悟り・・・ 2010.8.31
2010年 08月 31日
今日で8月も終わりですね。2010年も残り4か月。いろいろやってきましたが、毎年9月から加速しているので、自分的にはとても楽しみ。まさしく実りの秋ですからね。ところで今朝、次のようなミクシィ日記を書きましたので、まずはここから。
朝、ちびQを保育園に送ってから、ブログを書こうと思ったのですが、その前に瞑想タイムに入りました。すると、、、約2時間ほどですが、すごく深い瞑想に入ることができ、今回の合宿ワーク以降、私の「無意識ちゃん」が確実に変化していることを実感しています。
これまで瞑想の大切さはいろんなところで聞いてきて、それなりに理解してきたつもりだけど、今回の合宿を通じてさらに理解が深まりました。そして「瞑想」は「悟り」に到達する唯一の手段であることも確信しました。
ただ、そうなると「瞑想とは何ぞや?」という話が重要になりますが、それは単に大人しく目を瞑っていることではありません。目を開けていても瞑想はできるし(坐禅などがそう)、立っても寝ても歩いても瞑想はできます。
私の理解では「瞑想」は2段階以上あります。一つ目は「ありのまま」であること。「ありのまま」を見ること。多くの瞑想(及び禅)を見ていると、この一段階目でストップしていることが多いように思います。
しかし重要なのは二つ目であり、それは「ありのままであることを見ること」に他なりません。三つ目以上はその延長上で「あるのままであることを見ることを見ること・・・∞」となります。
そして瞑想を極めるととはこの「∞」を延々と進むこと。∞に向かって果てしない旅に出ること。般若心経では「ぎゃーていぎゃーていはらそうぎゃーてい」と言いますが、まさにこの境地。ちなみに北岡訳では「イッてイッてイキまくれ!」となりますがピッタリの訳です。
そんなわけで今朝の瞑想はかなりイッてしまいました。これ以上の詳しい説明はブログに書きたいと思います。
ここんとこ連日のようにこの話題が続いていますが、そろそろ本編へとさしかかろうと思っています。テーマは「悟り」です。今まで何度もこのテーマでお話をしてきて、時には「悟りに話やめます」なんて言ったこともありましたが、今回のワークを通して、私の中の「体験」が左脳的に完全に結びつくようになったので、この辺で書いてみようと思ったのです。ちなみにこの話をある人にしたところ、「それはブログに書くのはもったいないのでは・・」と言われましたが、ま、文字だけでは私の言いたいことの10分の1も伝わらないことを知った上で書きますので、いいのです。もっと腑に落ちたければ、私と直接話した方がいいでしょう。
で、この話ではNLP的な専門用語を使いますので、簡単に説明したいと思います。NLPではしばしば「感覚」のことを称してVAK(視覚・聴覚・体感覚)とか「代表システム・表象システム」などの言葉を使うのが一般的ですが、同じ意味で「4T(フォータップル)」と言う言葉を今日は使います。それは4つの元素なる意味で、ここでは「VAKO(視覚・聴覚・触覚・嗅覚)」を意味します。本来なら「G(味覚)」もあるのですが、これは「O(嗅覚)」に含まれるものとします。まず、私たちの認識を語る際、この「4T」という言葉で説明することにします。
さらにNLPでは「4T」に「i」と「e」という記号を加えます。「i」はインターナルで「内面」を意味し、「e」はエクスターナルで「外面」を意味します。ですので「4Ti」と書けば、「内面を感じている」の意味となり、「4Te」と書けば、「外面を感じている」の意味となります。例えば昨日のご飯はカレーでした。今、目の前にはカレーはありませんので、内面に向かってカレーを認識することになります。カレーの見た目、カレーを食べる時の音、カレーの感覚、カレーの香りと味。今、このブログを読んでいる人も、「カレーを思い出してください」とここで書いた瞬間、感覚が内面を向き、過去に食べたカレーのことを追体験することができるでしょう。その状態のことを「4Ti」と言います。
