瞑想中の出来事 2011.9.29
2011年 09月 29日
事実、私たちは「行って来たんだ」ってこと。そして生まれて初めての標高5,360mを体験したんだってこと。酸素は平地の半分。ちょっと歩くだけで息が切れる。チャイを飲むのも一苦労。富士山よりもはるかに高い。キリマンジャロの山頂にはわずか及ばずとも、生身の身体の人間が一気に行ける場所としては世界最高峰。エベレストのベースキャンプの高さもそれくらい。それ以上になると相当な準備が必要。その意味でまさに標高5,360mは「非日常」の極致だったと思い出されます。
そう言えば今回の旅で私はよく「瞑想」をしました。生憎と場所や時間の関係で、皆で瞑想するチャンスは少なかったのですが、早起きしてベッドの上で一時間以上瞑想していたり、自然に包まれながら瞑想していたりなど、日本にいる時よりはごく自然に瞑想に入るようになっていました。
ラダックに着いた日の最初の宿泊はアルチという場所。本当は中心都市のレーで宿泊の予定だったのですが、旅行会社さんに「初日はアルチで!」とリクエストしたところ、そこは比較的標高も低いので名案だとのこと。ただ、低いと言っても3,000mはあるので、メンバーの中には既に頭痛や息切れなどの症状を見せる人がいました。そのような高地に立つと、身体を休めることが第一なのですが、実は寝過ぎるのも良くないと言われます。なぜなら睡眠中は呼吸のコントロールができず、平地と同じような浅い呼吸になってしまうから。そうなると十分な酸素を吸収できなくなります。
その初日のアルチでは夜中まで数名で語って12時には寝たのですが、次に目が覚めたのが4時。なんと「頭痛」で目が覚めたのです。つまりたった4時間であっても、意識的な呼吸をしなければ苦しいって場所にいたんです。急いで深呼吸。しばらくすると頭痛も治まり落ち着いたのですが、すっかり目が冴えてしまいます。外はまだ暗いので瞑想するしかありません。
枕を座布団代わりにしてベッドの上で坐禅を組みます。そして静かに目を瞑り、ただ、あるがままに自分を見つめます。アルチのお寺で見た「文殊菩薩」と一体化するように、ただ座ります。しばらくいろんなイメージが出ては、それを受け流し、、、を繰り返していたのですが、ある瞬間、今回のインドメンバーたちが、私が歩く反対方向から向かってくるのが見えます。声をかけようにも、言葉が出てきません。私はそのまま歩き、メンバーたちもそのまま向かってきます。このまま歩き続けるとぶつかります。しかり避けることもできません。
ああ、ぶつかる、、、と思った瞬間、メンバーはもちろん私も、そして周囲も、ある「一点」に向かって一つになるのです。ああ、そうか。やっぱり「ひとつ」なんだ、、、と思い、その余韻を感じながら、まもなく目を開けることができました。
標高が高く、空気が薄いことが関係しているのかわかりませんが、ラダックでは平地の10倍くらいの深さと速さで瞑想に入ることができました。普段、私たちは「空気」の存在をあまり意識することがありません。しかし、喉が乾いたら水が欲しくはなります。そんな時、身体に水を流し込むと、まさに「五臓六腑」に浸み渡るが如く、水のありがたさを体感することでしょう。
それと同じように、ラダックでは毎日、これほど「空気」がありがたいものだと思わなかった日はありません。酸欠状態で目が覚め、ゆっくり起きて深呼吸。すると乾いた喉に水が流れるが如く、そして頭のてっぺんから手足の指先にまで酸素がいきわたる瞬間を感じることができます。そして、こうつぶやきます。
「ああ、生かされてる、ありがたい」
ただ、それだけ。先ほども言ったように、私たちは普段、空気の存在を心からありがたく思う瞬間はあまりないと思います。喉が渇いて水やビールを流し込んだ時は、「ああ~、うめ~」と言うかもしれませんが、それを空気に対して言うことは、ごくごく稀だと思います。しかし、ラダックでは毎日がこれでした。
