いつもえくすたしい 2010.1.16

 2010年、最初の「7日滝行」を満行しました。7日間はあっという間ですね。今年も2~3回は21日行をすることになると思いますが、「滝行」はまさに生活の一部です。2004年から開始した滝行も今年で6回目の冬。これから一時、寒くなっていきますが、春の滝はまた格別となります。その春の滝を味わうために、今、冬の滝に打たれているようなもの。大自然が目覚める、そのエネルギーを全身に浴びるのです。

 ところで、ここ最近、自問自答することがいろいろあります。昨年末、大きな「夢」であった「出版」を実現し、それも自分ができる最高の形で締めくくることができました。そして今、私はこれからどこに進もうかと自問自答するのです。もちろん本は次々と出していきたいと思っています。ネタもたくさんありますし。セミナーや講演会もどんどんやっていきます。ブログだって毎日書き続けます。そして、ちびQが大きくなるにつれて、周囲の環境もどんどん変わっていくとは思います。つまり、これからも変化し続けるし、今までやってきたことがどんどん拡大していくと思っています。

 しかしながら、そのような傾向とは逆に、自分の内面へ内面へと向かっている自分がいるのも事実。その方向を体現したのが、私にとって「禅」との出会いなのかもしれません。「禅」における基本中の基本にして、最大の問いかけとは「本当の自分」とは何かということ。それが第一の「公案」です。

 とにかく「本当の自分」になりつくす。そこでわかったことが一つだけあります。これが「公案」の答えかどうかわかりませんし、どうか私の意見に影響を受けないで欲しいと思っていますが、それは。。。

 実は「本来の自分」なんてものは「ない」ようです。と言うか、「自分」とか「私」なんてものはこの世に存在しない。そもそも「私」ってなんでしょう。私の名前は「石田久二」であり、福岡に住む36歳男性。本を出版し、セミナーや講演会やコーチングなどをやっています。スピリチュアルなものに興味がありますが、普通に金銭欲も性欲もあります。
 
 しかしもし、将来、性欲がなくなってしまうと、それは「私」ではなくなるのでしょうか。セミナーをやらなくなったら「私」ではなくなるのでしょうか。さらに言えば石田久二という名前でなくなると「私」でなくなるのでしょうか。もっと言えば、いつか生命が無くなると「私」でなくなるのでしょうか。決してそんなことはないと思います。私もいつか死にます。私の親は先に死にます。しかし、親が死んだところで親の存在がこの世からなくなることはありません。私の心には永遠に残り続けます。私の祖母はすでに亡くなってますが、今でも心の中には存在しています。だから、私の本にも登場させることができたのです。

 結局のところ、名前や属性はおろか、生命さえもがなくなったところで「私」という存在がなくなるわけではありません。では、これがなければ「私」が「私」でなくなるような何かとは存在するのでしょうか。もしも人々の記憶から「私(石田久二)」が一切なくなったとしても、この地球上、いや宇宙に「私」が存在していたという事実としての「私」は残ります。

 もう一度問いますが、これがなければ「私」が「私」でなくなるような、最も最も「純粋な私」とは何か。実はそこには概念としての「私」はあったとしても、実体としてはどこにも存在しないというところに行きあたります。それこそ「純粋な私」としか表現しようのない、目に見えるとか見えないとかを超越した「私」があるわけです。しかし「私」なんてものはどこにも存在しない。

 結局、そこに行きついてしまうのです。言葉でうまく言い表せないのがもどかしい。そもそも存在しないのだから「私」は永遠に死なない。輪廻転生とか霊魂とかそんな話じゃなく、私には永遠不滅の「私」がいるけど、そもそも「私」などは存在しない。どうです。まったくわかりませんよね。でも、そんな表現しかできないのです。

 もしもあるとすれば、今ここ、、、、あれ??どっかで聞いたフレーズ。結局、阿部敏郎さんがブログで書いてることになるのかなあ。「禅」では「二念をつぐな」と言われますが、「〇→△」なんてのは、本来存在しようがないのです。「雨が降っている→洗濯物が乾かない」、、、は一見事実のように思いますが、「雨が降っている」という現象はそれ以上のものでも以下のものでもなく、「洗濯物」とは何の関係もないはず。それこそ「大きなお世話」です。

