今日もまたぼお~ん!!2010.8.3
2010年 08月 03日
今日もちびQ保育園お休み。でも夕方お医者さんに行って「プール熱完治証明書」をもらうことができました。明日からようやく保育園です。ちびQはめちゃくちゃ可愛いのだけど、やっぱり一緒にいると作業がはかどりませんね。でも、ずっと一緒にいるこの数日間、ちびQは確実に成長しました。今日は「もしもし」と言うと、耳に手を当てるようになっていました。こうやって世界を「認識」していくんだな~と感心、感心。
ま、今日も何となくはかどらない一日でしたが、ツレも連日の早退で肩身の狭い思いとか。ただ、私やツレの仕事と「ちびQ」とどちらが大切かと言うと、どう考えても「ちびQ」だったりしてね。今となってはあらゆることに優先して「家族」がありますから。中村隊長の今日のブログから高橋歩さんの言葉として次のような文章が紹介されてました。
仲間も大事、仕事も大事、家族も大事。
ただ三択の時は、すべてぶっとばして家族を選ぶ。
家族を日本に残して大好きな旅に出ると、
出発した飛行機の中から、楽しみっていうワクワクと、
家に帰りたいって想いがセットで込み上げてくる。
うん、これは私も同感、同感。出張に出る朝は、だいたいちびQを保育園に送ってるのですが、これで4~5日会えないと思うと、すっごく寂しくなりますからね。海外なんか行った日には、きっと歩さんと同じ心境になるんだろうな、と思います。
てなわけで、明日からまたいろいろできそうです。久々にメルマガも出したいし、8月24日の東京イブニングセミナーの案内も開始したいですしね。そう言えば、今日、人気ブログランキングをクリックしたら順位が一つ上がっていました。ポイントが上がったのではなく、「いろとかたち」というブログが抜けられたからでした。
ブログの中で毎日のように出てくる言葉があるのですが、最近、よく聞くようになっていました。ミクシィ日記やツイッター上にて。それは「ぽめろん」という言葉。見たところ、それは「目覚め」や「生命」などと同義で、おそらくは「悟り」や「見性」とも言い換えられるのだと思います。
そしてブログの著者であるマシマタケシさんは、何かのきっかけでその世界を見ることができ、その感覚と「ぽめろん」という語感や響きがすごくフィットすると感じたため、それ以降、「ぽめろん」という言葉を使われてるのだと思います。すごく正直な感性で、本当にその通りなんだろうな~と思います。まぎれもなくマシマタケシさんの「一次体験」として。
しかし、見性にせよ、目覚めにせよ、悟りにせよ、それは超感覚的な「体験」そのものであって、「言葉」という制限されたツールを使って正確に表現することは極めて困難、と言うか不可能であると言えるでしょう。「砂糖」があったとして、その説明を「言葉」ですると、甘いとか白いとかお菓子の材料とかいろんな説明ができると思いますが、それそのものを表現するのに「言葉」では限界があります。しかし、砂糖をなめてみれば、その本質が体験として理解できます。砂糖の甘さを「言葉」で説明することはできませんが、その「体験」はすぐにできます。そして大事なのは「体験」であること。
それは先ほどの「見性」や「悟り」も同じ。どんなに言葉を羅列されてもそれを理解することは不可能。ただ、ギリギリのラインでチャレンジすることはできるかもしれません。今日の100日ブログの「書評」として「般若心経絵本」という本を再び読んでみましたが、それなどはそう。すごくフィットするのです。また、言葉でなくとも、モーツァルトの音楽で「悟り」を体験する人もいれば、インドカレーで体験する人もいるでしょう。
ちなみに私が「宇宙」を見た最初の体験が高校の時でした。前も言ったと思いますが、モーツァルトの交響曲第41番ハ長調の第四楽章のラストら辺でそれがやってきました。「うわ~!」と感じましたもの。「宇宙」としか言いようがない。あの時は古いウォークマンモドキのテープで聴いていました。それも寮生活での消灯後。でも、それ以降、同じ曲を聴いても、あれほどのリアルな体験はありませんでした。ただ、それと同じ感覚がこれまでの人生の中で何度かあったようには思います。それが真冬の滝行だったり、インドでの般若心経事件であったり。
