わたしがあなたたちを選びました 2004.12.20
2004年 12月 20日
話は保育サービスや教育の話から児童虐待の話に及んだ時、担当の職員が保育園の園長から薦められたとして「私があなたを選びました」という詩を教えてくれました。その担当も読んだわけではなかったのですが、薦めてくれた園長さんに言わせると、「みんながこれを読めば虐待なんてなくなるのにねえ」ということのようです。
気になったので、事務所に戻ってからネットで調べてみました。
―私が あなたを 選びました―
おとうさん、おかあさん、あなたたちのことを、こう、呼ばせてください。
あなたたちが仲睦まじく結び合っている姿を見て、
わたしは地上におりる決心をしました。
きっと、わたしの人生を豊かなものにしてくれると感じたからです。
汚れない世界から地上におりるのは、勇気がいります。
地上での生活に不安をおぼえ、途中で引き返した友もいます。
夫婦の契りに不安をおぼえ、引き返した友もいます。
拒絶され、泣く泣く帰ってきた友もいます。
あなたのあたたかいふところに抱かれ、今、わたしは幸せを感じています
(中略)
おとうさん、おかあさん、今、わたしは思っています。
わたしの選びは正しかった、と。
わたしがあなたたちを選びました
と、こういう詩です。(全文はリンク先にあります)
私は子育ての経験はまだないのですが、なかなか感動させられる詩ですね。赤ちゃんというのは好むと好まざると父と母の意志によって生まれてきたものと思いがちです。思春期の子どもは親子喧嘩をすると、決まって「誰が産んでくれって頼んだ!!」と捨て台詞を吐きます。
しかし違うんですよね。子どもというのは両親を選んで自らの意志で生まれてくるんですよ。これだけは確信を持って言いたいです。今年の4月、会社の同僚の結婚式で、私はクラリネットを吹き、その間奏の時にトークをしました。
「世間には『できちゃった婚』という言われ方をしますが、実は○○ちゃんがこの2人を出会わせ、そして結ばせ、そして自分の意志で生まれてきたのです。本当に祝福すべきことじゃないですか!!」、と。(←マジでこんなこと言ってました。オマエ歳いくつや?って感じですよね。)
我ながらなかなかいいこと言ったと思ってます。実際、親というのは「子ども」がいて初めて「親」とよばれるのです。「子ども」がいなければ「親」にはなり得ない、つまり、「子ども」の存在が「親」の存在を決定するのです。
しかし私が言いたいのはそんな禅問答のような話ではありません。私はすぐに「前世」の話をしたがりますが、まさしく「前世」の赤ちゃんが「この2人から生まれよっと」と意識して産まれてきたと考えられます。
この詩の作者による言葉を見てください。
「8年前、リーブ法という、中国の気功を取り入れたお産を始めた際、妊婦さんたちが、お腹の赤ちゃんをもっと実感できる方法はないかと思いをめぐらせていたときのことです。その夜も、家族が寝静まってから、部屋で一人考えていました。しんと静まりかえった、真っ暗な空間。『お母さんの子宮の中は、こんな感じなのだろうか』 そう思った瞬間に、次から次へ、言葉があふれ出てきたのです。このとき生まれたのが、『私があなたを選びました』です。」
すごくスピリチュアルです。この作者はお医者さんなのですが、「母親の子宮」をふとした弾みで追体験し、そこで赤ちゃんの気持ちになって言葉があふれてきたのでしょう。精神世界ではこれをチャネリングと言ったりするかもしれませんが、とにかく、このお医者さんはその時「赤ちゃん」になったのです。ですので、この詩はまさに実話とさえ言えるでしょう。
「親」というのはまさしく「選ばれた」存在なのではないでしょうか。意にそぐわず子どもができない夫婦もいますし、その方々を軽んじるつもりはありません。その方々には子どもがいないという命運を受けた上での使命があるものです。
そのことをきちんと認識した上で、私は「親」というのは「子ども」から選ばれた存在であると言いたいのです。この詩はそのことをまさしく「赤ちゃん」の視点から語られているゆえに心に響くのでしょう。確かにこの詩を読めば虐待なんてなくなる(かな?)。(そもそもこれを読んで感動する親は最初から虐待なんてしない、と冗談も言いましたけど)
今日の打ち合わせの最後にこんな提案をしました。
「母子手帳を渡す時に「相田みつを」さんの詩をプレゼントしてはどうでしょうか。出産祝い金なんかよりもずっといいと思いますよ。」
私は相田みつをさんのことが昔から気になっていました。しかし、ツレが相田みつをファンなので、つい「相田みつをは偽善者」なんて天邪鬼な発言をしてしまうのです。にんげんだもの。
そういえば先日北方に行った話で、Nさんの家にも相田みつをさんの色紙が家中に飾られていました。
相田さんの言葉と書は本当に感動的なものが多いのですが、次の詩なんかグッときますよね。声を出して読んでみてはいかがでしょうか。
「アノネ 親は子供をみているつもりだけど 子供はその親をみているんだな 親よりもきれいな よごれてない 眼でね みつを」
「みんなほんもの トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ トマトをメロンに みせようとするから にせものに なるんだよ みんなそれぞれに ほんものなのに 骨を折って にせものに なりたがる みつを」<
そうだよなあ。選んだ子どもは自分の目に狂いはなかったか、じっと見てるんだなあ。
そうだよなあ。そのままでいいのに自分の思い通りにしたがるから手が出てしまうのかなあ。
言葉から得る力はすごいですね。私の提案も受け入れられるかな。大声で「相田みつをが~」って話してたら、近くの職員は笑顔でこっちみるし、隣の課の人まで聞き耳立ててたし。言葉を大切にする町になって欲しいものですね。
くりっくしようよ にんげんだもの
「お父さん、この映画どうだった?」
「うん、おもしろかったよ」
「お父さんもそう感じてくれてよかった!」
こんな会話をするたびに、言葉にならない、子供の、親に対する、あたたかいなにかを感じていました。
私は養護学校へ実習に行ったときこの詩に出会いました。
養護学校の先生の話とこの詩を聞き、命についてあらためて考えさせられました。久しぶりにこの詩に出会えてうれしかったです。
いつもコメントありがとうございます。
子どもができると人は変わるといいますよね。きっと子どもから見られて変わるんでしょうね。私も将来子どもができたらそんなことを意識していたいですね。
>asamiさん
はじめまて。コメントありがとうございます。
確かに命の意味を考えさせられますよね。全ての方に平等に与えられた命そのものについて。これからもよろしくお願いします。
>みはらさん
お、今日はこちらに登場ですね。
日本とアメリカでは家族と個人に関する考え方の違いがあるのでしょうね。最近では家族の一構成員としてでなく、一つの人権をもった子どもという考え方が必要ですよね。同時に虐待にはその親の心のケアも大切だと思います。