サングラスを外せ! 2012.2.22
2012年 02月 22日
ところで、一昨日書いた「フィルター」の話っていろいろ考えさせられることが多いようです。メールも頂きました。もうちょっとわかりやすく言うと、フィルターを通した世界ってのは色の付いた「サングラス」をかけて世の中を見るようなもの。
その色ってのが、人によっては赤だったり青だったりだけのこと。だけど、多くの人はサングラスをかけていることにさえ気付かず、「世界は赤いんですよ!」と言って回ってるわけで、もう一方の人は「いや、世界は青いんです!」と反論している。だけど、端から見たら「オマエらサングラスかけてなに言い合ってるねん」ってことですよ。そう考えると滑稽な話ですよね。だけど、私たちは例外なくサングラス(つまりフィルター)をかけて世の中を見てるんです。フィルターのことを、思い込みと価値観とか言い表すこともできますが。
だけど、3次元に生きる上では、そのフィルターはなくてはならないのも事実。一応、この世の中ってのは、無数の「価値」でできているようなもので、だから面白いとも言えます。以前、ある人たちと食事をしていた時、ちょっと変わった味のご飯が出てきました。それがとても美味しく、だけどどこか知ってるような味。その時、「これ、何の味っすかね~」と何気なく言ったら、年輩のある男性が「そんなの腹に入ったら同じだろ」ってご返答。確かにそうです。どんな味でも腹に入ったら同じ。カロリーの違いくらいはあれど、味はあまり関係ないです。
ここでの「味」とは「価値」のこと。なので「腹に入ったら同じ」ってのは「価値にこだわるな」って意味でもあります。どんなものでも美味しく食べればいいだけのことで。だけど、あえて言いたい。そんな人生って楽しくないでしょって。
一切の価値判断をせずに、ただ、淡々と受け流しながら生きること。それはある意味、「悟り」と言っていいような境地でしょうが、それって3次元に生きてる上で、あんまり楽しいあり方じゃないです。ちびQも今年の5月で3歳になりますが、離乳食が始まった当初は、口に運べば何も言わずに食べて飲み込んでくれました。しかし今は、かなり好き嫌いも出てきて、「味」という「価値」にこだわるようになっています。それはご飯だけでなく、オムツなどもそう。先日までアンパンマンのオムツをしていたのですが、その絵柄には二種類あって、一つが「カレーパンマン」で、もう一つが「赤ちゃんマン」。ちびQはカレーパンマンが好きなのか、家でオムツを替えるときは、なぜかカレーパンマンじゃなきゃダメ。形も機能も同じなのに、絵柄にこだわる。それこそ「はいてしまえばどっちも同じだろ」と言いたいとこ。だけど、その「こだわり」が面白いんですよね。
この、こだわりとか好き嫌いってのが何らかの「価値」に結びつき、そのパターンによって独自にフィルターが完成する。なのでこの世界には70億通りのフィルターが存在するわけで、それぞれがそれぞれのフィルターを通してこの世界を見てるんですよね。で、大ざっぱに言ってしまえば、赤いサングラスか、青いサングラスかの違いであって、どちらも「真実」を見ているわけじゃありません。国や文化間で戦争するのも、赤か青かを言い合ってるようなもの。全体主義か民主主義か、資本主義か共産主義か、キリスト教かイスラム教か、など。
だけど、もう一度言うけど、それらの「価値(フィルター)」があるのが3次元の特徴であり、人間の宿命のようなもの。なので、それはそれとして認めることも大切。そしてそのフィルターを楽しむ姿勢も大切。だけど、世の中には二通りの人がいて、それはこの世界がフィルターを通して見た世界であることを知っている人と、知らない人。そしてほとんどは「知らない人」だと言えるでしょう。
赤いサングラスをかけてることに気付かず、「世界は赤だ」と言い張っている。もし、サングラスの存在を知っていたら、「自分が見てる世界は赤だけど、青があってもいいよね」って考え方もできるわけです。だけど、究極的にはサングラスを外した世界を見てみるといい。ただ、言うは易しで、なかなか外れないんですよね。もしも一度でも外すことができれば、この世界は「喜び」に満ちたものであることを知り、状況が変わるとは限らないものの、人生に対する姿勢は変わるんじゃないかな。