しかしそれらの「体験」を一言で表せるような語彙を私は持っていません。ですので、無謀と知りながら、様々な言葉で説明してしまうのでしょうし、それはそれで私の表現なので、ま、いいかなと思っています。マシマタケシさんの場合は、その「(一次)体験」に対して「ぽめろん」と言葉がやってきて、それがすごくフィットしたので、そう呼んでいる。それもまたマシマタケシさんの表現として素晴らしいと感じています。
しかしながら「体験」を「言葉」にすると、それはあくまでその「体験」のごく一部にしかなりません。それが「言葉」の限界であり宿命。いかに肉薄した表現であったとしても、「体験>言葉」であって、「体験≧言葉」でさえもなりえないのです。むしろ「体験>>>>・・・・>>>言葉」であると。
ですので、マシマタケシさんにとっての「(一次)体験」→「言葉(ぽめろん)」となったのはすごくよくわかるのですが、その逆は基本的に成立しにくいと思っています。つまりマシマタケシさん以外の人が「ぽめろん」という言葉によって「体験」そのものをすることは。
なぜ、私がこのようなことを書いているのかと言うと、今年に入ってなんかいろいろ感じることがあったから。終末思想、アセンションなどのブームが、単に「目覚め」などの言葉に変わっただけではないかと。例えば「アセンションブーム」の意図するところは、何某かの方法で「アセンション」を経験することで、すべてが救われるという一種の「メシア信仰」のようなもの。ノストラダムスの時も同じようなことがありましたし、オウムの教義もそれそのものだと言えます。
しかし私の感じる「目覚め」とは決してそのような「救済思想」でもなければ「選民思想」でもありません。「あたりまえ」のことが「あたりまえ」のことだと気づくこと。目覚めても変わりません。目覚めても救われません。先ほど「般若心経絵本」を読み直していたら、すごいことが書かれてました。引用します。
「乃至無老死 亦無老死尽」
そうしてみれば、無明からはじまり
老死に至るわたしたちの
苦しみの現実こそが
そのさとり
なのですし、
逆にいえば
さとったといって
無明から老死に至る
人間の苦しみの現実が
なくなるわけでもないのです。
本当にその通りだと思います。私だって、前よりはよくなったかなと思いながらも、相変わらずキツイことも多いですから。ただ、「知っている」だけで、そのキツサも軽々と乗り越えられるようにはなりました。ただ、それだけ。目先の問題は相変わらずですし、これからもいろんなことはあろうかと思います。でも、それでいいと思ってます。
マシマタケシさんとしては、決してそのような意図はないにせよ、「ぽめろん」という言葉が一種の「救済思想」のようになりはしないかと。いや、むしろスピリチュアルブームを支えている思想的背景がまさに「救済思想」そのものなのですから、言葉を変えていろんなものが登場するわけです。ホ・オポノポノなども同じ。
ただ、そのような思想は「南無阿弥陀仏」がそうですし、宗教や思想の根っこの背景が須らく「救済思想」だと言っても過言ではありません。しかし残念ながら人は救われません。なぜならすでに救われてるから。てなこと言うと、またややこしくなりそうなので、これ以上は深く入らないどきます。
とにかく、重要なのは「体験」であって「言葉」ではありません。確かに「言葉」が「体験」への入り口になることはあっても、「言葉」が「体験」にとって代わられることは永遠にないのです。ちなみに「南無阿弥陀仏」も「言葉」ですが、「南無阿弥陀仏」の本質は「阿弥陀さんが助けてくれる」ではありません。
「阿弥陀さんに何もかもお任せします」という、脱・自我宣言なのですね。スピ的な言い方すれば「サレンダー(surrender)」となります。いいも悪いもすべて「宇宙」に委ねます。そして私はできることただするだけです。その宣言が「南無阿弥陀仏」なのです。そもそも「南無」は「帰依します」の意味ですので、まさにサレンダーでしょう。
話を戻しますが、「体験」が重要だからと言って、「言葉」が何の意味もないかと言うと、決してそうでもありません。さっき言ったようにう「言葉」は入り口になりますし、意識を向けることができます。
「ぽめろん」という言葉がいいな~と思うのは、なんか「いいな~」と思わせる語感があること。「なんだろう、面白そう!」と思ってしまう何かがあること。それを入り口にして、最終的に自分自身の「ぽめろん(仮)」を「体験」することが重要であって、「救済」のためのノウハウや呪文では決してありません。その結果として、
わき毛ぼお~ん!
