贔屓する心 2012.2.25
2012年 02月 25日
3月はおそらく滝行をする日程が取れないと思うので、次に行をする時はもう完全に春でしょうね。2004年8月に初めて滝行をして、2005年が初めての冬越し。私の滝行は「冬越し」を基準に数えていますので、今年で8回目の冬越しが終わったことになります。27日には新たな歳を迎えますし、気分新たにガンガンやっていこうと思います。
ところで話変わりますが、フェイスブックで私の小学校の頃の担任のページを見つけました。今は隠居されてるようですが、6年間で2回も担任をして頂いたし、いろいろと忘れられない思い出のある先生でした。いい先生かどうかで言うと、いい先生だと思います。教え子の中には今でも心酔されてる方もいるようですし。私が小学生の当時、一般家庭にパソコン(マイコン)はほとんどなかったのですが、その先生はいち早くワープロやパソコンに取り組んでおられました。生徒の成績などもパソコンでデータ管理し始めたり、毎日、生徒の日記をワープロで清書して配るなどされていました。日記と言っても、その日の出来事みたい短い文を毎日書かせて、その中の面白いのをピックアップする感じだったと思います。私は、誰それ先生がプールの更衣室で着替えてるのを見て、チンゲがモジャモジャだったとか、そんな話を書いたことありました。
それはともかく、その担任だった先生は、おそらく国文学かなんかの専門でもあり、とにかく文章を読ませて書かせることが、他の先生と比べて多かったように思います。私自身もそれがさほど嫌じゃなくて、素直に読んだり、書いたりしてました。そしてとにかく教育熱心だった印象が強く、その先生の悪口を言う生徒もほとんどいなかったように思います。しかし私は、、、嫌いでした。いや、正確には、好きだったと思うのです。と言うか、好かれたいとは思っていました。しかし、なぜか私はその先生から嫌われてる、少なくとも好かれてはいないと感じていました。他の生徒への接し方と比べて、私に対しては妙に冷たいと感じてたのです。褒められることもなく、かといって叱られることもほとんどなく。なので、他の生徒がその先生のことを「いい先生」と言うのがどうも違和感がありました。
そんなある日、いつものようにパソコンの話になり、「パソコンではこんなこともできる」みたいなのをいろいろ見せてくれました。その時、生徒の成績もこれでデータ管理できるみたいな話で、もちろん詳細は覚えていませんが、一つだけ強く心に残ったことがありました。当時のクラスには、生まれつきハンディキャップを持つ生徒がいたのですが、その生徒は脳にも若干の障害があり、もちろん勉強もできません。テストの成績はいつも10点とか20点。0点のこともありました。
そのある日、そのハンディのある生徒がなんと75点を取ったのです。ただし、クラスの半数近くが100点を取るような簡単なテストだったので、75点は決していい点数ではありません。だけど、いつも10点とかからすれば、75点はすごくいい点数で本人も大喜び。さらにいつもはクラスで最下位だったのが、その時はそうじゃありませんでした。70点というさらに低い点数の生徒がいたのです。それは私でした。一応言っておくと、私は当時、特別にできたわけじゃないものの、勉強のできない奴なるレッテルを貼られるほどでもありませんでした。もっとできない生徒はまだいたはず。だけど、そのテストだけは、どうミスしたのか70点しか取れなかったのです。
75点で大喜びしている先ほどの生徒の横で、70点を必死で隠す私がいました。しかし次の瞬間、残酷なことが行われたのです。いくらパソコンでデータ管理をしているとは言え、それはあくまで先生の手元のこと。公表するにしても上位にとどめておくでしょう、普通は。だけどその時に限って、75点を取った先ほどの生徒をベタ褒めし、「それに比べて石田はもっと頑張らないとな、はっはっは!」などと高笑いし始めたのです。よりによってその時だけ。あの時ほど恥ずかしい思いをしたことはありません。ウンコを漏らす次くらいに恥ずかしかった。それ以来、「やっぱりボクは嫌われてるんだ」と思い込むようになり、私の中では「贔屓の先生」と位置づけるようになっていました。実際、ちょっと複雑な話なんですが、親の職業(立場)と生徒への接し方にはどうも相関関係があるような印象もありました。ま、それは私がその先生に対して素直になれなかったから、そう思っただけのことかもしれませんが。
で、今さっきのことですが、その先生のページをフェイスブックで見つけ、いや、正確には2か月くらい前に見つけていたのですが、文章をしっかり読むのは初めて。その中の一文にこのようなものがありました。
「私は在職中、贔屓する心は最悪で許せないと思ってきました」(←文言そのものは変えています)
なんか突き刺さりましたねえ。「オマエはキング・オブ・贔屓じゃ!」と突っ込みたくなったほどですが、なんか妙に混乱しちゃったのですよ。私の中で「贔屓」と言えば、その先生だったくらいなので。だけど一方で、私が浪人で予備校に通った最初の講義で、ある英語講師が「オレは差別しますよ」と言ったのも思い出しました。しかし、その予備校講師は、私が知る限り差別などなし。どんな学生に対しても平等に接していたように思います。
