オレ達はネズミじゃない! 2012.1.15
2012年 01月 15日
一応、昨日で滝行は満行したのですが、この寒い中、今日は滝に行かなくていいとなると気分がすごく楽。それでも2月にまたやります。今日も友達とかと話をしていたのですが、私にとって「滝行」は生きて行く上で必要不可欠となっています。おそらく私は、人一倍自分に甘いです。自分に甘い人間ってのは、基本的に独立できません。会社などで管理されなければ、どんどん楽な方、楽な方へと行ってしまいますから。自由ほど不自由なものはないんです。
橋下大阪市長が「教育とは強制だ」と言ってましたが、かなりの程度で同意します。まずは読み書きそろばん。その基礎学力だけは徹底的に強制すべき。楽器の演奏でも、音階など基礎トレーニングの徹底なくして満足な演奏はできません。もしも子どもに「自由にのびのびとやりなさい」と言って放置していたら、それは必然的に、自分に心地よいことしかしないでしょう。スナック菓子を食べると美味しい。脳から快楽ホルモンが出ます。その快楽ホルモンを出さんがために、ひたすらスナック菓子を食べ続け、身体を壊します。
脳科学の実験で、ネズミの脳に電極を差し込んで、あるスイッチを自分で押すと快楽ホルモンが出るように設置した時、そのネズミは寝食忘れてスイッチを押し続けたそうです。つまり、ネズミも、そして人間も、動物としては「快楽ホルモン」にコントロールされた存在なのです。しかし、人間が他の動物と異なるのは「理性」があること。スナック菓子を食べ続けると確かに快感。だけど、そればっかり食べてると健康に良くないので、そうなる前に理性によって行動を制することができる。禁煙や禁酒も同様。麻薬もそう。
私は薬物依存になったことはありませんが、そんな機会があったら簡単に依存症になると自覚しています。なので、当然、興味本位で手を出すこともありませんし、タバコもそう。今までたまたまタバコを吸う機会がなかったので幸いしていますが、ちょっとしたきっかけでヘビースモーカーになる可能性も大です。それからギャンブルもそうかな。パチンコやスロットなんかも、ネズミのスイッチと同じで、良くないことはわかっていながら行ってしまうもの。パチンコ産業が儲かるのも、いわば人間の脳のメカニズムを活用しているからと言えます。
私がしばしば「あるがまま」なる言葉に危うさを示すのも、それが理由です。確かに究極的には、人間は「あるがまま」なのです。そうあるべきなのです。一方で、ダメな自分にいつも自己嫌悪を持っている人が、スピリチュアルな本や講演、ブログ等で「あるがままでいいのよ」と言われて、それで涙を流して目覚めたとします。極端な話ですが、毎日、スナック菓子を1万カロリー食べる習慣のある人が、そんな自分が嫌で嫌でたまらないと自覚していながら、「あるがままでいいのよ」と言われて、そんな自分を認めてしまうとどうなるか。
それはそれでいい、と感じるなら何も言いませんが、でも正直に言います。そんなの「あるがまま」でもなんでもない、と。例えば先ほどのネズミの例で言えば、科学者から脳に電極さされて、単なる快感システムにコントロールされたままでスイッチを押し続けるネズミ。それってネズミらしいでしょうか。同じように、例えば何かの拍子にスナック菓子を食べたら、妙に心が落ち着いたり、満たされたりした。それから毎日、スナック菓子を食べる習慣が付いて、徐々に量も増えて行った。それって自分らしい生き方でしょうか。先ほどのネズミと同じじゃないでしょうか。
スピリチュアルな世界ではしばしば「自我」を敵視する風潮があります。確かに自我が欲望を増幅させたり、争いごとを呼び起こしたりします。しかし「自分らしさ」を取り戻すきっかけとなるのもまた「自我」の働きなんです。我々は少なからず、何かの依存症です。スナック菓子依存症、パチンコ依存症、アルコール依存症、タバコ依存症、恋愛依存症、二度寝依存症、貯金依存症、、、など、何かの依存症には違いありません。そしてしばしば、そんな依存症に気づいている、気づいていないにかかわらず、そんな自分に嫌悪感を示すことがあります。
その「嫌悪感」は「自我」の働きです。ネズミには人間のような「自我」がないため、スイッチ依存症になってる実験のネズミが自己嫌悪を抱くでしょうか。そんな自分が嫌だと言って、スイッチを押さないよう闘うでしょうか。もしそんな実験結果が示されたら、生物学上のパラダイムが逆転しますよね。
ですが人間にだけ、自己嫌悪を持つことによって、自らを改善させることができるのです。それが「人間らしさ」であり、そして「自分らしさ」につながるものなのです。スナック菓子依存症。そんな人が、どこぞのスピリチュアルセミナーなどで、「それでもいいのよ」なんて無責任なことを言われて喜んでしまう。何度かそんな場面を見たことがありますが、私は「アホか」と思っています。そんなのは愛でも承認でもなんでもありません。
