生きる 2012.8.15
2012年 08月 15日
なんだかんだと日本はまだまだ「敗戦国」であって、中韓はもちろんアメリカもその論理を無意識に押しつけているのが現実。果たしてこの「関係」はいつまで続くのでしょうか。2045年となると、戦後100年で私は70代。加藤茶や高木ブーが70代であること見ると、その頃までには生きているとは思います。88歳まで毎日ブログを書くことが私の人生における「最大の目標」でもあり。だけど、「死」と「生」だけは自分の意思を完全に超えたものであり、そればかり「運命」つまり宇宙にお任せするしかありません。何歳で死んでも、どのような死に方をしても、それはすべて「運命」であり、避けることはできないもの。ですので、120歳まで生きるかもしれないし、もしかしたら5分後に死んでいるかもしれない。そればっかりはわからないし、避けようがないもの。
ここ数日、フェイスブックで同級生とずっと会話をしているのですが、楽しく懐かしい話の中に、どうしても避けられない話題があります。それは同級生やその周辺、親御さんの「死」について。特に同級生については、私たちと同い年。私が知る限り3名の同級生がすでに亡くなっています。一人は硬式野球部だったので交流はなし。残り二人はそれこそ小学生・幼稚園の頃から知ってる男でした。40歳にもあると、そのようなこともちょっとはあり、これから先、そのような話を聞くことも当然増えて行くんだと思います。そのうちの一人は、確か卒業して何年も経たない20歳くらいで亡くなったと思います。それに関して、フェイスブックでいろいろ話をしていたら、昨日ご紹介した「じーさん」は、、、その亡くなった同級生から「手紙」をもらっていたそうなのです。彼とじーさんは小学生の頃から親友でした。だけど、亡くなった彼は高校のとき、なぜか人とあまり交流していませんでした。いや、彼は人と接することをすごく求めていて、彼のことを嫌う人も知る限りいなかったはずです。だけどなぜか孤立していることが多かった。その彼は先日のエントリーで書いた彼と同一人物です。
じーさんはその亡くなった彼からどんな内容の「手紙」を受け取っていたのか。彼は高校卒業後、ある欧米圏に留学していました。その留学先で客死したのですが、手紙もその国から。「今、国際ジャーナリストになるためにこっちで勉強している。帰国したら飲みに行こうぜ」という内容だったそうです。その手紙を受け取って、しばらく放置した後、何気なく返事を書いて投函してすぐ、彼の訃報を聞いたというのです。その彼が「国際ジャーナリスト」を目指していたなんて、誰も知らなかったのではと思います。私も今回初めて知りました。そのことを知って、今更ながら胸がキューっと苦しくなりました。
言うまでもなく国際ジャーナリストとして名を馳せることはできませんでした。夢半ばどころか、おそらく語学学習の段階にしかなかったのだと思います。夢叶わず死す。彼は不幸なのか。それを彼自身が判断することはできません。こればかりは証明することは永遠に不可能ですが、何度も言ってきた通り、「死後の世界」は存在しません。臨死体験等で魂が抜け出て自分の身体を宙から眺めたなんて証言もごまんとありますが、それらはすべて脳内現象に過ぎません。当然、三途の川もないし、天国も地獄もありません。閻魔大王もいません。天使も仏も実在しません。それらはすべて、今、この世に生きている私たちが恣意的に作り上げたフィクションです。中にはドラッグやヘミシンク等によって「死後の世界」を見てきたと言う人もいますが、それはドラッグやヘミシンクが見せた脳内世界です。ですので、見たこと自体は事実でしょうし、そのことがまったく無意味とも言いませんが、だけど、それは実在する普遍的な世界ではありません。なぜそのように断言できるのか。それは私の霊的直観としか答えようがなく、そう答えること自体がまた「死後の世界」の肯定論者と同じになってしまいますが、それでもそう答えるしかないのです。
国際ジャーナリストを目指して叶わなかった彼は幸せだったか。死すると、そこには幸も不幸もありません。そして一切の意味も価値もありません。ただあるのは、この世でジャーナリストを目指していた一人の男が客死した。その事実があるだけなのです。そのことに対し、彼は幸せだったのかどうか、、、と考えるのは、この世に生きる私たちの価値であり、別の言い方をすれば「エゴ」に過ぎません。できることなら、幸せであったと思いたいし、そのための材料を手にしたい。それは残された自分自身の心の問題に過ぎないのです。そのことを「供養」と言います。「供養」とは死者のためにあるのではなく、残された子孫や関係者のためにあるもの。
