宇宙の音楽 2010.12.1
2010年 12月 02日
それはともかく、今日からまた滝行に入りました。朝4時55分に起きて、そのまま滝に行きます。5時20分には滝場に着いてお参り。それから滝に打たれるわけですが、2週間ぶりの滝行はかなりきつかったですね。でも、出た後のそう快感はなんとも言えません。一度家に帰って朝食、ちびQを保育園に送ってから久々に宝満山に登ってきました。滝行、宝満山は最強の組み合わせ。今日もいろんなインスピレーションを頂きました。
で、昨日のブログの続きと行きたいのですが、実は「対話形式」が面倒になってきてですね。初めての人には読みやすいかもしれませんが、やっぱり普通に書く方が書きやすいので、どっちにしても今日降りてきたインスピレーションについて書きたいと思います。対話形式の方がいかにもチャネリングって感じですが、ようするに「ヒラメキ(インスピレーション)=チャネリング」ってのが本質ですので、どちらでも同じこと。
ただ、「対話形式」の続きに関しては、実はまだまだありまして、本題に入ってないのも正直なところ。「ありがとうございます」のマントラの威力についてとか、実際、解き明かしたいことがたくさんあるのですが、今日はちょっと話を変えて書こうと思います。実は昨日、一冊の本をご献本頂きま一気に読了しました。苫米地英人氏の「聴くだけ!クラシック音楽で脳が目覚める」って新刊です。結論から言うと、「こんな本、オレも書きたかった~」ってことですが、おこがましいことを承知で言うと、私が常日頃考えているようなことが書かれてありました。
苫米地氏がどの本でも一貫して言ってることとして、「IQの高さ=抽象思考の高さ」ってのがあります。つまりIQが高いってのは、抽象的な「情報空間」にどれほど臨場感を持てるかってこと。例えば「数学」などは典型で、宇宙の始まりのビッグバン理論などは「数式」という極めて抽象化された情報であるにも関わらず、そこに実際にビッグバンを手に取るように見る人がいるそうなのです。逆にIQの低い人は具体的な「物理空間」にしか認識の範囲がなく、食べる、飲む、寝る、歩く、セックスするなど肉体的な理解にしか及びません。
これは「音楽」でも同じで、抽象度の低い音楽ってのは、例えば陳腐なラブソングとかダンス音楽などがそう。西○カナとか、A○B48とか。それだけ抽象度の低い音楽ってのは、流行に左右されて普遍性に欠けるため、3年後に聞かれることはまずありません。もちろんそれはそれで時代の需要があるので一定の必要性はあるのでしょうが、それでもプロデューサーサイドでは、すぐに消えることをわかってて売り出してる側面はあります。
それに対して抽象度の高い音楽ってのは、いわゆる「古典(クラシック)」となる音楽であり、それは何百年経っても消えることはありません。ただし、本当の「クラシック」とは苫米地氏が言うように、18世紀の音楽全般のことを指すわけではありません。例えばモーツァルトは立派なクラシックですが、同時代に生きたサリエリは必ずしもそうとは言えません。もっとも、サリエリの場合は一応は歴史に名が残っているのでクラシックと言えなくはないのですが、その時代のその他大勢の歴史の藻屑に消えた作曲家の音楽などは、決してクラシックではありません。
つまりクラシックの価値とは、その「普遍性」にあるわけです。ですので、現代の音楽でも生まれた瞬間にクラシックになり得るものはたくさんあり、苫米地氏はその代表としてジミ・ヘンドリックスをあげています。私はロックはほとんど聞かないのでわかりませんが、ジャズの世界では、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、デューク・エリントンなどは、間違いなくクラシックでしょう。私は1973年生まれですが、普段聞いている音楽はほとんどが生まれる前の音楽。それこそ朝鮮戦争でドンパチやってる最中に生まれた音楽を、今の時代にも聞いているわけです。そしてモーツァルト。200年以上前の人ですが、いつ聞いてもその価値が色あせることはありません。
そしてクラシックの条件として、その「普遍性」があると言いましたが、普遍的であるには「抽象度」が高くある必要があります。つまり「数式」でビッグバンを見ることができるように、「音楽」で宇宙を表現できるような世界。その最も高い位置、つまり最も宇宙に近いところにある音楽の代表がモーツァルトだと言うことができるでしょう。
