体験と知識 2012.4.23
2012年 04月 23日
振り返ってみれば、今の私があるのも「般若心経」のおかげのような気もします。会社を辞める決意をする際、神社でコインを投げたのですが、そのときに唱えたのも般若心経。ちなみに般若心経は仏教の経典ですが、神社でも唱えていい決まりになってます。元々日本の宗教は神道、仏教、修験が混在した姿が自然であって、明治時代の神仏分離によって政策的に線が引かれただけのこと。滝行にしても、修験、密教(仏教)、神道でもそれぞれ行いますし、私は導師の元で「天台修験(天台宗)」の方式で滝行をさせて頂いており、さらに仏教系(密教系)の縁があるので、仏式をメインに修行しています。ですが、滝の中では最初に「禊の祓い」なる祝詞を唱えますし、「大祓い」を唱えることもあります。ようはごちゃ混ぜですが、それが本来の姿であると思い、こだわらずにやっています。そもそも、仏教も神道もキリスト教もイスラム教も、すべての宗教は「宇宙の理」を説いてるわけで、そこにアクセスする以上なんだっていい。なので、旅先ではキリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグなどの礼拝所ではきちんと手を合わせて頭を下げるようにしています。来年行く予定のアイルランドも島中が教会だらけですが、なるべく教会には立ち寄るようにして、感謝をささげたいと思っています。
そもそも宗教宗派などは単なる地理的要因でしかありません。日本は四季に恵まれた牧歌的な風土があり、そこではアミニズム的な土着宗教に始まり、神道や仏教など多神教的な思想習慣が受け入れられやすい。それに対して中東は砂漠地帯を中心として厳しい土地環境があるため、むしろ土地を超越した絶対的な神に帰依する方が受けやすいだけのこと。イスラム教では豚肉とお酒は禁止され、セックスに対してもかなりの制限があります。それも物理的要因であって、遊牧生活をしていた当時の中東の人々(ベドウィンなど)は、豚など飼えないのです。厳しい環境への耐性がなくすぐ死ぬ。寄生虫も多い。おまけに穀物を食べるので、人間の食料が減る。だけど困ったことに食べると美味しい。それだけでも豚を飼う理由になるのですが、先ほど述べたようにいろいろ厄介だから、いっそのことコーランで規制しちゃえってこと。また、アラブ人はアルコールの分解力が異常に強いらしく、つまり酒に強い。そして精力も絶倫。だから野放しにしていると、酒や性に溺れて国が傾いてしまう。それもコーランで規制しとけってこと。神のお告げとかあまり関係ないんです。
ですので、その点で言うならば、インドネシアやマレーシアはイスラム教国ですが、土地的に豚を禁止する理由はないはず。ヒンズーのバリ島は食べまくるのだし。だけど、一応、コーランに書いてるのだから守った方がいいと考える。それはそれでいいことと思います。理屈はともかく、守るべきことはどこにだってあるのだから。ただ、コーランにだって、どうしても食べなければいけないときは、食べてもいいと書かれてるそうです。以前、九州のある大学生が、マレーシアかどっかの留学生に豚骨ラーメンを騙して食べさせて問題になったことがありました。これは100%その大学生が悪い。文化に対するリスペクトがなさ過ぎる。だけど、食べてしまった以上、留学生を救済する必要もあって、それは「この場合は仕方なった」で済むはずです。騙されたのだから、その人の責任じゃない。それでいいと思います。ただ、イスラム教徒もいろいろいて、国外では酒も豚肉もOKとしてる人もいれば、めちゃくちゃ厳格な人だっている。以前、トルコからイランに入るとき、トルコ国境でイラン人が酒をがぶ飲みしてました。個人的には本人次第でいいと思いますが、それを他人に強要することはないです。その小さな「強要」が大きくなると「戦争」に結びつく。結局、私は干渉しないけど、他人も干渉してくれるなよ、と言うのがスタンスです。
日本にも日蓮宗系のような排他的な仏教宗派はありますが、私はその信者たちが守っていることを否定することはないけど、私に対してもいろいろ言わんで下さいねってだけのこと。人それぞれの信念もあるし、また、時代時代によって環境も価値観も変わるのだから、その時々の状況に合わせた信仰があればいいと思います。原典に書かれたことが絶対だとして、土地環境や時代性を無視した信仰のあり方を「原理主義」と言うのだけど、本人たちがそれでよければいいけど、それを他人にまで強制はしてくださんな、ってことです。
神社で般若心経を唱えていい、という話からまた脱線。そう、般若心経なんですが、まず会社辞める日に神社で唱えました。そして会社辞めてインド(ラダック)に行ったとき、お金なくてやることなかったら、丘の上(ナムギャルツェモ)で般若心経を1,000巻唱えてたら、その820巻目で神秘体験があったわけです。その話は拙著「宇宙となかよし」でも最後にちょこっと書いてるのだけど、そこを読んだ座禅の先輩が「これは見性体験だよ」と言われました。確かにその瞬間から、世界観が180度に近い変わり方をして、それがスタートでした。絶対に「大丈夫」だってことを体験として理解したので、会社辞めてゼロからスタートしたとこで、あれから7年。とりあえず大丈夫ですもんね。