であってもいいんです。むしろ「わき毛ぼお~ん!」こそが「悟り」ですと言いきってしまう人が出てくる方が、「ぽめろんします!」とか「アセンションします!」などと言うよりも、ずっと理想的だと思っています。なぜならその人にとって「わき毛ぼお~ん!」こそが「一次体験」なのですから。
それではその「一次体験」をするにはどうすればいいのか。瞑想ですか?坐禅ですか?滝行ですか?100日ブログですか?・・・それらは「YES」であると同時に「NO」です。答えを言うと、「行為」を積み重ねることです。その行為が「瞑想」であればそれはいい、「ブログ」であってもいい。
しかし何かをまさに「悟る」には、何かの「行為」を繰り返すことが大切。ではどんな「行為」がいいのか。それがまさに「今、やってること、やりたいこと」です。イチローは悟りに至るまでに、バットの素振りを何万何億回としたと思います。しかし、私にとって素振りは「やってること、やりたいこと」ではありません。それよりも「ブログを書くこと」や「しゃべること」、「滝に打たれること」、「子育てすること」、「旅すること」の方が私にとって余程大切です。
ではその「やってること、やりたいこと」のシグナルはどこで判断するんでしょうか。それがまさに「面白そう」です。「100日ブログ」の呼びかけの際、「人生を変える」とは言うものの、最初からはっきりと「変わりませんよ!」と言ってます。変わることもあれば、そうでないこともある。でも、何かあったら面白いし、そもそも皆で100日書くことが面白いじゃん!ってのがそもそもの動機です。
実際、前回の100日ブログの時、「100日書いたけど、願いは叶いませんでした」などと言われることがあり、私としては「そりゃそうだろ~!」と思うのですが、本人は切実だったんですね。でも、私のスタンスはあくまで「面白そう」であって、「変わらなければならない!」では決してありません。
「ぽめろん・・面白そう!」ってのは素晴らしいですね。でも「ぽめろんすることで何か変わるのでしょうか?どうすればぽめろんできるんですか?」などと言うのは、ちょっと、、、と思わざるをえません。結局のところ「面白そう!」が動機で始めることって、だいたい続きますし、続けていると、それが掛け替えのないことになる。
私にとっては、ブログ、滝行、インド、セミナーなどがそう。「セミナーで稼ぐぞ!」と思ったこともなく、私はセミナーをするのが好きで好きで好きでたまらないんです。それは私のセミナーに参加されたことある方はよく伝わってると思います。
「面白そう!」で始めたことって、何かが「変わる」と言うより、むしろ「本当の自分」に「戻る」と言った方がいいかもしれません。そこで「行為」を積み重ねる。そんなある時、「なあ~んだ!」ってのがやってくるかもしれない。それが「悟り」であり「本当の自分」を知ることなんじゃないかな、、、と思ってます。
ランキングの話からかなり深みにはまってしまいましたが、「いろとかたち」さんがそこからいなくなられるのはちょっと寂しい。でもブログがなくなるわけじゃないので、ちょくちょく訪問したいと思っています。しかも今日はご著書の配本日だったのですね。おめでとうございます。それにしても、この「哲学・思想部門」からの出版デビューが多いですね。スピ系ブログの出版登竜門でしょうか(笑)
てなわけで、明日は保育園復帰。ありがとうございました。
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力がみなぎっている感じが伝わってきました!!
これをついさきほど、ブログの中で書いたばかりなので、何だかとても嬉しくなりました♪
コメントしたのは、ただそれだけのことを、何となく言いたかっただけです。
失礼いたしましたm(__)m
体験求める前に、まず自分の好きなこと、自分を満足させてくれるものを見つけることをしたほうがいいですね。
ブログのおかげで早起きに磨きがかかりました。(笑)
思ったんですけど、100日終わったら100日ブログ同窓会なんてどうでしょうか?
