エチオピア料理で悟る 2009.8.26
2009年 08月 26日
そうそう、沖縄と言えば、阿部敏郎さんのブログ「いまここ塾」で「宇宙となかよし」が紹介されちゃいました。午前中、なんだか私を取り巻くネット環境が賑やかだと思ったら、そういうことだったのです。とにかく凄い人気ブログですので、大量にアクセスが来ました。ありがとうございます。
それにしても、阿部さんの「いまここ塾」をそれほど多くの方が読んでいるなんて、凄い時代にいることを感じさせます。正直、人気ブログって嘆かわしいのが少なくないんですよね。「人気ブログランキング」の総合などを見ると、上位はほとんどが芸能ゴシップだったり、ペットのブログだったり。今流行りの「アメブロランキング」などを見ても、上位は相変わらず「あいのり」の人たちで占められていたり。正直、シュレックさんのブログとか読んでもぜんぜん面白くないじゃないですか。
それはともかく「いまここ塾」は読んでみてわかるのですが、めちゃくちゃ深いです。「深い」なんて言葉で言い表していいものかわかりませんが、相当な感性と知性がないとついて行けないだろうと思ってしまうのも事実。これは言ってみれば阿部さんの個人的な「体験」に基づくエッセイ集のようなもの。そしてその「体験」ってのは、本来「体験」したものでないとわからない世界。
例えば「砂糖」を説明するには「甘みを持つ調味料の一種であり、主な成分は糖である(wikより)」みたいな「言葉」でもできるのですが、じゃあ「砂糖の甘さ」を説明しろと言われて、「言葉」で説明できる人はいないでしょう。「インジェラ」って聞いてすぐわかる人は決して多くないと思います。エチオピアの主食なんですが、不思議なことにそれはエチオピアにしかないそうです。ネットで調べるとインジェラの説明はたくさん出てきます。しかしどんなに説明を読んでも、インジェラの味がわかる文章はありません。結局、砂糖にしてもインジェラにしても「食べる」という「体験」がなければ、その本質を知ることは不可能なのです。
「いまここ塾」も似たようなもので、阿部さんと同じような「体験」をした人でないと、そこで書かれていることをしっかり理解することはできないと思うんです。こう言ってはなんですが、私はなんとなく「わかる」んですよね。例えば気温が0度の滝行などしていると、ある時、冷たいとか痛いとかの感覚がなくなって、しかも、その瞬間一切の雑念も消え失せ、あるのは「オレハイマタキニウタレテイル」という事実だけになるんです。それがどうしたと言われても、どうとも言えません。
例えば「冬の滝はめっちゃきついっすよ~」と言うと、あまりにも当たり前ですが、なんとなく「わかる」と思います。そうじゃなくて「オレハイマタキニウタレテイル」という境地は、本当に「体験」しないとわからないと思うのです。Mと言われそうですが、その時はなんだかめちゃくちゃハッピーな気分で涙が出ることもあります。
結局のところ冷たいとか痛いなんて感覚も「時間の連続性」の中でしか感じられないもの。心配や不安もそうですよね。どう考えても「いま」に心配することは不可能です。心配ってのはそれがいつであれ「未来」にしか向けられませんから。「後悔」もそう。この瞬間に後悔することは物理的に不可能ですから。
同じように滝の中の「冷たい」って感覚は、「時間の連続性」においてしか認識できないのです。それがたとえ火の中であろうと、瞬間瞬間は熱くないのです。しかし、そうは言っても私たちの「肉体」は「3次元仕様」で出来ていますので、火の中に入ると大火傷します。ただ、ヨガの達人には火の中に手を入れても火傷しない人がいますが、これは本当に究極なんでしょう。ま、私はそこまで行こうとは思いませんが、冬の滝行では、それに近いところは味わうことができます。真冬の滝で冷たさを感じない。それはまさに「いま」に生きているから。
ですので、私が滝行を5年間、それも冬の滝を5回経験した中で言うのは、真冬の滝で「感覚がなくなる(麻痺ではなく)」ような「体験」は、まさしくとことん「いま」にフォーカスした結果だと思うのです。導師も言っていましたが、自分の肉体と水との区別がつかなくなるような「体験」です(私はまだそこまで行ってませんが)。
じゃあ「いま」ってどれくらいの長さか、と言われると、仏教では「一刹那(手を叩いて鳴る瞬間)」と言われたりしますが、実際はもっと短いような気もします。それこそ「微分」の世界で、それを一番的確な言葉で表したのが「空(くう)」じゃないかと思います。
