〇〇の価値 2011.2.21

 滝行も6日目。やっぱり初日が一番つらかったかな。そして今日は「超意識コーチング」の音声吹き込みを行いました。35分程度の音声なのですが、いつものごとくライブ状態。ですので、音声としての完成度は乏しいかもしれませんが、文章を読み上げるのと違って、その瞬間瞬間に降りてきた、まさに「超意識」からのメッセージをお届けさせて頂いてます。今日のお話はブログにも書くことのない私自身の苦々しい話でもあるのですが、それゆえに力の入った内容となり、最後は「絶叫」してしまいました。でも、それだけ魂が込められてますので、参加者の方は心してお聞きくださいませ(笑)

 ところで先ほどテレビでとても面白い番組がやっていました。昨年のベストセラーとなったアメリカの哲学者マイケル・サンデル氏がビートたけしの番組に出てたのです。本はまだ読んでなかったのですが、「正義」に関する哲学者ってことで、あのジョン・ロールズを論的に回すなど興味ある人物のひとりではありました。いざ映像で見ると、ますます興味が出てきたので、近々、本を読みたいと思っています。

 まだ何も読んでない状態で判断するのも乱暴ですが、ロールズとサンデルの論点ってのは「個人vs共同体」ってことでよろしいのでしょうか。ま、この場でその論点についてあれこれ言うつもりはなくって、ちょっと思い出したことを書こうと思うのです。

 今まで何度か書いてきたと思いますが、私は高校卒業するまでほとんど活字の本を読んだことがなかったのですが(モーツァルト関連書くらいしか読まず)、浪人してある予備校講師との出会いによって一夜にして読書家になりました。忘れもしない、、、ある水曜日に二時間目にその現代文講師が登場し、その90分の講義の間、「本を読まねばならない!」と目覚めて、講義終了後すぐに自習もせずに天王寺の大型書店に向かって、一冊の新書を立ち読みしたのです。タイトルは「文化人類学」だったのですが、何のベースもなく手に取ったので何が書かれてるのかさっぱりわからず、それでもこの一冊を最後まで読むまで帰らないと決めて、なんとか読んだものでした。

 その後、哲学に傾倒してしまい、ヨーロッパの哲学を中心に読むようになりました。最初はデカルトから、そしてパスカル、カント、ヘーゲル、、、と読み進めてフッサールに行きつき、そこから現代思想にも入っていき、再び文化人類学(レヴィ=ストロース)にも出会ったものです。そしてその延長上に、、、倫理学、つまりアメリカの哲学者ジョン・ロールズの本にも出会い、「正義」についてなど考えるようになりました。

 ただ、あの当時は「正義」と言えばロールズしか知らずに、それで一応、正義について語れることにしていました。で、、、そんな時、ある考えさせられる出来事がありました。「障害者福祉論」ってゼミがありまして、私は社会福祉専攻ではなかったのですが、なぜかそのゼミには参加していました。

 そのゼミの中で担当教授がこんなことを話したのです。ある日、福祉専攻の学生の実習先として障害者施設に訪れた時、重度の脳性マヒの方がいらっしゃった。自分一人では食事も排せつも何もできない重度の方です。そこでその学生がこんなことを言ったそうなのです。「あの方(脳性マヒの方)は、、、何か生きてる価値ってあるのですか?」、と。その学生の言葉に対して、担当教授は私たちの前で「そんなの人間の基本だ!」と声高に叫んだのです。

 ただ、当時の私は何でもかんでも理屈で考える癖があったので、教授の感情的な(ヒステリックな)、「人間の基本だ!」って言葉に反応していまい、「そんな感情論で片づけるなんて大学じゃない」なんて口走ってしまったのです。脳性マヒの方に対して実習の学生が「生きている価値あるんですか?」と純粋に思ってしまった。その純粋な思いに対し、理性的に回答するのが教授じゃないか、と。ただ、周囲の学生も感情論的な方が多く(施設現場の社会人も多かった)、教授の言葉に対して「うん、うん」と大きくうなずく雰囲気において、その話はあまり広がりませんでした。でも、私の中では収拾がつかなかったので、いろいろと考え始めます。

 その時、ちょうどインターネットを始めたばかりで(win98が出た当初)、私は「ヤフー掲示板」なるところにしばしば出没していました。もっぱら出入りするのが「バックパッカー」と「ジャズ」と、、、そして「哲学」でした。バックパッカー板では旅について語り合い、ジャズ板でもジャズの名盤について語り合い、そして「哲学板」では、、、いろんな人の考えを読みながら、私もしばしば投稿を繰り返していました。その中に、、、大荒れするトピックを立ててしまいます。そのタイトルが、、、「障害者の価値」でした。

 あ、先に言っておきますが、中には「障害者」ではなく、「障がい者」や「障碍者」と書くべきだって意見があるでしょうが、ここではあえて一般的な「障害者」って言葉で統一したいと今は思います。それから、以前も障害者について書いた時、それだけで非難されることがありましたが(コメントとメールにて)、ここではあえて中立的な立場で書かせて頂きますので、感情的過ぎるご意見はご遠慮頂きたいと思います。

 で、話を戻しますが、その「障害者の価値」でトピックは大荒れしました。まずはトピ主である私に対する感情的な批判。そもそもそんなトピを立てるなんて最低だ、みたいな論調で。でも私はあえてその問題に理性的に取り組みたいと思って、単なる「権利論」で片づけるのではなしに、きちんとした論理をもって「福祉施策」について考えたかったのです。その議論の中でもしかしたら「価値」についても何かわかるのではないか、と。

