、作家や芸術家に限らず、ビジネスマン、政治家、学者など、重度な「愛着障害」である人が非常に多い。むしろ「創造する者にとって、愛着障害はほとんど不可欠な原動力であり、愛着障害をもたないものが、偉大な創造を行った例は、むしろ稀と言って差し支えないだろう」とまで述べています。
「愛着障害」つまり心に「安全基地」を持たない人は、この世をどうにかして「安全」なものにするよう必死で努力する面がある。また、世間が認める常識に安全を見出さないのだから、どうしても非常識、いや常識を超越した価値観や能力を持つようになってしまう。それが凡人には及びもつかない創造力を育てるのでしょう。つまり「創造性」と「愛着障害」とは表裏であって、もしも歴史に残る偉大な創造をしたいのであれば、「愛着障害」でなければ不可能であり、その意味では「愛着障害」にもメリットがあるとは言えるでしょう。しかし、次の二点に注意。偉大な創造を行った「愛着障害者」が幸せかどうかはわからない点。そして、偉大なクリエイターが「愛着障害」であってとしても、この世の「愛着障害」の人たち全員が偉大なクリエイターだと言うわけじゃないこと。実際、本書によると国民の3分の1は愛着障害であり、私の実感をするともっと多いような気もします。つまり先ほどの「この世は『安全』か『危険』か」という判断については、おそらく「危険」に傾く人の方が多いんじゃないかと、そんな気がします。偉大なクリエイターが重度な「愛着障害」であったとしても、ほとんど愛着障害の人は、ただ、生きにくいだけの平凡な人だと言えるでしょう。

この世は安全である。心に「安全基地」があると、一人になっても不安にならない。今日だって公園に行ったのですが、写真のように砂場で30分くらい一人で遊んでるのです。線路だそうで。もちろん親が「見てる」という安心もあるのでしょうが、見られてることを忘れるほどの集中しています。ちびQは基本的にずっとこんな感じ。だからと言って、人が苦手なのでなく、保育園では先生や友達ときちんと遊ぶし、コミュニケーションも上手。親バカみたいですが、とりあえずのところ、「生後半年から一年半」における「安全基地」の構築には成功したかと思います。しかし、世の中の人、全員がそうとは限りません。子どもへの愛情は深くとも、父親は残業や出張で不在。両親は遠くにいる。お母さんは24時間付きっ切りだと、うつ状態になって子どもが泣いてても放置してしまうこともあるんです。そしてそれが重なると、「安全基地」が十分に構築できないこともあって、それゆえに国民の3分1が「愛着障害」であるとの指摘も納得できるのです。
では、多かれ少なかれ「愛着障害」をもって大人になって人たちはどうすればいいのか。そこが重要です。実はビリーフチェンジセラピーでも「愛着」の問題がとても難しい。マニュアルに従うと、「愛着」がテーマとなった場合、最低でも同じ手順のセラピーを5回する約束になっています。単純な話、一回3万円のセラピーを5回ですから15万円。私はまだ一人の人に5回同じセッションをしたことがないので、それが実際にどんな結果になるのか目で見たことはありません。実際、本書でも「愛着障害」の克服に対して、心理療法や認知行動療法はほとんど効かないと書かれています。ヨーロッパで名高いセラピストのもとに、アメリカから飛行機でわざわざ面会に行ったところでまったく効果がなかったとの事実もあります。ただし、結論から言うと「愛着障害」は克服できるのです。
一つはエリック・エリクソンの事例(ミルトンじゃなくて「アイデンティティ」の方)。クライアントはヨーロッパまで受診に出かけてダメだった女性。単にアンナ・フロイトの弟子ってだけで、すがるようにエリクソンの元を訪れたのですが、実はエリクソンは英語がほとんどしゃべれませんでした。ナチスから着の身着のままアメリカに逃げてきただけなので。だけど、結果的にそのクライアントは克服できたのですが、それはエリクソンのセラピストとしての有能性はもちろん、めちゃくちゃなまでの親密性によるものだったとか。セッション中に子どもが泣いてあやしに行くこともいとわない。それがクライアントの心を癒したと分析されています。つまり、「愛着障害」を克服するためには、親よりも誰よりも信頼できる「出会い」があること。「安全基地」となる「存在」があることです。本書ではその要素として、安心感、感受性、応答性、安定性、何でも話せること、の5つが重要と書かれています。
