救い 2012.8.7

 昨日は中学の思い出話で飛ばしてしまった。でも割とこの手の話、評判いいんですよね。近頃はフェイスブックで同級生とリアルに連絡することが増えてるのだけど、実はそれ以前から、このブログはちょっと読まれてるみたいでした。学校関係の人たちから。つい先日もずっと音信不通だった同級生から、「2005年頃から読んでます」って連絡を頂いて、「おい!」って感じです(笑)。昨日のに限らず、これまでも学校関係とか家族関係とかかなり書いてきて、共通の背景を持つ人間だったら人物まで完全に特定できますからね。そりゃもう、、、いい話ばかりじゃなくて、昨日のようなちょっとほろ苦くもどことなく熱い、いや温かいエピソードもあるわけで。だけどこの手の話って誰にでもあると思うんです。言ってみれば平凡。ただ、そんな平凡な話であっても、私自身のフィルターを通して文章化すると、自分で言うのもなんですが、それなりに読めるようになる。

 昨日の話などは同級生が読むとダイレクトに面白いはず。イニシャルトークだってすべて明らかですから。だけど、そんな共通背景を有しない一般の読者さんでも、それなりに読める話だったようです。そして40年間生きてきて確実に言えることは、すべてのことは「今」に活きてるってこと。確かに世の中にはシャレにならない経験をして人もたくさんいます。最近問題になってるイジメのような。幸いにも私はそこまでの被害当事者になったことがないので、それゆえに当事者の気持ちに立つことはできないかもしれない。だけど、自分なりの視点で考えることはできる。そして悲しいかな、この世の中から「イジメ」を撲滅させることはできないかもしれない。もちろん学校や地域単位ではイジメのない空間を成功させることは可能でしょう。だけど、世の中全体を俯瞰してみると、イジメ自体をなくすのは、自然の摂理に反すると言っていいほどに困難なこと。

 しばしば引き合いに出され、私も経験があるのですが、虫かごや水槽で複数の生き物を飼ってたとします。私は以前、メダカのような熱帯魚を飼っていたことがあります。すると必ず餌を食べれない魚が出て来て、当然、他の魚に比べてやせ細ります。そこで始まるのがイジメです。そのやせ細った魚を他の魚が追いかけ突き回すのです。あまりに見てられなかったので、その細い魚を一匹だけ別の金魚ばちに移しました。もう少し身体が大きくなってから戻そうと思って。すると、お分かりと思いますが、その細い魚がいなくなった水槽では、また別の魚がイジメの対象になってるのです。それと同じことをさかなクン氏も書いています

 なので、人間も生物である以上、水槽のような、つまり学校、地域、会社などの狭い空間に大勢で入れられると、そのような現象は起こるもの。しかし、人間は生物であると同時に「人間」です。つまり現象そのものを無くすことはできずとも、解決に向けることはできる。では、どうすれば解決できるのか。端的に言うとイジメで自殺する人をなくせるのか。それは学校だけでなく会社・社会も同じ。今もなお自殺者は年間3万人で推移しており、その構造自体は学校におけるそれと同じ。その解決策は私なりに思考できます。それは一言で言って「居場所」を作ること。

 「居場所」を失ったことのある人間は、「居場所」の大切さを身にしみてわかると思います。ただし、この「居場所」は必ずしも「空間」ではありません。この「居場所」とは「人」のこと。最近の大学生は独りで飯食えないって話を読んだことがあります。私などは大学時代、独りで飯うなんて全然平気で、むしろそれがかっこイイいとさえ思っていましたが、誰もが必ずしもそうではないらしい。そんな人はトイレに弁当を持ちこんで食うんだそうです。こちらはネット上でよく見かける有名な画像。
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 独りで飯を食うとこんな視線にさらされるのか、それが辛くてトイレで飯を食う。だけどトイレは「居場所」ではありません。それは成す術がなくて追い込まれた墓場のような場所。この場合の本当の「居場所」とは「一緒にご飯を食べる友人」です。そんな人がいるだけで、一杯のかけうどんでさえも、トイレで食うフルコース以上に美味いものです。学校でのイジメの本質は暴力や嫌がらせなど直接的行為ではありません。それは実に巧妙にできており、本質はイジメ被害者の「居場所」を奪うところにあります。加害者はそのことを本能的に熟知しており、もしその被害者と仲良くしようものなら、次はオマエが被害者になるんだとけん制をかけます。ただし、語弊があるかもしれませんが、その加害者は本質的に「悪」ではなく、水槽のメダカと同じように生物としての本能に従っているだけのこと。そのことを「悪」と呼べばそうなりますが、前頭葉が発達してない時期ゆえに、その本能に従ってしまうのです。その意味で言えば大人のイジメも同じ。前頭葉が発達してない、抽象的な思考ができない、他人の気持ちがわからない、メダカ並の「脳」しか持ってない人間がイジメを行うのです。これからはハラスメントを行う大人のことを「メダカ脳」と呼んで揶揄してあげましょう。