 その議論の中で、私が主として援用していたのがロールズでした。かいつまんで言うと、つまりは「人間は生まれながらに自由があり、世の中で最も恵まれない人たちの最大利益につながるよう手配すべき」ってこと。そこから人は誰もが最大利益を享受するようになっている、、、ゆえに福祉施策は必要、みたいな論理を展開してたんですね。そうやって議論してくプロセスで、トピ主である私が非常に真摯な態度で考えていることに徐々に共感を得るようになるのですが、一方でやっぱり感情論が消えることもありませんでした。

 しかし、、、今、もしも「障害者の価値」なるテーマで語れと言われたら、実は一言で終わってしまいます。その一言とは「人間の基本」って言葉において。学生時代の私は、とにかく理屈でいろいろ答えを出さないと気が済まないタイプで、もちろん今もそんな傾向はあるのですが、障害者に限らず「人間の価値」を考える際、それはまさに「人間の基本」って一言で終了してしまうのです。

 つまり、この大宇宙において、何一つとして意味のないものはない、、、、という「真実」を知ってしまった以上、どのような原理も理論も、何も意味をなさないってことなんです。確かに「経済的価値」って物差しをおいたのであれば、身体の不自由な方は相対的に経済的価値を生みだしにくい境遇にあるので、価値がない、、、なんて結論になることもあるでしょう。しかし言うまでもなく、私たちの世界、、、さらに言うと「宇宙」そのものにおいて、経済的価値なんて何の意味もありません。そんなのはクソです。

 この宇宙には何一つ意味をなさないものはない。もしも今、目の前のボールペンがこの世から消滅してしまったら、同時に私も、そして世界も消滅する。それが唯一の「真実」なのです。精神世界ではしばしばそのことを「ワンネス」と呼ぶわけですが、実際、この言葉は思った以上に深いもの。何一つ欠けてはならない。この宇宙は常に完璧であり、無駄なものは何一つ存在しない。もう一度言いますが、それが「真実」なのです。

 もしもそれに異を唱えて、もっと論理的に説明しろと言われても、たった一つの「真実」の前にはどんな理論も成立しません。すべてはひとつだから。これが真実。ですので、そもそも誰それは価値があって、誰それはない、、、なんて考え方は本来あり得ない。「○○の価値」なんて議論も成り立たない。それが今の私の意見です。

 ただ、、、なぜに私がそもそも「○○の価値」に異常に反応してしまったのか。それにははっきりした理由があります。実は私、、、今まで一度や二度ならず「オマエは何一つ取り柄がない」と言われていたのです。初めて言われたのが中学の時。それは冗談とも本気ともつかぬ何気ない言葉。最初は意味がわからなかったのですが、何度か言われるうちにわかってきました。

 まずその発端は一つ上の先輩からです。その同学年に私の兄がいたのですが、兄の成績は常に学年トップ。それに対して私は中の下辺り。まずそれと比較して私はまったく勉強ができないことにさせられました。そして吹奏楽部だったこともあり運動はダメ。おまけにモテル顔でもない。つまり「勉強、スポーツ、ルックス」といった中学時代の三大価値において、何一つ目立ったものがなく、そのうち性格まで暗くなってきて、さらに部活もサボるようになって、言われるがままに本当に「取り柄のない奴」になってしまったのです。さらにそれは「生きる価値がない」とも変換されたのです。一般化は恐ろしいですね。

 中学時代の多感な時期、そのようなレッテルを貼られていたことは、当然、後々のパーソナリティにも影響してきます。ついでに言うと、私は社会人になってからもそのようなことを言われていました。そんなに昔の話じゃありません。会社員時代のこと。それも二人の上司から言われました。「君は何も取り柄がない」、と。これもまた悪気なく言った言葉だったのでしょうが、その言葉は中学時代に聞いた言葉と直結し、私は力なく愛想笑いするだけ。でも、そのことが私の中で何らかの原動力になっていることも確かで、今となってはそう言ってくれた元上司には感謝しかないってことですけどね。

 ただですね、、、今はもうすべてOKなんです。確かに取り柄のない奴かもしれませんが、だからと言ってどうってこともないし。そもそも「取り柄」とか「価値」なんてのはすべて無色透明。色即是空。何の意味もない。私はただ、ここに「ある(be)」だけで、無限の存在価値を発揮している。それはもちろん私に限らず、世の中のすべての人がそう。すべてはひとつ。それが唯一の真実。何かの物差しを無理矢理持ってきて、取り柄がないだの、価値がないだのって、まったくのナンセンス。

 何度も言いますが、私は確かに何の取り柄もないでしょう。でも、だからどうしたって。あるがまま。それでいいのです。それがすべてです。それ以上でも以下でもない。まさに、あるがまま。そこにこそ無限の価値が光っている。それが宇宙の真実。真理。そこのつながってしまうと、すべてが至福。喜び。それでいいじゃないですか。ね。

 てな感じで、今日はテレビで「正義」に関する哲学者が出てたことから、いろいろ思い出しちゃいました。もう一度言いますが、あるがままでいいんです。昨日までは「潜在意識の反発に負けるな!」と言ってましたが、それも確かにそうなんです。でも、本当のこと言うとね、本音を言うとね、、、あるがまま・・・でいいんです。私は私。あなたはあなた。彼は彼。彼女は彼女。それでいい。それでいい。それでいい。すべてはひとつ。それが宇宙。

 でも、、、潜在意識の反発に負けずに○×行動計画も続けましょ~!と明日も言うと思います。はい。矛盾してるって。そうですね。確かに頭で考えたら矛盾してますね。あるがままでいいと言いながら、あるがままはクソとか言ったりしてね。でもいいじゃないですか。ようするにそろそろ眠くなってきたので寝るってこと。はい。それではまた明日。ありがとうございました。

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Commented at 2011-02-22 17:08 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by katamich | 2011-02-21 23:39 | ■人生哲学 | Comments(1)