「色即是空空即是色」の「空」です。直訳すると「形あるものは形がなく、形がないものは形がある」と意味のわからないものになりますが、そもそも「形(色)」とはまさに「時間の連続性」においてしか存在できないもの。滝で言えば、「冷たい」という感覚自体は「時間の連続性」の中で感じるものなので、それは「色」です。しかし、その「冷たい」という感覚も、「いま」にとことんフォーカスしたところにはなくなってしまいます。その瞬間がすなわち「空」です。
ですので滝の中の「冷たい」という感覚も、それ自体が「時間の連続性」において感じるだけであり、本当はそんなものないんですよ、ということ。これ、もう少し言い換えると「3次元」と「5次元」とでも言えましょうか。言うまでもなく「3次元」とは「色」のことで、「5次元」は「空」です。我々は常に「冷たい」などの連続した感覚において生きています。つまり3次元に生きています。しかしもし、本当に「いま」に生きていることを自覚できれば、そこはすでに「3次元」ではありません。
つまり私たちは普段「3次元」に生きていると思いがちですが、本当は「3次元」と「5次元」の同時性の中で生きているのです。本来的には私たちは「5次元」に身を置いているはずなのです。ただ、地球においては何かの理由で「3次元」で生活しなければならなくなっています。それを修行と言うのかもしれません。葛藤と言うのかもしれません。
ですので「色即是空空即是色」の本当の意味は、「あなたは普段3次元にいると思っているかもしれませんが、実際は5次元に本当のあなたがあり、とは言うものの、ここは地球なので、とりあえず5次元を感じながら3次元で生きるようになっているのですよ」、と言うことなのです。おそらくこの訳語は世界初でしょうね。でもお釈迦様はそのこと知ってたのです。
「大乗仏教」の本質は「空」だと言われます。それは仏教云々に限らず、「空的世界(くうてきせかい)」を知ることが「悟り」の序章であり最終章なのです。そしてその「空的世界」が「いまここ」なのでしょう。しかしその世界は「体験」でしか知ることができません。
では、その世界、つまり「悟り(別のいい方をすればアセンション)」とは「体験」した者のみぞ知るみたいな、閉鎖的なものなのでしょうか。決してそんなことはありません。砂糖の甘さを知るには食べるしかないのですが、その前に「砂糖ってどんな味なのかなあ」と憧憬を得ることは決して無駄ではありません。この世に「砂糖」という凄い何かがあるそうだ。私は「砂糖」を食べるために生きようと思います。そう思ったところに「砂糖」が口に入ると、それはもう至福の瞬間でしょう。
もしもそのような憧憬を持つことなく、勝手に口に砂糖を入れられても「何か口に入った」で終わってしまいます。砂糖はあまりにも一般的ですので、さっき例に出した「インジェラ」にしましょう。福岡には一軒だけエチオピア料理店があるのですが、生憎、インジェラは夜のディナーでしか食べられません。それはそうと、このブログを読んでいる人で、インジェラを食べたことのある人はほとんどいないと思いますが、今日、とりあえずその存在を知ることができました。もしも都内にお住まいであれば、食べられる店を探すのはそう難しいことではありません。そしてその気になれば、インジェラはわりとすぐに食べられます。
しかし、ここでインジェラの存在を知らなければ、一生涯、インジェラを食べずにいたことでしょう。インジェラを知ったおかげで、インジェラを食べることができたのです。それと「悟り」も似たようなものかもしれません。阿部さんのブログのコメントなど読むと「いまここ」がわかりません、と書いている人もいます。
それは「インジェラの味がわかりません」と言ってるのと同じで、正直、どんなに読んでもわからないのです。しかし、阿部さんのブログでも、私のブログでも、インジェラがあることを知った段階から、いつかインジェラを食べる「体験」できるようになるのです。
もしよかったら、、、このブログを読んでインジェラを知った人は、実際、どこかで食べて、後からで結構ですのでコメント欄に「インジェラ食べました!」と書き込んで頂ければ嬉しいです。それは「悟りました!」と同じとうなことですから。
ただ、悟りとかアセンションか言うと、スピ系の人たちは、すぐにその「ノウハウ」を知ろうとします。太陽を凝視するとか、そんな危険なノウハウまで紹介されます。しかし、そんなノウハウは実は必要ないんです。私は滝行とかやりますが、そんなのも本当は必要ない。阿部さんがやっているような瞑想も本当は必要ないのかもしれません。