そして当時は「般若心経」そのものもそうだし、「空」についても、ほとんど何も知らなかったのだけど、今振り返ると、あの「体験」はまさに「空」だったなと思えるのです。以前、初めて阿部敏郎さんの講演会に行ったときのこと、それまで阿部さんとそのブログの存在は知ってたのだけど、ブログを読んだことはほとんどありませんでした。だけど、その時期急激に数名から「阿部さんの講演会に行ってきて」と言われて、3回以上同じこと言われたら何かあるルールを敷いているので、とりあえず行ってみたのです。一回目は申し込みながら、加賀田晃先生のセミナーに招待されて阿部さんの講演は他の人に譲りましたが、二回目はたまたまその日にあることを知り、近くを通ったので飛込みで行ってきたのです。どんな話をされるのか何の予備知識もないまま聞いたのですが、わかるのです。そうそう、そうそう、と。そして最後に質問させて頂き、ブログにも書きました。するとその日のことを阿部さんご自身のブログでも紹介して頂き、「最後に質問した石田さんって人は、わかってて質問したことが、ぼくにはわかってた」みたいなことが書かれていました。
でも、そのことも私は良くわかったのです。私がある程度、自分なりの体験を持ちながら、あえて質問したことを阿部さんはわかってるんだな、と私もわかりながら質問した。その「わかる」ってのは何か。あ~、そうかって感じです。その後、走馬灯のようにラダックで般若心経を上げたこと、そして滝の中で突然、力を抜いて何かがわかったこと。それがわかったのです。
今にしてみれば、良かったと思うのですが、私はまず「体験(一時体験)」がまずあります。その体験は体験として体験していながら、ずっと後になってから「あ、そうだったのか」とわかることがあるのです。実は今日、突然ピンと来て、フッサールの「現象学」に関する本を押し入れから引っ張り出してきました。ちびQが横で「なに探しよると~」とか言ってて、その瞬間、「あった!」と声を出したら「あったと~、よかったね~」ってさ。いつの間に生意気に博多弁になっとるねん。
で、「現象学」ですが、20歳前後の頃、なぜかハマって読んでました。「フッサール」って刺青しようと思ったくらい、、、ってことはありませんが、夜中に大学に忍び込んで、フッサールの本を孤独に読んでいたら警備員の人に見つかり、えらい怒られたことありました。その頃、めっちゃ生意気な私でしたので、ちょっとヤクザっぽい警備員だったからこそ「なにがアカンねん!」とかけんか腰にもなりました。翌日も因縁付けてきたので、「うるさいわい、ぼけ!」とか言い返して、かなり険悪になりました。いやいや、アカンやろ、それは。夜中に忍び込んだらアカンやろ。でも今思うと、あの当時、「現象学」に何かとてつもない真理が書かれてあるような気がして、妙に真剣だったのです。大学四年間は友達を作らず真理を極める、、、とか思ってましたし。
結局、大学2年になると、勝手に友達ができてしまい、そこから堕落の大学生活。最終的に単位ギリギリで卒業しましたし、現象学のことなども忘れてました。だけど今日、「般若心経」に関する本を読んでいたら、「あれ、これって現象学のことか??」と突然ヒラメキ、押し入れから引っ張り出してきたとこ。現象学と仏教。確かに無関係ではなさそう、、、と言うか、どっちも難しすぎるのでここでは解説できませんが、私の中の何かが進んだ感じがしてちょっとテンション上がりました。20年前、夜中に大学に忍び込んで読んでいた現象学の本が、今頃、つながるなんてね。
そして今、改めて現象学の本を読み返していると、やっぱりわかるのです。当時は難しすぎて歯が立たないながらも、一字一字、辞書ひきながら読んでましたが、今は「体験」があるのでわかるのです。ああ、そうか、現象学も、仏教、般若心経も、空も、滝行も、、、結局同じこと言ってるんだな。それが一つの「体験」によってつながった瞬間です。世界を「ありのまま」に見ること。それが仏教で言う「空」であり、現象学で言う「現象学的還元」です。ラダックの丘の上で、涙を流して悟ったこと。世界は「ありのまま」以上でも以下でもなく、何の意味も価値もない、だけどそれ自体が喜びに満ちたリアリティな今ここの世界なんだ。
そう言えば、「現象学的還元」の前の段階として、目の前の事象をカッコに入れる、つまり「エポケー」なる段階があるのですが、それはまさに禅で言うところの「二念を継がない」に通じます。つまり私たちは目の前の事象に対してとかく判断をしてしまいます。物音がしたら「何だろう?」と考えますが、物音は物音でしかない。その「何だろう?」的な意味や価値をカッコに入れる、まさにエポケーすることで、「ありのまま」の世界に近づくのです。滝に打たれていても、確かに寒いは寒い。だけど、その寒いなる思いは、身体の無意識的な緊張による反応の一つに過ぎない。その緊張それ自体を解くには、とにかく力を抜くこと。そこで「ありのまま」の「滝」と一体になることができる。それもまた、2008年秋に悟った真理でした。「ありのまま」の世界に生きること。それがまさに「空」を体感することだったのです。