 でも、私たち一般の思考様式は常に「〇→△」で成り立ってます。「不況だ→将来が心配」、「金がない→困る」、「雪が降ってる→寒い」、、、など。そもそもこの思考様式は「リンゴが落ちた→万有引力」という思考パターンの元になっているので、「〇→△」ってのは、近代科学の元素だし、そのおかげで今、ブログを書けている事実があります。とてもありがたいです。

 なので「〇→△」は生きる上ではとても大切ではありますが、そもそも「〇→△」など存在しないのも、これまた事実なのです。私たちは「〇→△」によって生活を向上させてきましたが、一方で「〇→△」があるから苦しみを生むわけです。「〇→△」は確かに大切。でも我々はいつでも「〇→△」などないところに立ち戻ってもいいのです。そして究極は「〇→△」どころか「〇」さえこの世には存在しません。

 とまあ、そんなことがですね、、、ちょっとわかってしまったのです。と言いながらも、これってずっと前から知ってたし、ブログでも書いてきたような気がします。世の中は「無色透明」だとか。もうわかりきったことであるにも関わらず、今日、こうやって自然と手が動いて文章を書いている「私」がいます。え??

 まあ、結局のところ、真冬の滝行やったところで、そもそも「私」など存在しないのですから、どうってことないのです。不安や悩みなども存在しなければ、未来も過去も存在しません。もしもあるとすれば、それは、、、えくすたしい、、、のような気がします。エクスタシーではなく、えくすたしいです。そう、純粋な私とはえくすたしいそのものなのです。

 伝わらないことばかり書いてすいません。ところで今日は友達のお家で新年会がありました。新年のお祝いに加えて、私の出版祝いなども兼ねて。嬉しいですね。ちびQも参加しました。嬉しいですね。えくすたしいですね。ありがとうございました。

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Commented at 2010-01-17 22:09 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by みりい at 2010-01-17 22:20 x
★Qさん♪

わぉ、すごい!!

Qさんが今感じていらっしゃる世界を、こんなふうに書き表せるなんて、
右脳と左脳をつなぐ脳梁になにかが起きてるんじゃないでしょうか!?(笑)

ちょっと前、阿部さんが沖縄「いまここ塾」で、般若心経絵本を読んでくださった事があるんですが、
それは、私たちは大きな海の表面に起こっては消える波のひとつのようなもので
あっという間に消えちゃうし、つかまえられる実体はないんだけど
でも、たったひとつの大きな海という実在とつながっていて、
波は海と同じものなんだ・・・っていうようなことでした。

Qさんのこの記事読んで、そのときのお話を思い出しました。

「波」という実体は、無いんですよね、それは「ある」ものの「状態」だから。

で、その、海のうねりが、波としての動きが、えくすたしいなんじゃないでしょうか?(笑)
Commented by Uoとしさ at 2010-01-17 23:21 x
本当の自分がないに気づくのが早い!
私は恐山の禅僧が書いた「老師と少年」を読んで、本当の自分がないという考えに触れ納得できました。
坐禅をしていますがまだ実感としては理解できていないです。

この考えを「宇宙となかよし」を読む前に知っていたので、書籍内の『本当の自分』の言い換えを試みていましたが、うまくいってません。
いつか本当の自分がないという立場から「宇宙となかよし」の本当の自分を言及しなおしてください。
Commented by katamich at 2010-01-20 14:10
■非公開コメントさん!
興味深い見解ですね。
Commented by katamich at 2010-01-20 14:11
■みりいさん!
感覚的なものを言葉にするのは難しいですね。
般若心経絵本はすごい表現力だと思います。
Commented by katamich at 2010-01-20 14:11
■Uoとしささん!
そのうちいい表現がでてくればいいですね。
by katamich | 2010-01-16 23:39 | ■精神世界 | Comments(6)