何のために墓参りするのか、何のために墓の掃除をするのか、何のためにお供えをするのか。それは死者のためではなく、自分のためにするのです。墓参りしようがしまいが、墓が汚れてようがどうであろうが、死者にはなんの関係もありません。墓が汚れてるから死んだお爺ちゃんが泣いてる、、、なんてのは、残された子孫の心の世界のこと。お爺ちゃんのためは単なる「方便」であって、その本質は自分自身の供養でしかありません。
私は昔、祖母からたいそう可愛がられていました。私が大学生の頃に亡くなったのですが、私の論理からすれば、当然、祖母はただ運命のままに亡くなっただけであり、それ以上でも以下でもありません。祖母の魂も霊も存在しません。だけど、祖母は私の心の中に存在し続けています。私は今後お金に窮することは絶対にないと思っています。なぜなら、お金に困ったら亡き祖母が助けてくれるから。実は今まで何度もあります。目先のお金がなくなってちょっと困ったことが。そんなとき、私は天国の、、、いや、自分の心に存在する祖母にこう呼びかけます。
「おばあちゃ~ん、ちょっと今お金ないねん。なんとかして~」
するとどこからともなく、「よっしゃ」という声が聞こえます。厳密に聞こえるのではなく、そう感じるのです。そう思い込むのです。そうなったらしめたもの。本当にどっからともなくお金が入ってきて、本当に助かるんですよ。もう、何度も何度も何度も経験してること。実在の祖母はこの世におらず、預金通帳からお金を借りることはできませんが、心の中の祖母は永遠です。そして永遠に私を助けてくれるのです。こんな心強い存在ってないでしょ。
話を戻します。ジャーナリストを夢見て留学した彼。もし私が彼の身内だったら、、、もちろん絶望的に悲しい思いをしながらも、だけど「よかった」と落ち着けると思うのです。だって彼は夢を持ったまま生きていたのですから。私の哲学はここにあります。「しない後悔よりもした後悔」と言いますが、自分のやりたいことをしながら死ねるって、あえて言います、最高じゃないですか。国際ジャーナリストになるのがどの程度の難易度なのかは知りませんが、そのために留学したいと言う彼を止めなかったのは、彼に対して最良の選択肢だったんじゃないか。
私に息子、ちびQはまだ3歳です。テレビ見ながらご飯が食べたいと泣いても、うちのルール違反ですので、そうはさせません。だけど、もっともっと大きくなって、本当にやりたいことがあると言ったとき、私は止めないでおこうと思います。もちろん犯罪だとか、命を捨てるようなことは全力で止めますが、それ以外のことは、もし私自身にとって賛成できないことであっても、止めずに見守ってあげたいと思うのです。そしてそのために親としてできる援助は、可能な限りできるような親になっていきたいと思うのです。
9.11以降に拡散したと知られる有名な詩があるので、ご紹介します。
「最後だとわかっていたなら」
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
後悔しない今日を生きる。自分にとっても、そして他人に対しても。きっと「明日」は来るでしょうが、それはあくまで統計学的な推論の世界。だけど多くの人は、その「明日」を信じながら、生涯でたった一度だけ、それも確実に「明日」の来ない日を迎えます。だけど、私は、私たちは「今」を生きています。それだけは永遠に変わらない真実。人生はその「今」を繰り返すだけ。最高の「今」を生きていきます。
そんなわけで、しんみりしちゃいましたが、、、大阪と名古屋でのセミナーもいよいよ週末。何度も言うように、「懇親会」の締切は16日中です。セミナー自体は席があればギリギリでも大丈夫ですが、大阪は残り3名。私も久々のセミナーで張り切っています。いつもの顔もあれば、懐かしい顔もある。もちろん初めての顔もある。とにかく楽しい二日間、いや、一日と一日を過ごしたいと思います。お盆なまりをフレッシュにして、実りの秋を迎えたいと思う方はまだお待ちしています。ありがとうございました。
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