一方、今ここにカレーがあって、それを食べるとします。目の前にカレーがあり、スプーンの音が聞こえ、それを触っている感じがし、カレーの香りと味を楽しんでいます。今ここに起こっていること。それを「4Te」と言います。ただ、私たちは完全に「4Te」を体験することはできるでしょうか。例えば朝起きた瞬間、顔を洗いに洗面所に行くと思いますが、その前に「今何時だろう」と時計を見るとしますよね。その「今何時だろう」はまさに内面への問いかけであり「4Ti」となりますよね。そしていつもの時間よりも早かったら「まだ早いな」と内面に語りかけます。これも「4Ti」です。
ですので、私たちは24時間のほとんどを「4Ti」で生きていることになります。もちろん「4Te」の瞬間もあります。例えば今、私の左側にはボールペンがありますが、それを単に見ているだけなら「4Te」でしょうが、それを「ボールペンだ」と思った瞬間、「4Ti」になってしまいます。わかりますよね、これ。つまりボールペンはそもそも単なる物体に過ぎず、それをボールペンと識別した時点で、過去の様々な経験が蘇っているからです。
ただ、あんまり厳密に言い過ぎると、話が進まなくなるので、一応、NLPのワークなどでは意識が外側を向いていることを単純に「4Te」と仮決めしているわけです。ですが、カッコつきの「(4Te)」と純粋完全なる「4Te」とは区別すべきものではあります。私がここでこだわりたいのが、後者の完全なる「4Te」についてです。その状態を「今ここ」と言います。さらにNLPでは「4Te」以外のすべてを「催眠」と考えますので、完全に催眠から解けた状態は「今ここ」にしかないことになります。
もう一度言いますが、「4Te」とは「今ここ」だったり「あるがまま」であるのに対し、それ以外の「4Ti」や「(4Te)」はすべて「催眠」とみなされます。例えばボールペンはボールペンですが、もしかしたら違うかもしれません。実はシャーペンだったりすることもあるので、ボールペンをありのままに見ているようで、すでに「催眠」にかかっていることがお分かりでしょうか。もちろん「催眠」にも度合いがあって、ボールペンをボールペンと見ているのはまだ軽い催眠です。今思い出したのですが、先日こんなことがありました。
私は普段サンダル履きなのですが、先日、突然サンダルの鼻緒が切れました。ここで問題です。なぜにサンダルの鼻緒が切れたのでしょうか。
1.不吉なことを暗示されているから
2.サンダルが古くなったから
3.サンダルが自転車にペダルに引っかかったから(その時自転車に乗っていました)
4.それ以外
さあ、考えてください。「1」と答えた人は言うまでもなく深い催眠にかかっています。むしろ社会的洗脳と言った方がいいかもしれません。実際、「鼻緒」と「不吉」とは何の関係もありません。ただ、昔の人がそう言ってただけであって、実際的には何の因果関係もないはず。鼻緒が切れた瞬間、「不吉な予感がする」と思った人は、完全に「4Ti」のモードに入りこんでしまっています。では「2」はどうか。これも軽い催眠です。鼻緒が切れたのと、古いのは因果関係がありそうですが、もっと古いサンダルだってあるはずなので、これも厳密ではありません。「3」はさらにもっともらしくありますが、これもまた軽い催眠。確かに引っかかったのですが、今まで何度も引っかかっている以上、厳密な因果関係があるとは限らないのです。「あ、引っかかったから切れた」と思った瞬間、「4Ti」に入ってしまいます。
私の答えは「4」です。ただ、「それ以外」だけだと、何のことがさっぱりわからないでしょうから、さらに答えを言います。なぜ、サンダルの鼻緒が切れたのかと言うと、サンダルの鼻緒が切れたからです。「切れた」のは事実であり、それ以上にリアルな事実はないはず。切れたのを切れたとただ見ること。それがまさに「今ここ」であり、事実を「ありのまま」に見ることであり、これがNLPで言う「4Te」なのです。