 話を戻しますが、イジメの本質は「居場所」を奪うこと。そこでもしも酷いイジメを受けていたとしても、たった一人でいい、話を真剣に聞いてくれる誰かがいれば自殺を防げるかもしれない。それはクラスメートだけに限らず、先生でもいいのです。ここで一つ身内の話になりますが、私の弟もまた、中学で寮生活を始めた当初、悪質なイジメではないもののからかいの対象になっていた時期があったようです。おそらく悩んだことでしょう。友達がいないわけでなくとも、親身に聞いてくれる対象ではなかった。むしろその友達がカラカイの当事者だったかもしれない。そして寮生活なので親に相談もできないし、そもそもイジメ全般において親は相談者となりにくいもの。身近過ぎるためか。そこで誰が弟に「居場所」を与えたかと言うと、それは寮長先生でした。当時の寮では「解説」と言う名のカウンセリングシステムがあり、主に寮長先生が生徒の話を聞き適切にアドバイスを行うのです。もっぱら静かな勉学時間に、寮長室という隔離された絶対安全の空間であらゆることを打ち明けられるのです。私も随分とお世話になりました。そして弟はそのM寮長の「解説」によって覚醒しました。それにより誰からもからかわれることがなくなり、勉強ではずっと学年一番、その他諸々。卒業してから私がふざけてM寮長を揶揄した発言をしたら、あのおとなしい弟が真顔で反発してきました。「M先生の悪口を言うな!」と。熱いぜ。今思うと、あのM寮長は最高のカウンセラーでありコーチでした。実は私もセッションを行う際、どこかにM寮長をモデルとしておいてるのですが、まだまだ、まだまだ、まだまだ足元にも及びません。だけどいつかはあの境地に達することが、私自身の職業的目標にもなっています。

 おそらく今後もコーチやカウンセラーの役割は社会において大きくなっていくことでしょう。しかしコーチ及びカウンセラーにとって重要なのは「やり方」ではなく「あり方」です。お金払って技術を学べばプロになれるのか。そんな甘い世界ではありません。もちろん技術は大切です。包丁の持ち方を知らなければ料理ができないように。しかし、どんなに持ち方さばき方を学んでいたとしても、包丁自体が錆びついていたら何の意味もありません。その点で言うと、私自身も「錆びついたコーチ」にならないよう気を付けなければならないのですが、それがもう、、、嫌になるほど錆を自覚することがあって反省しきりです。もっともっと精進させて頂きます。

 話を最初に戻しますが、私自身は幸いにも悪質なイジメにあったことはありませんでしたが、それでも「居場所」の喪失感を感じた時期は確かにありました。それが中1から中2にかけての頃。とにかくまあ、いろいろあって楽しくなかった。中1の頃なんかは、今思うと、友達という友達もいなかったかもしれない。それを証拠に中1の正月、私に届いた年賀状は1枚だけでした。それも小学校の頃の同級生。だけど、その1枚でどれだけ助かったことか。その1枚の年賀状が私にとってのわずかな「居場所」だったのかもしれません。中2に進級すると、いくらかクラス替えが行われました。そのとき、私の「居場所」となった同級生が同じクラスになりました。その同級生とは特別仲良かったわけじゃありませんが、その男がクラスにいるとなぜかホッとする存在。今思うと、その存在もまた私にとって「居場所」だったのかもしれません。また、昨日の話に関してですが、中3のとき、いわゆる「前科」によって私が追い込まれたとき、Kによる「私たちが歌います」という一言がふっと心を救った。その一言が、どういうわけかあれほど「前科、前科」とうるさかった男たちの言葉を止め、自然と私も元の「居場所」に戻ることができた。

 この「居場所」という概念は現代社会においてものすごく重要だと認識しています。軽度であれ悪質であれ、学校内でのイジメの本質は「居場所」の喪失にある。もしも問題になっている大津の中学校で、M寮長のような存在が一人でもいれば、、、もしかしたら自殺を防げたかもしれない。大津の事件に関しては、まず担任からして「居場所」を奪うような言動を取っていたと言います。その担任には担任の事情もあったのかもしれませんが、やはり「先生」としてはあるまじき「あり方」だったのでしょう。だけどもし、その担任に期待できなくとも、学校のたった一人でも親身に話を聞く存在があれば、最悪のケースは防げたのかもしれない。それはスクールカウンセラーのような職業然とした存在ではなく、学校の顔のような精神的支柱がいれば。まさにM寮長のような。中学校と言う空間はいろんな意味で恐ろしい。肉体は大人だけで精神は子ども。まるで猛獣の檻のような空間でありながら、「義務教育」という「条件付け」がその檻から出ることを許さない。高校であれば通信制もあるし大検もある。逃げる場所がある。だけど中学はそうじゃない。だからこそ、、、精神的支柱のような存在が不可欠であり、おそらくはそのような存在に助けられた生徒も、世の中にはたくさんいるんじゃないかと思います。