Qさん囲んで100人集まったらすごい。(笑)
東京で開催されたら、参加できるんだけどなあって思いました。
『見性・目覚め・悟りなどの超感覚的な「(一次)体験」を「ぽめろん」という言葉で伝えようとしている』という観点にはちょっと誤解があると思います。
それは、「目覚め体験」は重要でない、「日々の生き方」こそが大切、というマシマシの持論に逆行しています。
マシマシの論点は一貫してQさんの言う『「あたりまえ」のことが「あたりまえ」のことだと気づくこと』と同じだからです。
彼がこれだけでいい!と言っている「ぽめろんを観る」という言い方から入ると理解しやすいと思います。
これは、自分の中にも他の人の中にも自然・人工物・あらゆるものにも、溢れる「(同じひとつの)生命力」を見る、「大いなるひとつ」の働きを観察する、ということです。つまり、ぽめろんは、私たちがすべてそうであるところの、同じひとつのもの、といった時の「それ」なのです。自分が「それ」であることに目覚めるのが覚醒(=いわば、ぽめろんに出会う)ですよね。
(続く)
彼が「それ」を「ぽめろん」と呼んだ事で、多くの人が自分の中にも他人や自然の中にも「それ」を発見しやすくなりました。生き生きと意識に立ち昇って来たんですね。それはすべての人がすでに持っていて感じている、「バリエーションとしての表れを知ってはいても、根本原因としては知らなかった(意識しなかった)モノ」だからです。
どっちにしても思考では捉えにくいモノなのかもしれません。次の記事参考にどうぞ。
ぽめろんのひびき http://yahama.exblog.jp/13515540/
ぽめろんを感じる http://yahama.exblog.jp/13710556/
(また続く。すみません)
「ぽめろん」を感じ始めた人が自分のその感覚を表現する素直な言葉として使うのではなく、先に「ことばありき」で誤解される事も想定内だったかどうかはわかりません。(てかこういう事って手を離れたら誤解されやすい[訂正もできないし]とも言えますよね。)
私にとっては、マシマシの処女作が世に出た日に、そしてまさに言葉によらず生き方(そして彼にとっては絵という表現)を深めようと彼がブログランキングから姿を消した日に、この記事が書かれたのは、とても暗示的でした。
(起こることは必然でことでしょうかね・・・。^^)
超長文すみません。いつもありがとうございます!
いや、、なんとなく書いてしまった、書かされてしまった感じです(^^;
ありがとうございます!
実は今朝、マシマシさんから連絡があって、驚くほどに考えや感じ方が似ていることを知りました。
ここで私が言いたかったのは「ぽめろんとは何ぞや?」ではなく、「言葉」は独り歩きして様々なとらえ方がなされる、ということ。
そしてその「言葉」に固有のそして様々な意味が付与されることで、いい意味でも悪い意味でも「道具」となってしまうことの危惧。
そうなるとオリジナルな体験・在り方さえもが曲解されてしまい、「ぽめろん」という輝きが損なわるのではないかと。
私が大切にしているのは、「言葉」そのものではなく、「体験・在り方」なんですよ、、、ってことなんです。。。
>驚くほどに考えや感じ方が似ている
でしょ、でしょ!?前にTwitterでつぶやいたことある通りですよ~。(覚えてて下さってるかどうかわかりませんがQさんがマシマシをフォローし始めた時)
同じようなこと感じていて、でも表現がそれぞれ違って、それぞれに個性的で味わいがあって、大好きなお二人ですよ!
Qさんがおっしゃりたかったこと、わかります。基本的なスタンス知ってるつもりですから。
そして、道具としてのことばのすばらしさ・危うさに、全く同意です。言葉<体験・あり方ってことも。
この記事で初めて「ぽめろん」て言葉に触れる方もいるかも・・・って思って、書いちゃいました。ま、おせっかいお姉さんというところですね。(;^_^A
マシマシと直接お話できたのなら(よかった!)ますますおせっかいでしたが、お許しくださいね。
ありがとうございます♪
第3弾、無いと思います。今回が最後って言ってますから。
彼は、ことばで語るメッセンジャーとしてよりも、絵や生き方そのものを通して「ぽめろん」とより深く同調し、いわば「目覚めた生き方」を極めようとしてるんだと思います。
でも、同じ九州なのできっと会えるんじゃないでしょうか?楽しみですね♪
確かに最初は、目覚め体験そのもののことを「ぽめろん」て呼んでました。
それが、どんどん命そのものへと拡がっていったんですね。今は後者で使うことが圧倒的に多いです。
その辺、蛇足ながらお詫びして訂正しておきますね。今頃ここへのコメントでごめんなさいね。