「4Te」の認識こそが「ありのまま」の世界。ただ、もう完全に純粋無垢の一点の曇りのない「4Te」になるとどうなるでしょうか。例えばサンダルをサンダルとして見ることは確かに「ありのまま」かもしれませんが、厳密には違います。さっきも言ったように、「サンダル」として認識がある以上、それは厳密な「4Te」ではないのです。私たちは「サンダル」を「履くもの」として見ると思いますが、靴のない民族の人たちから見ると、これは単なる物体にしか見えません。赤ちゃんなんかは、時としてサンダルを口にくわえたりもします。厳密には「履くもの」ではなく、単にそのような社会的に意味付けをしているに過ぎないのです。
そこで一点の曇りのない「4Te」ですが、もはやサンダルさえも超越してしまい、すべてが単にそこに「ある」としか見えません。私たちの世界の認識は基本的に「見たいもの」しか見えていません。ボールペンは見えていますが、周辺視野を含めた視界に入っているはずの「ゴミ」などは見ていません。無意識的に見たいものを選別して見ている世界が私たちの世界。となると私たちの見ている世界は真にリアルな世界ではないのです。
完全なる「4Te」とは単に「見たいもの」に優先されず、本当にただ「ある」ものをそのまま見ている世界。となるとボールペンもゴミも同じものに見えるはず。そして究極的にはそれらはすべて「空(くう)」であり、単なる「量子」として見えなくなるのです。それを「すべてはひとつ」と言います。ボールペンもゴミも同じもの。私のあなたも同じもの。すべては一つのもの。物理学的にはそれを「量子」と言い、哲学的には「空」と言います。まさに「量子」や「空」を見ている世界こそが、完全なる「4Te」であり、それを「悟り」と言うのです。
しかしその観点で言うと、私たちはすべて悟っています。なぜなら赤ちゃんの時代には世界が未分化であることを知っているから。また、そもそも本能的な認識しかできない動物も一様にして悟っていることになります。では、「悟り」とは「赤ちゃん」や「動物」に戻ることなのでしょうか。そのために「自我」を捨てて。
言うまでもなく、そうではありません。実は「自我」には3種類あります。それは、「自我」と「前自我」と「超自我」です。「自我」とは人間で言う「意識」や「思考」のこと。「前自我」とは「無意識」のこと。しばしば誤解されがちなんですが、「瞑想」とは「自我」を消すことでは決してありません。大切なことなのでもう一度言います。「瞑想」とは「自我」を消すことでは決してありません。「瞑想」によって「意識」や「思考」を消すことが、その目的ではありません。「自我」から「前自我」とへ移ることでは決してありません。
ここできちんと言っておきますが、「瞑想」の目的は「自我」を超えることです。「瞑想」で単に「意識(自我)」を消そうとするのではなく、「自我」が消えたところの「前自我」さえもを超越するところ。そこに「瞑想」の目的があるのです。その状態を「超自我」と言います。つまり「超自我」とは「自我」と「前自我」とを統合した境地だと言えます。北岡氏はこれについて「自我=マインド」、「前自我=ノーマインド」、「超自我=メタマインド」と定義づけています。この辺の理解があれば、「難解」と言われまくっているユーストの「変性意識の学際的研究家北岡泰典、石田久二氏 (人気ブログ『宇宙となかよし』の著者) と過激に語る」で言われていることがさらに理解できるのではないかと思います。
ここまで読んで、改めて冒頭のミクシィ日記を読んでみてください。私の言わんとしていることがよくわかると思います。つまり「悟り」とは単に「4Te」に浸るのではなく、自らが「4Te」にあることを見ることなのです。つまり一言で言えば「メタ」の視点を持つこと。その視点を持つことが瞑想の目的であり、悟りに至る手段なのです。
話が小難しくなってきましたでしょうか。この話は極めて大事なので、明日、もっと簡単に、そして実用的に書きたいと思います。さらにユーストもやります。「第四回宇宙となかよしUSTセミナー」でテーマは「悟り」について。9月2日(木)22:30からやります。それではまた明日。ありがとうございました。
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