結局のところ、私の場合、インドでも滝でも、まずは「体験」ありき。そこにいろんな知識が付け加えられるだけであって、今はちょうどそのプロセスです。ただ、このようなブログや本を書くことに対し、ちょっとした迷いもあります。なぜならブログや本は読み手にとっては「知識」でしかないから。同じ体験を有する人であれば、「なるほど」とわかるのですが、そうでなければ「知識」でのみ判断してしまい、その知識がむしろ体験を遠ざける要因になりはしないかと。
例えば私が滝行の初心者の方に「肩の力を抜くといいよ」と教えたとします。確かにそうなんですが、私が「肩の力を抜いた」のは教えられたからではなく、ギリギリまで追い込まれて最後に行き着いた境地。ですので、アドバイスによって教えた答えは、受け手にとっては本来の答えになり得ない。だからと言って、いつもいつも滝行できるわけじゃないので、手っ取り早くコツを教えた方がいいとも考える。
以前、座禅の公案を解いたときもそうですが、とにかくその公案と一体になるまで座り尽くす。私の場合はすでに体験があったので、二回目の参禅によりその公案、つまり「父母未生以前に於ける本来の面目如何」なる公案を解くことができたのですが、その答えをここに書いても何の意味もありません。
また、滝行の際、初心者が来られるとしばしばお世話をさせて頂くことがあります。その際、その方のが打たれている正面でお経などを唱えさせて頂くのですが、般若心経に加えて、「真言」を唱える必要があります。そのとき、導師に「何の真言唱えたらいいですか?」と聞いたところ、「自分で波動を感じろ」と言われ教えてもらえませんでした。ある日、滝に私の仲間10人以上をお連れしたとき、私がすべてお世話させて頂いたのですが、とにかく浮かんできた真言を唱えるしかない。その中のある人のお世話をさせて頂いているとき、突然、「おんあみりたていぜいからうん」と出てきたのです。阿弥陀様の真言。滝行が終わってから、「Qさんは私のとき、何を唱えていたのですか?」と聞かれたので素直に答えると、驚かれました。阿弥陀様は死者を涅槃にお連れする仏様。成仏です。なんとその方の友人が交通事故で亡くなったばかりで、滝の中でその友人のことを祈っていたのだそうです。少し涙ぐまれておられました。ああ、こういうことなんだな、と思いました。そこから、お世話させて頂く際も、より気持ちを込めて真言を唱えさせて頂けるようになったのですが、それもまた、最初から導師に答えを教えてもらっても何の役にも立ちません。コーチングなどでも、クライアントをベストな道に導くには、最初から答えなどありません。それこそ「直感」を頼りに、セッションさせて頂くしかないのです。確かにコーチングの際も、今まで何度か奇跡的なことが起こりました。
つまり今日、私が言いたいのは何か。それは「体験」を重視せよ、とのこと。最近、瞑想についていろいろ書きましたが、「この瞑想をしてどんな効果があるんですか?」などと気にする前に、瞑想をする気になったのなら、しっかりやれってことです。朝晩20分くらいでお金もかからないんだから、何も考えずに3年くらい瞑想してみるといいです。瞑想以外でも、滝行にしても、ブログにしても、営業にしても、何にしても「やる」とのご縁ができたのなら、とにかく「体験」を積み重ねることしかありません。本を読むなとは言いませんが、それはあくまで他人の体験を、限られた文字情報で伝えようとした努力の形に過ぎません。参考にはできても、自分の体験は自分でしかできません。まずは体験ありきなんです。
そんなわけで、今日もあちこち寄り道して長くなりました。この辺の話、ちょっと深めていこうかと思ってます。そろそろ「写経セット」も届くと思いますので、届いたら毎朝5時には起きて、108枚の写経を積み重ねようと思います。何があるか分かりませんが、セットを注文したので、もうやるしかないです。とりあえず108日後をちょっと楽しみに続けたいと思います。それではまた明日。ありがとうございました。
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自分が探し物をしているとタイミング良く、此所で、
それを見つける事があります。
”例えば私が滝行の初心者の方に「肩の力を抜くといいよ」と教えたとします。確かにそうなんですが、私が「肩の力を抜いた」のは教えられたからではなく、ギリギリまで追い込まれて最後に行き着いた境地。ですので、アドバイスによって教えた答えは、受け手にとっては本来の答えになり得ない。”
こんなふうに書かれていますが、その入り口にいる者には、その言葉で、力を抜いてみようと素直に体から入る(形を踏む)事で、進みやすかったりします。そして、その一言が、私にとっては、滝行ではありませんが、たった今、そうだ、今の私には力を抜く事が必要だと気づかせてもらえました。ありがとうございます、Qさん。
仰るとおりです。言われたことに対して形から入るのは大切。
しかし、言われたことがすべてでないのは、「体験」を通してしかわかりません。
言われたことをうのみにし過ぎて「体験」まで行きつかない人も多いですからね~