先日、私の高校時代の覚醒体験についてお話したと思います。当時、寮生活をしており、毎日11時に消灯になるのですが、それから30分間、ウォークマンでテープを聞くのが日課になっていました30本ほどある音楽テープのほとんどがモーツァルト。そしてある日、交響曲第41番ハ長調K551をセットしました。演奏はブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィルだったと思います。もう何度も聞いてきた曲なんですが、第四楽章の最後の方で、私は明らかに「宇宙」を見てしまったのです。その箇所をもう一度貼りますね。5:24から5:50が「宇宙」です。
ま、今初めてその箇所だけ聞いても何も感じられないかも知れませんが、苦情は受け付けませんよ(笑) 私だって毎回、「宇宙」を見るわけではありませんし、今まで覚えているだけでも2回くらいしかありませんもの。一回目がその高校時代のこと。二回目はモーツァルト大好きの経済学教授の自宅で酒飲みながら。
交響曲ってスタイルは器楽曲として最も編成が大きく、それだけ大きなスケールを表現することができます。そしてこの41番はモーツァルトの最後の交響曲。晩年ではありますが、この後、100曲ほど残しているのに、交響曲についてはここで筆を止めています。おそらくモーツァルトは、、、この曲で完全に「宇宙」を表現しきったから、もうそれ以上作曲する必要がないと判断したのではと推測します。それだけすごい曲です。ちなみにモーツァルトの3大交響曲ってのは、この41番の他に、39番、40番がそう。牧歌的な39番ですが、これはフリーメーソン音楽であるとも言われています。それは変ホ長調という調整からも明らか(フラットが3つ)。そして誰もが聞いたことのある悲愴的な40番。そして宇宙的な41番。この3曲で世界をすべて表現しきっています。
苫米地氏の本の話に戻りますが、モーツァルトに代表されるクラシック音楽ってのは、音楽で「宇宙」を表現できるもの。それほど抽象度が高く、だからこそ「クラシック音楽を聞くと、IQが高くなる」って苫米地理論に結びつくわけです。IQ云々は私にはわかりませんが、モーツァルトを聞いた時の至高体験は、他のいかなる音楽にも及び付かないことだけは確か。そして最も抽象度の高い世界を「空(くう)」と呼ぶわけですが、モーツァルトの音楽はまさしく「空」であり、すなわち「悟り」の世界があるわけです。モーツァルトを聴くことは、悟りへの道に通じる。こう言っても過言ではないでしょう。
それから、この本を読んで面白かったのに「倍音」の話があります。「倍音」ってのは、一つの音に対して周波数が整数倍で増えている音のこと。例えばピアノ弦だと、ドの弦がまずありますが、実はそれと同時に、弦を半分にした一オクターブ上のドがなっており、さらに弦を3等分したソに近い音がなってるのです。さらに4等分した高いド、さらに5等分、6等分、7等分、、、無限に音が重なっているのです。この辺の話、知らない人には難しいかもしれませんが。ま、あえて一言で言うと、音の「響き」のようなものだと思ってください。
ちなみに「いい音」とか「いい声」っては、漠然とした質感ではなく、「倍音」が多く含まれているってことで定義できます。私は昔クラリネットをやっていましたが、初心者の音が薄っぺらいのは倍音成分が少ないからであり、プロの音がふくよかなのは倍音成分が多いから。ピアノなどの打楽器もそうですが、誰もが叩けば音が出るにもかかわらず、素人の音とプロの音とでは日を見るより明らかな違いがあります。これも倍音成分の多さによります。
これは「声」も同じ。「いい声」ってのは倍音成分が豊か。ちなみに私もよく「いい声」って言われるのですが、昔からそうだったわけじゃありません。この5~6年で急激にいい声になったと思うのですが、その秘訣は、、、実は「お経」にあります。滝の中でお経や真言を唱えると、なぜか倍音成分が豊富になるのです。このメカニズムを解明して、実は誰もが瞬時に「いい声」になるエクササイズの方法を考案しました。セミナーでも時々披露するのですが、10月の大阪セミナーでも男性参加者を実験台に実践してみたところ、ものの数秒で「いい声」になってしまい、本人が一番驚いていたようです(18日のトークライブでも披露しましょうか・・)。
話を戻しますが、この倍音の話を読んで閃いたことがあります。音楽とは言うまでもなく、「和音」と「旋律」と「リズム」で成り立っています。特に「和音」と「旋律」の上にはさらに「倍音」があり、およそ耳に聞こえる以上の音が鳴り響いています。苫米地氏はそれを「脳で聞く」と表現しているのですが、例えばモーツァルトと同時代の偉大な作曲家にヨーゼフ・ハイドンがおり、その二人の作風は実によく似ています。しかし、ある程度聞いて行くと、絶対に相容れない決定的な違いがあるのです。それはおよそ感覚的なものですが、もしかすると、ここにも「倍音」が関係してくるのではと思うのです。
