0次元の正体 2011.12.1
2011年 12月 01日
ところで昨日、「0次元」なんて話をしましたが、今日もずっとそのことが頭から離れませんでした。私たちは言うまでもなく「3次元(4次元)」に生きています。それは空間と時間の世界。3次元を微分すると2次元。つまり平面であり、私はこれを「価値」と位置付けています。「平面(価値)」の上に具体的な3次元空間が形作られている意味で。
さらに2次元を微分すると1次元。つまり直線であり、私はそれを「意思」と位置付けています。自分が何者であるかを示す一つの方向のこと。つまりアイデンティティ。その「直線(意思)」の上に「価値」が作られ、それを元にいわゆる「現象」としての3次元が生まれる。さらに「時間」を意識した時、私たちが生きる「世界」がそこに現れるのです。
これは赤ちゃんの発達段階とも言えます。産まれたばかりの赤ちゃんは、自分が自分である認識もなく、もちろん他人や世界の区別もついていません。言葉がないため、世界を区切ることができないのです。あるのは、ただ本能的な反応のみ。それがいつごろからか「自分」を意識するようになります。それは「他人」との区別において。
自分を守ってくれている母親がいて、それとは違う自分がいる。ふと足が目に入る。じっと見る。母の顔をじっと見る。父の顔をじっと見る。目の前の動くものをじっと見る。どうやらこれは、、、自分とは違う何からしい。この「自分」を区別することができる段階が1次元です。
それから「自分」と「それ以外」がすごい勢いで区別されて行き、次第に言葉を得ることによって、「それ以外」の中にもいろいろあることを知る。父と母は違う。アンパンマンとドラえもんも違う。リンゴとバナナも違う。そうやって世界を分断していくのですが、その際の最大のツールが言葉です。そして「アンパンマンは正義で、ばいきんまんは悪」なる「価値」が芽生えるようになる。さらに躾や教育によって、「ご飯の前にはいただきますを言う」なる「価値」がインプットされる。そのようにして無数の「価値」が与えられる段階、これが2次元です。
そしてそれらの「価値」がより複雑化することで、その人独自の「世界」ができてしまう。「自分は金持ちだ」との「価値」を持っている人の現実は、まさに「金持ちとしての自分」だし、その逆またしかり。それ以外にも、、、
「犬は怖い」
「猫は可愛い」
「お金は汚い」
「女性は怖い」
「正直は損」
「貧乏人は清い」
「金持ちは悪者だ」
などの「価値(2次元)」を持ってる人は、そのままの姿で「世界(3次元)」が形成されてしまう。ですので、もしも今、「お金は汚い」なる「価値」を持っているせいで、お金に恵まれない生活を送っているのであれば、その「価値」を変えてしまえばいい。それがビリーフチェンジ、信念の書き換えです。そして私たちは、それぞれが固有の「価値・信念」の元でこの3次元を生きています。
そこで昨日の話になるのですが、それをどんどん微分していけば、自分の「価値」に気が付き、そして「アイデンティティ」に到達して、自分自身の「元型」を見ることができる。ちなみに私はそのプロセスを「微分瞑想」と呼んでいます。今、他にも「微分瞑想」って言葉を使っている人がいるか、グーグルで調べたらいました。私でした。
そしてさらに、「自分」を微分すると、、、「自分」が無くなってしまいます。いや、厳密には「存在」としての自分はあるのです。だけど、自分と言う実体はない。これは「生と死」にスライドして考えるとわかりやすいです。先日、立川談志師匠がお亡くなりになられましたが、死によって「実体」としての談志師匠はなくなりましたが、「存在」としては不滅です。アリストテレスもモーツァルトもアインシュタインも、実体はありませんが、存在は確かにあります。
つまり「存在」とは生死を超えた概念であり、その意味で私たち一人一人もまた「存在」として永遠不滅なのです。ただ、もっと厳密に言うと、談志とかアリストテレスとか「名前」が存在するのではなく、その存在そのものが存在するわけですので、そこは注釈しておきます。
そしてその次元が「0次元」となります。そこには「意思」も「価値」もなく、ただ「存在」があるだけ。そこまでは昨日書いた通りのことです。で、今日は昼から図書館に行ってきました。そこで、ふと、元オーボエ奏者の宮本文昭氏の著書が目に入り、何となく開いてみたところ、次のような文章が飛び込んできました。
「君は何のためにオーボエを吹くのか?」
「……音楽をやるためです」