 そして大人世界もまたそう。「会社」という空間もある意味、檻のようなところがあります。辛ければ辞めればいいって選択肢もありますが、家族を養っていたらそう簡単ではない。私ももし、2005年の時点で今のような子どものいる状態だったら会社を辞めていただろうか。私のこと、辞めてた可能性は高いですが、反発も多かったとは想像できます。いずれにせよ「檻」のような生活をしている人たちがいたら、否、たくさんいると思うのですが、その人たちにとっても必要なのはやはり「居場所」です。だからこそ一杯1,000円もするビールが存在するのです。カウンターの向こうで決して美人でもない年増のママがただ話を聞いてやるだけの場末のスナック。小鉢程度の料理と薄いタンブラーに注がれた瓶ビール。またはじゃぶじゃぶの水割り。うるさいカラオケ。しめて5,000円。だけど、その5,000円の価値がそのスナックにはあるのです。なぜならそれはその客にとって必要不可欠な「居場所」なのだから。

 もちろん「居場所」となるのはスナックに限りません。例えば女性はどうか、主婦はどうか。気の置けない友達がいるなら、それも立派な「居場所」ですが、そうでない人もいる。独りで悩んでいるだけの人もいる。だけどそんなとき、ふと検索して見たブログが「居場所」の役目になることもある。例えば阿部敏郎さんのブログなど、多くの人にとって「居場所」の役割を担っていると感じます。私のブログなどまだまだですが、それでも時々は「助かった」とのメールを頂くので、一部の人には何らかの役目を果たしているのかもしれない。そしてもし、許されるのであれば、そのような役割を担っていきたいとの気持ちもある。だけどいかんせん、、、私の「人間性」がついて行かない。そこは葛藤ですね。精進するしかない。
 
 だけどもし、今、このブログを読んで、救われる人、そして救う人がでてくれば、書いてて冥利に尽きるのも事実。一つ懺悔しなければならないことが。高校のとき、寮生活していたのは言った通りですが、月に一回、「外出」って日がありました。日曜日の朝から夕方まで、制服を着て県内をある程度自由に外出できるのです。小遣いとして4,000円を持たされて。私もいつもいつも電車に乗って遠出するのではなく、その辺をぶらぶらすることも多かったです。ある日、普段はあまり接することのない同級生と外出に出かけたことがあります。友達の友達とかの関係で。なんてことなく、歩ける範囲で出歩いて、その辺のスーパーで惣菜とかを買ってワイワイと食べていた程度。だけどその同級生はいつの間にか「居場所」を見失っている状態でした。小学校から一緒だったけど、ずっとクラスも寮での部屋も違っていたので、私は知りませんでした。決して嫌な奴でもなく、いじめられるようなタイプでもありません。むしろいい奴でした。そのときの外出も、素直に楽しい時間でした。

 しかしそれを機に、私はその同級生から妙に近しくされるのです。ほとんど接点がなく、クラスも部活も部屋も違います。だけど、外出ときだけ「一緒に行こうぜ」と誘われるのです。最初の1~2回は応じたものの、そのうちに窮屈になってきました。正直、これという話題があるわけじゃなく、楽しくもない。3回目には体よく断ったのですが、そのとき、何も言わずにその場を離れてしまいました。それ以来、私は誘われることはなくなったものの、その瞬間の「表情」がずっと頭に焼き付いているのです。

 そして高校を卒業後、その同級生は間もなく事故で亡くなりました。その知らせを聞いた数日後、私は夢を見ました。それは「金剛寮」での広間での一室。いつものように同学年がそのフロアに集まっています。そこにその同級生が登場し、言葉もなく私たちに何かを訴える。私たちは涙して聞いている。目が覚めたとき、私の頬も涙で濡れていました。彼にとっては、私は少なくとも「居場所」であった時期があった。もちろん亡くなったこととは何の関係もないのですが、それでもあのときの無言の「表情」を今でも思い出すことがある。私は「居場所」でい続けることができず、また、役に立つこともできなかった。偽善も甚だしいと思われるでしょうが、その同級生にいつか謝りたいと思ったのだけど、そう思ったのは亡くなったからかもしれない。そして今後、そんな後悔をしないで生きていきたいと思いながら、今もなお、そんなことをやっている自分がいるのも事実。そこにまた葛藤あり。

 だけどちょっとずつでも、、、成長していきたいとは思っています。そして役に立ちたいとも思っています。なんだか言い訳がましい話になりましたが、少しでも理想の自分に近づけるよう頑張りたいと思います。ありがとうございました。
 
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by katamich | 2012-08-07 23:39 | ■人生哲学 | Comments(0)