元型 2012.5.15

 さて、今日も写経とコーチングでスタートしたわけですが、最近、読書も進んでいます。執筆については、もうちょっとガソリンが必要なので、今は読書でインプット。もっぱら仏教哲学の本ですが、ナーガルジュナの「中論」とか、古典的な本にも手を出しています。やっぱり古典に当たらないとね。さすがにサンスクリット語は読めないけど、日本語で出てるこの手の古典を片っ端から読もうと思います。

元型 2012.5.15_b0002156_177046.jpg 思えば、20歳前後、西洋哲学にハマった時期があって、中でもフッサールの「現象学」に相当入り込んで、入れ墨したくなるほど。あの当時、「現象学」の解説書は片っ端から読んで、ドイツ語の原書は無理だけど、和訳と英訳とを二つ並べて、一言一句丁寧に読んだものです。その時期がおよそ2~3年はありましたが、卒業論文ではマックス・ヴェーバーの理解社会学に対する現象学的批判を行ったアルフレッド・シュッツを取り上げ、主著である「社会的世界の意味構成」への論述を行いました。ま、単なる要約の範囲を超えなかったと思いますが、それでもその理論的下地はあの頃にある程度は敷かれたのかもしれません。

 そして今、仏教哲学に関する本を手当たり次第読んでるのですが、まだ表面的ではありながら、昔、勉強していた「現象学」と仏教哲学、特に大乗仏教の「唯識論」などがかぶる部分も多く、それゆえ思ったよりもスルスルと頭の中に入ってくる感じです。いや~、それにしても面白いです。昨日も書きましたが、すべてにおいて何一つ無駄はなく、しかも20歳までの自分を引き継ぎながら生きている実感があります。当時、わけもわからず「現象学」の勉強をしながらも、それから十数年はまったく放置。今になってなぜか昔の専門書を引っ張り出して読む。そして今、改めて昔の本を読むと、あれほど苦労した本であっても、今は実際の「体験」を重ねてきたためか、すごくよく理解できるのです。滝行や瞑想をしてきたからこそのような気もします。

 私は今、もっぱらブログで自分自身の気づきや哲学を発信しながら、セミナーや研修でしゃべる仕事もしています。この2点について、前も言ったと思いますが、やっぱり昔の自分と関連してるんですよね。まず、「文章」の発信についてですが、私の名前が初めて商業誌に載ったのが小学5年生のとき。「マイコンベーシックマガジン」なる雑誌に、小1の弟がプログラムを投稿し、私がその解説を書いて出したのが初めて。印税で税込み1万円もらいました。その弟は今はエンジニアでプログラムしまくり。私は本の出版その他諸々、特ネット上には名前がたくさん登場しています。

 そして「しゃべり」については、思い出すのが高3になる直前。吹奏楽部の部長だったのですが、ちょうどそのとき、高2高3しかおらず、先生も中学生もいなかったので、思うとこあってちょっと語ったのです。あの当時、受験で部活を辞めるとか辞めないとかの話があって、私は夏のコンクールまで続ける派。できればそのときのメンバーで締めくくりたかった。そしてその「思い」を約2時間、黒板ガンガン叩きながら熱く語りまくったのです。と言うか、正直に白状すると、その「辞める辞めない組」の中にちょっと好きだった女の子がいて、どうしても辞めさせたくなかった気持ちが強かったから。言っちゃった~。ま、いいけど。でも、そのときに語った内容は、もちろんちゃんと覚えてるわけじゃないけど、今、セミナーとかで語ってることとあまり変わっちゃいないのです。最終的にその女の子は辞めたのですが、私の中では完全に何か突き抜けた感じがして、そして他の部員からは「感動しました」などと言われて、自分に酔ってたわけです。

 その後、大学に入ってからも、何かあるごとに人前でしゃべる機会があり、それもまたウケるのです。会社入っても、仕事でプレゼンとかすると妙に評判がいい。そして会社辞めて2年後、人前で初めてお金を頂いてしゃべったのですが、それもまた好評。その後も紆余曲折ありながら今に至ります。最近はしゃべりに呼んで頂くことも増え、まさにしゃべりで食べてるような状態ですが、その原点は高3のあの音楽室での語りにあるんだと、ここ最近、気が付いたわけです。

 もちろん、文章についてはこうやって大量に書いてるし、しゃべりについても練習などはたくさんしました。だけど、その「元型」は20歳くらいまでにすでにあったのだと、40年間生きてきて振り返るわけです。高校卒業するまで、ほとんど活字らしい活字は呼んだことなかったのに、予備校の講義で突然目覚めて、受験勉強そっちのけで哲学の本を読みまくる。一時期、と言うか、かなりの期間は哲学も放置していましたが、今、こうやって毎日読んでいる自分がいるのです。

 旅に目覚めたのは浪人してからですが、小学生の頃は、それこそ昨日のせーちゃんらと、いつも探検ごっこをしてたので、何か未知なる場所には興味があったんでしょうね。居酒屋などで知らないメニューがあったら、何も確かめずに注文するのですが、それもまた未知への好奇心かもしれません。

 ここ数年、「天命」「使命」「自分らしさ」などをテーマに考えてきましたが、その答えはすでに幼少期にある。これが結論です。少なくとも20歳くらいまでには「元型」ができあがっている。いろんな人を見ていても、そう確信するようになりました。ここ最近、フェイスブックで昔の友人と再会することが増えていますが、これは同時に昔の自分を思い出すきっかけにもなっています。これは単に過去に思いを馳せるのではなく、自分の「元型」を思いだし、新たな旅立ちを示唆するものだと感じています。自分にとっての最強の武器は自分でしかありません。自分の「元型」にしかありません。そんなことをふと思いながら、今日も哲学書を読むのでありました。ありがとうございました。

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Commented by at 2012-05-16 17:42
>その答えはすでに幼少期にある。
言えてますね~。
私も今は某TVスタジオの機材管理などをしていますが、機械に触れる機会はオヤジが与えてくれました。
とある日、何故か家にビデオデッキが置かれており、オヤジ曰く
「繋いでおけ!」(←自分は解らんのです)
小学校低学年。説明書すら読めなかったのに、オヤジの言う事が絶対だったので説明書の図や、現物の構造などから推察して、やり遂げました。

今でも同じような事を仕事でしています。
それにしても、当時のビデオテープは高かった・・・
家族で一本のテープを繰り返し使ってましたわ~
Commented by 山師 at 2012-05-17 02:20
Qさん!
ご返事有り難うございます。
山師の通りの山師です。(笑)
そして、Qさんと同じ大阪人やで。

なので調子こいてコメントしますが、自分の学生時代はマトモな人が聞くと非難や顰蹙を受けそうな事ばかり仲間でやっており、全員既婚者で中々集まれなくなりましたが、何人かでも集まると、当時のエピソードで腸捻転になるぐらい笑えます。
(>_<)
それぞれの性格なども、当時と何ら変わっていないですし、自然にこなしている役割なども、当時と同じです。

自分がそうなので、それぞれ会社なんかでも同じ感じなのでしょうね。(笑)

Commented by katamich at 2012-05-22 22:20
■営さん!
ありましたね、そんな時期。
Commented by katamich at 2012-05-22 22:21
■山師さん!
どこも同じですね(笑)
by katamich | 2012-05-15 23:39 | ■人生哲学 | Comments(4)