私たちは所詮、生かされているに過ぎません。どんなに科学が進歩しても、人類が生きていくだけの空気を人工的に生成することはできないでしょう。空気があるから生命が誕生したと同時に、生命は常にこの当たり前の空気に生かされています。そしてこの空気は、私ごときはもちろん、人間が作ったものじゃありません。地球、そして宇宙、さらに言いかえると神、、、によって与えられたもの。私たちは誰ひとりとして、ひとりじゃ生きていけません。
生けとし生けるもの、、、そしてこの地球、宇宙のすべてが何一つ無駄なく関係し、お互いを生かし合っている。私はそのすべてによって生かされていると同時に、私も何らかの形でそのすべてに関係している。それこそが宇宙の根源の姿であり、「ひとつ」と呼ばれる真実の姿なのでしょう。
ラダックでの二日目の朝。私たちは10名ほどでラマユルゴンパの勤行に参加してきました。お坊さんが密教の法具を鳴らしながらお経を唱えるのを、ただ聞きながら瞑想するだけ。座布団がなかったので坐禅を組むことができず、足を組みかえながら胡坐で瞑想をしていたのですが、早朝の3時に始まり6時に終わる。その間、休憩もなくぶっ通しで3時間。お坊さんは時計を見ている感じでもなかったのに、ぴったり3時間で終了。
我々一行は3時前にゴンパ(お寺)の前に集合して、まもなく中からお坊さんがカギを開けてくれます。ゴンパの中は二部屋あって、手前が広い部屋、そして奥が勤行を行う狭い部屋。私たち10名ほどはその狭い部屋に通されたのですが、瞑想が始まったその直後、ただでさえ空気が薄い中、狭い部屋に大勢が入り、さらにロウソクの炎によって酸素が消費されているためか、めちゃくちゃ息が苦しくなってきたのです。しかも私はお坊さんの隣で一番奥であるだけになおさら。
本当であれば思いっきり深呼吸をしたいのですが、もし私がしてしまえば他の人の酸素が少なくなるかもしれない。そんな気持ちが自然と出てきて、できる限り効率的な呼吸を心がけようとしていると、自然とその息苦しさももなくなり、時間を測っていたわけじゃないですが、瞑想も佳境に入った頃、
「ああ、オレは今、なんて尊い時間を過ごさせて頂いてるんだろう・・・」
と涙が出そうなほど感謝の気持ちがわいてきたのです。それからしばらくすると、心なしか部屋が明るくなってきました。そこで初めて気がついたのですが、その部屋には一か所、小さな窓があったのです。そう気づいてから、私自身も瞑想から出て、こっそりと写真を撮ったりなんかします。それからすぐに「フィニッシュ」との声がかけられ、3時間の勤行・瞑想が終了しました。写真を撮った時刻を後から見てみると、終了15分前でした。
私たちはお互いに生かし合っている。狭い部屋で空気を占領するのではなく、他の人とも空気を分け合えることが大切。3時間の瞑想中にそんなことを学んだのですが、そう思った瞬間、呼吸が楽になったのも不思議な話です。
そう言えば以前、書いたことがあったな~と思い出します。それも拙著「宇宙となかよし」に。宇宙は「与えること」と「受け入れること」で成り立っている。「奪うこと」と「拒絶すること」ではなく。まずは自分から「与ええること」、そして何があっても「受け入れること」。
その「与えること」が「愛」であり「あいしてる」の言葉。「受け入れること」が「感謝」であり「ありがとう」の言葉。愛と感謝。「あいしてる」と「ありがとう」。空気が少なくても、決して奪うのではなく、分け与えること。そしてその息苦しさを拒絶するのではなく、受け入れること。それが「愛と感謝」の心。そしてそれこそが「宇宙」そのものであり、「ひとつ」に溶け合う瞬間なんだ。
そう思った瞬間、私は「宇宙」と一体となり、別の言い方をすると「宇宙となかよし」になり、宇宙のバイブレーションに共鳴する。そしてそれが私たちの「根源」であり真の姿、本当の自分。
素晴らしい旅をさせて頂いたことに感謝しています。ありがとうございました。
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