そして私はその「差別しますよ」って言う講師が好きでした。その影響かわかりませんが、私も差別することに悪気を感じないし、人間なんだから当然、贔屓も差別もあるだろう、くらいに思っています。例えば私は、我が子とその他の子とは差別していますし、それを悪いとも思っていません。また、私はプロ野球にあまり関心がありませんが、阪神を贔屓する、巨人を贔屓する人がいたって全然かまわないでしょ。もちろん、それとこれとを一緒にするなって意見もあるでしょう。
だけど、人間ってのは「自我」がある以上、どうしても差別、区別、贔屓はしてしまうもんなのです。究極のところ「悟り」ってのは、それらの「差」がすべて「取れる」こと。当て字のようですが、まったくその通りなのです。人はこの世に対して、例外なく特殊なフィルターを通して見ているわけで、そのフィルターのことを「自我」と呼ぶのです。ですので、ある意味、差別も区別も贔屓も「自我」の宿命のようなもの。ですので、できればその先生も、
「私は在職中、贔屓する心は最悪で許せないと思ってきましたが、知らず知らずにしてきたと思います」
くらいにして欲しかった。いやむしろ、「私に贔屓されるように頑張れと思っていました」くらい言ってもらった方がスッキリする。そんなこと言うと確かに反発は買うでしょうが、現実生活ではいかに贔屓されるかが重要じゃないですか。特にペーパーテストだけで決まらない恋愛だとか就職だとかは、いかに相手から贔屓されるような人間になるかがポイント。だけど、そうやって贔屓の競争にさらされながら、いつかは「人間の本質」に到達することもあるでしょう。それこそ差別も贔屓も何もない「ワンネス」と呼ばれるような世界として。
とにかくですね、私としては「贔屓」と聞くと、いろいろなエピソードから真っ先にその先生のことを思い浮かべていたのに、その先生自ら「贔屓は許せない」と書いていたことに、なんだか複雑に思ってしまったのです。そんな私はかなりしつこくでひねくれてると自分でも思いますが、その一文を見て、私の中のイヤ~な部分が浮き出てきたように感じました。
確かに私も贔屓や差別はいけないと「頭」では理解していますが、その贔屓や差別がこの世を作り、さらに便利な社会を形成してきたのも事実。贔屓はよくない。だけど、その矛盾、理不尽を受け入れ、贔屓されるよう努力するのも大切じゃないか。そればかりは理想論ばかり並べても始まらないこと。
ついでに言うと、1989年にドイツが統一し、ソ連も解体したことで、いわゆる「共産主義」は終わったかのように思われてますが、実は違います。「共産主義」をマルクスの言うものに当てはめるのであれば、「共産主義」を成立させた国や文化は未だにありません。なぜならマルクスの言う共産主義とは、資本主義が限界に直面した、歴史的必然として発展した形であるから。つまり、東欧や中国、北朝鮮などの「共産主義」はその理念だけを社会に当てはめただけであって、「歴史の必然」では必ずしもなかったのだから。むしろ、資本主義のあらゆる矛盾に直面しんがら修正を繰り返してきた日本こそが、本当の意味での「共産主義」と言えるのかもしれません。実際、日本は世界で最も成功した「社会主義国家」だとの言い方もありますから。ここまで所得格差が少なく、そして社会全体の豊かさのパイが大きい国もありませんから。
ようは、「贔屓はダメだ、差別するな」ってのは、イデオロギーで言う共産主義のようなもので、そんな理念を押しつけてたところで成立しません。実際、北朝鮮を見たらわかるように、確かに民衆は貧しさを「平等」に享受してるのでしょうが、体制側は贅沢三昧じゃないですか。「平等」の理念を推し進めた結果、極端な二極化社会を人工的に作り出してしまったのが、今の北朝鮮の現状。そして皮肉なことに、「不平等(競争)」を推進した資本主義の方が、最低水準の確保の意味で「平等」だったりする。つまり、私としては「贔屓も差別もあるのが社会の現実なんだから、とにかく頑張れ」って言われた方が、やっぱりスッキリするもん。だけど、真のリアリティとは一切の「差」のない世界だったことをどこかで気づく人もいる。そしてそれでいいんだと思っています。
今日の日記はかなり乱暴な議論になったと思います。特に同じ小学校の卒業生などからすれば(見てる人も多いと思いますが)、その先生のことはすぐに特定できるし、かなり不愉快な気分になるのではと思います。だけど、そんなことを私に書かせてしまうほど、あの一文はちょっとショッキングでした。ま、私の心が腐ってるだけかもしれませんが、このブログには正直な気持ちを書きたいと思っています。
そんなわけで、滝行とかの修行しながら、まだまだ心根の貧しさは洗い流されない私ではありますが、これからも正直に素直に、それでいて人々のお役に立つ人間になれるよう精進していきたいと思います。ありがとうございました。
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