「では音楽をやるのは何のため?」
「……自分にそれをやりたいという欲求があるからです」
「なるほどー。でも私は少し違うよ。楽器を吹くのは自分が『自由』になるためだと、私は思う。Frei sein!(自由になれ)」
宮本氏の恩師であるヘルムート・ヴィンシャーマン氏との会話。これを見て、ビビっと走りました。宮本氏は次のように続けます。最初は師の言うことがわからなかったけど、ある演奏会で吹いている時、「わかった!」と感じた瞬間があった、とのこと。なんだか、禅問答のようですね。そして次のように表現されています。
「吹いているとき、僕は一瞬、自分で作った「形」を完全に忘れることができたのだ。そこにいたのは、広い宇宙の中を隕石が流線型を描いて旅するかのように、目をつぶって流れに身を任せて吹く自分。フレーズのどこを長くしてどこを短く吹くとか、舌がどうとか、指使いがどうとか、そういう一切合切を忘れ去り、自分が音そのものになって空気中を飛び回っていた。そのとき僕は、何かにしがみつくことなく、完全に自由だった。」
まさに「悟り」の瞬間です。師の「何のために楽器を吹くのか?」なる公案と一体化した瞬間。フレーズや指使いなどの「3次元」を超え、もちろんどう演奏するかの「2次元」、そして楽器を吹く自分という「1次元」を超え、完全に「自分が音そのもの」になって「自由」を得た瞬間。
物事を極めんとする者のみが知る世界。だけど、実は誰もがこの境地を知っている。演奏家の場合は楽器や音楽という手段があるからわかりやすいだけで、私たちも、まずは赤ちゃんの頃がそうだったし、いつだって「0次元」に生きているもの。ただ、それを知る術がないと思っているだけ。
私たちは「世界」という「3次元」に縛られ、そして「価値」という「2次元」に縛られ、さらに「自分」という「1次元」に縛られて生きている。つまり「自由」を奪われて生きているのが私たち。だけど、それらの縛りから解放される、つまり「0次元」に入ることで、完全なる「自由」を知ることができる。
今日の滝行でもそう。入るまでは、寒いかな~、冷たいかな~、なる「価値(2次元)」に縛られ、実際に入ってみると確かに寒い、冷たい。そんな「世界(3次元)」がある。しかし、身体の力を抜き、寒いと言う世界、そしてその価値から引き離され、「自分(1次元)」がそこにあるのを知る。そして最後は、その「自分」さえもなくなって、完全に「滝」と一体化した「存在としての自分」があることに気づく。
そこでは寒い、冷たいなどの体感や思いから完全に自由になり、ただ「ある」ことに感謝できる自分があるだけ。ああ、「自由」なんだ、とただ体験がある。昨日書いた「0次元」というインスピレーションについて、やはりそれをしっかり説明する文章がすぐに出てくるのは、やはり宇宙が私に何かを教えようとしているとしか思えない。
楽器の演奏であれ、滝行であれ、瞑想であれ、その道に深く入っていると、最後に行きつく先は完全なる「自由」。昨日、「願望実現」とは「積分」であると言いましたが、それは完全なる「自由」を知ったからこそ、積み上げられるもの。
人はなぜ瞑想をするのか。いや、もっと言うと、一流のアスリート、アーティスト、ビジネスマンはなぜ瞑想(及び瞑想的な営み)をするのか。それはやはり完全なる「自由」へと、まずは自分を置いて、そこから新たな世界を自由に積み重ねる手段が瞑想だからではないかと思いました。
確かに私も滝行に出会ってからの人生は、その実現度、加速度がハンパじゃありません。私にとってはそれが滝行だったかもしれませんが、人によっては禅でも瞑想でも、または打ち込める何かでもいい。それらを一定の境地まで高めることで、「0次元」、「今、ここ」、そして完全なる「自由」を知るようになる。その意味で、私が今打ちこんでいる滝行も、これからの自分の世界を自由に構築するため、宇宙から与えられたギフトなのかもしれません。
てなわけで、明日もまた楽しみたいと思います。ありがとうございました。
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僕はスケートボードに乗っていて0次元に入ることが稀にありました。
自分では何もしようとしてないのに、体が勝手に動いているような感覚。それが最高で、いつもその感覚を求めているくせに、人の目を気にしたりなんやかんやでなかなかその状態になれないんですよね。
すごく分かりやすかったです!
ほーおもしろい!最高ですよん!
ォ~難しくてよくかわらん!