では、どうすればそのような「存在」に出会うことができるのでしょうか。私が思うには、それは「偶然」でしかないのでは。心理学の専門家の元に行けばその「存在」となってくれるのか。もちろん否定はしませんが、私はそうじゃないことの方が多いように感じます。エリクソンの場合はたまたま専門家でしたが、実はクライアントが欲しているのは、その専門的知識ではなく、すべてを受け入れてくれる「存在」そのものなのでしょう。
実は私自身の葛藤でもあるのですが、確かに私に対してそのような「存在」を求める人はいらっしゃいます。こういうブログ書いてるし、曲りなりにも専門的知識も少しはある方。しかし、実際の話、私には「限界」があることを認めざるを得ない。これまでもおそらく「愛着障害」に分類される方とお会いしてはきましたが、特徴としては、最初はすごくラブコールを送ってくれるのだけど、途中から必ず猛反発をしてくるのです。だからと言って去っていくわけではありません。その「猛反発」のベースには、「この人は本当に自分を受け入れるに値するか」というある種の審判があることもわかります。しかし、正直なところ、今の私には限界があります。なぜなら、もしもその猛反発をすべて受け入れようとするならば、その人に関すること以外の活動をすべて止めてでも向き合うエネルギーが必要となるから。つまり、私は「器」が小さいのです。だけど、その猛反発を乗り越えて、本当にその人にとっての「安全基地」たる「存在」になり切ったら、私自身も大きく成長することは頭ではわかりますが、すみません、まだその段階ではないのです。ただし、幸いかな、割と身近に有能なセラピストがいますので、その人をご紹介するようにしています。今の私にはそれが限度。だけど、いつかは克服したい課題なのです。
ただ、その一方で、あらゆる猛反発を受け入れられるだけのセラピストなり、存在があるのかについてまだまだ懐疑的なところがあります。セラピストの中にはその技法ばかりにこだわって、それが上手くいけばホコホコするけど、そうじゃない場合はクライアントが悪いなどと平気で言う人もいるのだから。ブログだったり、表立ってはすごくいいこと言うけど、実際会ってみるとそのギャップに驚かされる人もいます。私もその一人かもしれませんが。いや、そうとも言えないかな。なぜなら、私は「いいこと」を言うのが苦手だし、良くも悪くも思ってることしか言えないし書けない。ですので、繰り返しになりますが、私がどんな人に対しても「安全基地」たる「存在」になるには、まだまだ不十分です。だけど、死ぬ頃にはそうなりたいと思っています。
では、話を戻しますが、どうやってそのような「存在」に出会えるのか。やはり「偶然」でしかないのです。そしてそれは心理学の専門家とは限らないし、そうじゃないことの方が多い。もしかしたら、近所のスーパーでレジ打ってるおばちゃんかもしれない。何度もスーパーに行ってて自然と覚えてしまって、たまたま何かの拍子で言葉かわすことがあってそれがすごく癒された。それ以来、レジでたった一言言葉を交わすだけのことが「安全基地」なることだってある。また、これは聞いた話ですが、風俗の一形態にデリバリーヘルスなるものがありますが、それは性的サービスを商品としていながら、まったくそのようなサービスを求めないリピーターもいるそうです。ただ、話を聞いてもらって、そして時間まで添い寝してくれるだけでいい。デリヘルは使ったことないので相場がわかりませんが、仮に60分2万円だとすれば、中途半端なセラピストのワンセッション3万円よりはよほど効果的なセラピーになるでしょう。ただし、そのような「存在」の風俗嬢に当たるかどうかは「偶然」だし、突然、店を辞められたら、また「安全基地」を失うことになる。だけど、それまでに「安全基地」が復活していたら、それがトータルで50万かかろうとも、ものすごくいいお金の使い方と言えるでしょう。
ちなみに、語弊があるのを承知で言うと、風俗嬢こそが天然セラピストとして最も高いリソースを持っていると考えています。確かに風俗嬢になったのはお金のためかもしれない。だけど、実際の話として、風俗嬢はお客さんに自分のすべてを見せているのです。それ以上に「親密感」を与える存在はいないでしょう。もちろんおかしな人もいると思いますが、だけど、これ以上のリソースはありません。もしも専門的、いや、そこまででなくとも、このブログに共感できるレベルの風俗嬢であれば、それこそ最高のセラピストになれると思うのですが、ま、この話は嫌悪を感じる人もいるでしょうからこの辺にしておきます。もっと言いたいことあるけど。