私ならば、「スナック菓子にコントロールされてるアナタなんて、アナタらしくないです。アナタはもっと可能性があって、そして輝いた存在です。スナック菓子ごときにコントロールされないで、勇気を出して戦いましょうよ。その闘いこそが自分を磨きあげるんですよ!」とアドバイスします。かく言う私も、自分と闘ってばかりです。そしてよく負けて自己嫌悪に陥ります。だけど、徐々に勝つことも増えてきて、そんな自分こそ誇らしく思っています。
結局、私たちはネズミじゃないんですよ。人間なんです。人間だから自我があるんです。欲望があるんです。もちろん闘争心もあるんです。しかしその闘争心は他人を傷つける意味でのそれではなく、「無意識」と言う名のもう一人の自分に対する闘争心です。私はセミナーなどで、しばしば「無意識(潜在意識)」を愛する、許すことを力説します。しかしそれは決して甘やかすことじゃありません。スナック菓子依存症になってる自分の無意識。そんな自分が愛おしいからこそ、スナック菓子と闘って欲しいのです。それは我が子を愛することとまったく同じ。我が子を叱るのは、それは愛しているがゆえでしょ。あかの他人の子どもが何か悪さしてても、さほど干渉しない。愛する我が子だからこそ、思いっきり叱るのです。
もちろん「叱り方」は大切。親だって全知全能じゃないので、日々の子育てを通して叱り方を学習していくもの。おそらく私の両親の年代とかの、子育てを終えた人たちが、もう一度若い時に戻って最初から子育てできるのならば、もっといい叱り方、育て方ができるんじゃないかと思います。
同じように今、私たちは子どもがいようがいまいが、「無意識」という名の子育てをしています。「無意識」のことをしばしばインナーチャイルドと呼ぶことがありますが、まさにそんな感じです。スナック菓子依存症になっている人は、自分の無意識、つまりインナーチャイルドがスナック菓子を渇望している。それはおそらく過去に何らかの満たされない経験をしてきたからもしれません。だけど、その欲望のままにスナック菓子を与え続けたらどうなるでしょうか。決していい結果にはなりませんよね。我が子を愛するがごとく、自分の無意識を愛する。だからこそ、無意識に対して厳しくなれるんじゃないですか。
話を最初に戻しますが、私なんか自分に甘い人間の代表です。ツレからもよく言われます。「あまあまやね」とか。それは認めます。だけど同時に自分のことをすごく愛しています。誰よりも自分のことを愛しています。だからこそ、自分に厳しく接したいと思うのです。朝5時に起きて滝行に行く。「なんで、そんなことしてるんですか?」と半ば揶揄されたように言われたことだって何度もあります。「○×行動計画」とか言いながら、自らの行動を一つ一つチェックしながら地道に毎日を過ごす。そして今は100%を目指して頑張っている。それは他でもない、自分を愛しているからです。
私なんか、ほんと自分に甘くて、IQも身体能力も低い。ルックスだって決していいわけじゃない。本音を言うと、人付合いだってそんなにめちゃくちゃ得意でもない。気軽に女の子をナンパできる友達をどれだけ羨ましいと思ったことか。だけど私はネズミじゃないんです。人間であって、そしてオレなんです。そしてそんな自分を愛しているからこそ、自分に厳しく接したいのです。
会社勤めを逃げるように辞めた自分。これもまた自分に甘いから。当時、何か大きな志があって辞めたわけじゃありません。何すればいいかわからない状態で辞めたことは何度も書いてると思います。そんな奴が、しかも自分に甘いそんな奴が、これから生きて行くには「自我」を使うしかないじゃないですか。もっと良くなりたい。そう思って努力するしかないじゃないですか。そのためには滝にだって打たれますよ。真冬のクソ寒い中。でもそれは、そんな自分が大好きだから。私は身近にたまたま滝行があったから活用していますが、もちろんそんなのでなくていい。自分を愛するからこそ、自分をもっとハングリーに、そしてフーリッシュに。
もう一度言うけど、オレ達はネズミじゃないです。人間であり、そしてオレなんです。もちろんワタシでもいいよ。だからこそ、自分に厳しきありたいんです。愛することと、甘やかすことを混合しちゃダメ。愛することの意味、愛することの尊さ。それを今一度感じて、そして「愛しき自我ちゃん」とともに、自分を成長させていきたいですよね。そんなわけで、まだまだ「あまあま(甘々)」な私ですが、頑張っていきたいと思います。ありがとうございました。
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