私は前々からモーツァルトとハイドンの違いをこう表現していました。ハイドンの長調は長調にしか聞こえないのに、モーツァルトの長調は限りなく短調に聞こえる、と。そしてこの「長調が短調に聞こえる」ってのが、モーツァルトの最大の魅力だと感じていました。例えば「クラリネット五重奏曲イ長調K581」の第一楽章なんてのは、ほとんどが長調であるにも関わらず、なぜにあんなに悲しいのでしょうか。私がこの曲を始めて聞いたのが中3の夏。めちゃくちゃ感動して、しばらく虜になっていました。この曲聞いていつも感じるのが、深い悲しみを背負った人間の健気な笑顔。そしてその両義性こそが人間の本質なのかもしれません。
モーツァルトの音楽には人間の「喜び」と「悲しみ」がいつも同居しており、それを「音」とい情報空間において表現してしまう。単なる「喜劇」でも「悲劇」でもない、その両義性がモーツァルトの音楽には表現されており、それほどに抽象度の高い世界があるのです。そしてその両義性の主成分に「倍音」があるのでは、、、と直感したしだい。深いです。
ところでクラシックを聴く時にぜひ心がけて欲しいことがあるのですが、それは全部の音を聞く姿勢でいること。例えば上の「交響曲41番」でも「クラリネット5五重奏」でもいいのですが、主旋律以外の部分もしっかりと聞く。例えばクラリネット五重奏曲の編成は、クラリネット、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとなっていますが、第二ヴァイオリンやヴィオラの音もしっかりと聞くこと。それで初めてこの曲の素晴らしさが理解でき、宇宙に通じるわけですから。ついでに言うなら、ウェーバーにも同じ編成のクラリネット五重奏曲があるのですが、そちらはクラリネットだけ聞いても問題ありません。弦は単なる伴奏に過ぎず、宇宙を感じさせるような曲ではないから。さらにはブラームスも同じ編成で作曲していますが、こちらは全部聞くこと。つまり「宇宙」を表現する偉大な曲は、そのすべてが一つの粒子であり、それを丸ごと受け入れることで初めて「宇宙」に通じることができるのです。
え~っと、、、今日の話はマニアックすぎますかね。実はもっともっと語りたいのですが、そろそろにしておきます。ちなみに本書のついているCDですが、、、なんとも微妙です。2~3曲を重ね合わせた珍しいCDですが、最初は何だか奇妙な気分になるのですが、その違和感を通り越したところに、脳の目覚めがあるのかもしれない。ただ、「重ね合わせ」ってのは強引なようですが、上の「交響曲41番」の終楽章の「宇宙」の部分もいくつかの旋律の重ね合わせなのですが、理論的には間違ってはいないのでしょう。ただ、、、私は普通に聞く方がいいかなと思うの一方、その違和感がなくなるまで聞いてみようと思わなくもない。そんなところでしょうか。
てなわけで、前置きはこの辺にして今日の本題。昨日の「対話形式」のブログの中で「数字」の話が出てきましたよね。世界三大記号として「文字」、「数字」、「音符」があるのですが、それらはすなわち「言霊」、「数霊」、「音霊」のこと。そしてこの3つの「霊」が一つになった時、とても面白いメカニズムがわかってきたのです。
昨日の話では「数字」には固有の意味があるってことですが、これについてはこれから先、1から12まできちんとご紹介したいと思います。私のチャネリングで降ろしたメッセージで恐縮ですが。それはこんな定式によります。
「数霊」×「音霊」=「言霊」
西洋音楽の「音」ってのは、12に分けられていますよね。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド#・レ#・ファ#・ソ#・ラ#の12。それぞれに数字を付けると、1ド・2レ・3ミ・4ファ・5ソ・6ラ・7シ・8ド#・9レ#・10ファ#・11ソ#・12ラ#ってなるのですが、並べてみると非常に面白い法則があるのがわかります。
例えば「1」は「意識」の始まりのことで、「2」は「対立」、「3」は「安定」と昨日書きました。ここから多少、音楽理論とリンクすることになるのですが、、、、おっと今日はもう6千字以上書いてしまっている。続きは明日、、、と言いたいところですが、音楽理論の話はマニアックになり過ぎるので割愛して、「数霊」→「言霊」の話を次回はしっかりしたいと思います。長くなってすいません。それではまた明日。ありがとうございました。
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クラシック音楽についての解説は、大変、参考になりました。
ますます、頭がさえている感じですね。
対話形式の話なんですが、面白いですね。その後の話を読みたいのです。
Qさんのようなすらすら文章が書ける人に共感をおぼえます。
確かに、苫米地英人さんも良いですが、Qさんも若いのに脱帽しています。
日本にもこのような優秀な人がいるのだと。