話を戻すと「愛着障害」を克服するには、何よりも自分のすべて受け入れてるくれる「存在」が重要。心理学ではスポンサーシップなどと言ったりして、それをセミナーやワークショップに取り入れる専門家もいます。NLPにもそのようなワークはあります。そして私も受けたことあります。だけど、、、どうでしょう。例えば受講生同士で、「あなたを見ています!あなたはここの一員です!あなたは特別な存在です!」などと言い合うワークがありますが、それ、本心じゃないことってあるでしょ。講師が「言え」って言うから言っただけ。そもそもその手のワークに参加する人は、およそ9割が「愛着障害」じゃないでしょうか。だから参加してるのであって。自分の問題を解決できてない状態で、どうやって他人の問題を解決できるのでしょうか。やっぱり「偶然」でしかないのかも。
そんなこと言うと身も蓋もなくなりますが、実際、本書でも「こうすれば愛着障害は克服できます」なる再現性のある技法にまで入ってないものの、ヒントはたくさんあります。一つは「過去」に戻ること。昔やりたかったことを今やること。営業の神様、、、今日はあえてイニシャルにしますがK先生の家に行くと、一気に昭和初期にタイムスリップします。大きな邸宅には、なぜか遊具やら、昔の看板やらがたくさんあります。少年時代にできなかったこと今、やってるのです。家があまりに貧しすぎて、生活を支える新聞配達がてら、勧誘してもらった映画のチケットしか遊ぶものがなかった。周りの子どもたちのように、駒やメンコで遊べなかった。それを今、子どもたちとやってるのです。K先生は大成功されてはいますが、もしかしたらその成功の裏には「愛着障害」の克服への力があったのかもしれません。
もしもご主人が「壊れた超合金のロボット」を大事に持っていたら、決して捨ててはなりませんから。それがそのご主人の「安全基地」の象徴かもしれませんから。そして、カブトムシを捕まえに行くご主人を責めないであげて下さいね。女性の場合は男性と比べると懐古趣味はなさそうですが、ま、ママゴトなんて家事・育児の真似事だから、あえてやらなくてもですね。だけど「冬ソナ」にハマりこむ主婦もまた、それが「安全基地」と機能してる可能性はあるので、見てるだけならそっとしてあげた方がいいでしょうね。
それから他には「傷ついた体験を語り尽くす」ことも重要だとされています。この辺りはセラピーでも十分に機能するところ。とにかく語ってもらう。そしてそのときの「感情」を出してもらう(感情処理)。それらが出きったとき、例えば自分を放置していた親は、自分のことが憎かったのではなく、単に「不完全」なだけだったんだ。親は親なりに精一杯だったんだ、みたいなことに気づくこともある。そう言えば冬になると「みかん」だけは絶やさず買ってきてくれたよな~。親父がみかん食べてる姿、ほとんど見たことないけど、子どもたちのために、いっつも無理して買ってきてくれたんだよな~、なんてことが思い出されることも。いろいろあったけど、親は親なりに精一杯、オレのこと愛してくれてたんだな。うわ~(涙)、、、なんて気づきがあれば、その瞬間に「安全基地」が復活するかもしれません。だけど、実際はどうなるかわからないので、私もセッションのときは恐る恐るです。申し訳ないですが、確信なんかないですよ。だけど、必死なのはわかってくださいね。そして必死であればあるほど、伝わることも実感しています。
他にもヒントとなる話はたくさんあるのですが、そろそろ字数がやばいので終わる必要がありますが、一つ、私なりに加えたいものがあります。それは「スピリチュアルな体験」です。なんだそれは、、、と思うかもしれませんが、私が持っていた「不安」を根底から消してくれたがのが「スピリチュアルな体験」だっただけに、だからこそ、スピリチュアルカテゴリでブログを書き続ける使命があるのかもしれません。この話はまた別の機会にでも。今日はこの辺で。ありがとうございました。
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SMクラブでお仕事されているお姉さんのお話なのですが、そのようなお仕事って、人間が普段隠している面を見ざるを得ない。綺麗事も立場もなく、ありのままに相手を受けとめるお仕事で、人間をよーく知ることができるお仕事なのかな、と感じます。
作品内にも、プレイをせずに、お話だけをして帰って行くお客さんのエピソードもあります。
何かを抱えている人が求めているものに対して、自分が差し出せるものは何だろう。
私はセラピストになりたいですが、具体的な焦点化はできていません。じっくり考えていきたいと思います。
うーん、まずは、そばにいる人をそのまま受け入れることからスタートでしょうか。

同義語ではありません。
ありがとうございます。変更となりました。。
そのうち書きます!