仮に自分に不幸せにするようなフィルターをかけているのなら、まずはそれがフィルターであることを知り、場合によってはかけ直してもいいわけで。では、どうすればサングラス(フィルター)を外すことができるのか。結論から言うと、一発で確実に外せる方法はありません。だけど、まずはこの文章を読んで、「あ~、なるほど、そんな考え方もあるのか」くらいに受け取ってもらえればOK。その上で本当に外したいと思うのであれば、その情報なんてナンボでもあります。例えば、ディーパック・チョプラ博士の「富と成功をもたらす7つの法則」などは、字数こそ少ないですが、実はこれだけで十分。ただし、ちゃんと理解するのは簡単じゃないでしょうが。私も最初読んだ時、チンプンカンプンだったけど、ある日、突然、ぶわ~って理解できた感じ。あ、なるほど、あの感じだったのか。
特に方法論としては、第一章の「純粋な可能性の法則」にすべて書かれてあって、このブログでも何度も紹介したと思いますが、つまり、
1.「沈黙」の実践方法
2.朝30分、夜30分の瞑想
3.「今日、私は何も判断しない」
4.自然とふれあう
の4つで完璧です。それ以外にもっといい方法があるかどうかで言うと、ま、ドラッグとかヨガとか呼吸法とかあるんでしょうが、違法だったり、金かかったり、ちゃんとした指導者が必要だったり、簡単じゃないですもんね。
ま、裏を返せば、「フィルター」ってほとんど上の4つと逆の世界ですもんね。「沈黙」どころか、自我のおしゃべりばかり。瞑想によって情報を遮断することもなく、判断の連続。「自然」ってのは川や森って意味でもあるけど、自然のもつありのままの姿にアクセスしなさいってこと。人工的な環境にいる日常だと、なかなかそんなわけにもいきませんからね。
今日は何でこんな話したかと言うと、現実生活がフィルターを通した見た世界であれば、「死後の世界」、「幽霊」、「宇宙人」、「オーラ」、「前世」なんてものは、もっとフィルターを通したものだってこと。「この世は幻想だ」と言うと、スピ系の人の多くは「そうだ、そうだ」と共感してもらえるのに、これは別に「あの世」が真実って意味でもないですからね。その前に「あの世」の定義もありますが、一般的に言われる「死後の世界」のような「あの世」なんてのは、現実生活以上にフィルターを通した世界。
「目に見える世界=幻想」、「目に見えない世界=真実」ってわけじゃありませんからね。「オーラ」なんてその典型で、あんなの誰だって見える。周辺視野で見た対象、それがオーラです。だけど、なぜかオーラの色とか大きさとか、そんなものに「価値」を見いだして、そこにいろんな解釈を求めてしまう。オーラの色なんて、特別なものじゃなくて、その人をイメージする色ってあるじゃないですか。水色っぽい人とか、ピンクっぽい人とか、黄色っぽい人とか。そのイメージにオーラを被せてるだけ。オーラが汚れてるなんて言い方する人もいますが、そんなの表情とか姿勢を見たら普通にわかるでしょ。憂鬱そうな顔見てたらわかるわけで、オーラなんて言い方する必要もない。
人を「あるがまま」に見るって、オーラだのなんだのって判断することじゃない。文字通りあるがまま。サングラス、フィルターを取っ払って、その人の「純粋な可能性」にアクセスすること。そしたら結局、「大丈夫」ってことしかないですもんね。ただ、それ言ってもお金になりませんから、オーラの色とかいろんな情報与えて判断するわけですね。
とにかく、私たちは常に「サングラス」かけて世の中を見てるってこと。外せなくとも、まずはそのことを理解する。オーラを見るなんてのは、サングラスに特殊なシールを貼ってみるようなもの。そんな「特殊」なツールなど必要ないんですよ。スピリチュアルってのは、何か特別なことのように思われがちだけど、決してそうじゃない。余計な情報に惑わされることなく、ただシンプルに。とか言いながら、このブログも「余計な情報」かもしれませんけど。その辺は各自で「判断」してください(笑)
そんなところで、また明日。ありがとうございました。
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