「悟り」とか言うとすぐに怪しくなりますが、日常の生活で「あ、これでいいんだ」と感動する瞬間があれば、それが「悟り」です。中には天然で悟る人もいるかもしれませんが、何かのご縁かこうやってブログに出会っています。決して特別なことをお勧めしようと言うのではありません。しかしもし、このブログを読んだことで、いつの日か「あ、これでいいんだ」と「体験」することができれば、書いてて妙理に尽きるというもの。ちょっとだけ下世話な言い方しますね。もしもその「体験」ができれば、世の中から心配事が一切なくなりますよ。お金も健康も人間関係も。
と言うわけで、今日もまた熱く語っちゃいましたが、そういうことなのです。これで、いつかはインジェラ食べられますので、気楽に気楽に。ただ、インジェラはそんなに美味しいものでもないそうですが(あ、言っちゃった・・)。でも「悟り」みたいのはいいと思いますよ。誰が食べても美味しいと思います。
ところで、話変わりますが、ブログランキングについて。昨日「スピリチュアル部門」で一位だとか言っていましたが、ついに「あのブログ」がご登場されました。そしてめでたく2位に陥落。ただ、新しくできたこの部門もおかげでちょっとずつ盛り上がりそうです。怖いこと書いているので、私はあまり読みませんが、でも文句なしの超人気ブログです。2位になったことよりも、これで私のブログにもアクセスの恩恵がありそうでよかったです。「あのブログ」を超すには別のエネルギーが必要になるので、とりあえずこのままで。でも、これからも末長く応援の方もよろしくお願いしますね(^^)。ありがとうございました。
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あらゆる番組 ブーム というこの人間が大好物のものでメタボになった{笑}いまの状態ですが
確かに やたら悟るとなるとその方法論に走るんですよね・・僕はよく 漢字の単語の深さに 何かを見出せる気がしてるんですが、言葉ではいえない 完全な幸せなというか いまここというか その状態って 自分が今まで作った{脳での思考 育った環境 価値観}大切と思っていたものを完全にリセットする"覚悟”がいるんだと思うんです。
覚悟って 悟りに目覚めるってことと行きがちですけど 僕は
悟りから覚めるんだと思っています{笑}
悟り悟りで日が暮れて 体を痛めたり 逆に悩んだり 本来の自分を焦がしてしまいがちですものね・・・
お釈迦様も身を削って ヘトヘトまでいった挙句が
おや これ違うぞ 逆だぞ!って気付いたのかな~なんて{笑}
”悟りから覚めた瞬間 悟った”
まるでおかしなことですが 結局 この地球と言うか宇宙と言うか
とくにこのぼくらの次元?はパラッドックス祭りですものね{笑}
霊(魂)は5次元の存在。確かに私もその結論に達しています。
おまけに言うのであれば、神や浮遊霊、自(地)縛霊などは4次元ですね。
キリ◎ト教などで言われる精霊(精)は6次元だと観じていますが、これは話が飛びすぎですね。すみません(; ̄Д ̄)
実はその「方法論」も一つのことを延々と続けていると、何かがわかるとは思いますが多くの人はすぐに結果が出なければ次に方法論に向かってしまいます。
お釈迦様は確かに悟られたと思いますが、だからと言ってそれで終わったわけではなく、そこからが本番だったようですね。
人から裏切られたりなど、苦しい経験も何度もされて。
悟りはスタートのような気がします。
5次元に対する明確な定義をせずに書いてしまいましたが、定義してもそれが正しい確証もないので、とりあえずぼかしてわかる人だけわかってもらえればそれでいいです。
ただ、4次元や6次元それ以上については、それぞれの差異ある体験がないので、何とも言えない状況です。。。
そうですよね~(^^) ・・・ですよね★
絶対感謝もいまここの境地にも未だ至っていませんが…私も先日、大阪のいまここ塾に初めて参加しました。あの日の後より、すべてがより愛おしく、すべての人の現れの奥の、道程というか、そのようなものをより感じています。
昨日からすべてがはっきり、くっきりと・・・うまく言えませんが、今までより輝いている?ように見えます(なぜかは本当にわからないんですが)
とにかく、私にも何か少し変化があったのかも・・・知れません。気のせい、かもしれませんケド(^^; ☆
感謝、感謝、です☆
スピブームすごいですね。時々拾い読みするのですが、物・第三者に依存しすぎのきらいを受けます。見えないものが聞こえる見える、覚醒するというのがちやほやされるのが悲しいです。みえないからというやっかみではありません。前述の阿部さんのブログもしばらく読んでましたが、自分には合いませんでした。
瞑想とか形だけにとらわれる行を積むより自分たちでできる感謝や愛が一番だと今日この頃思います。その気持ちを人と繋ぐのが人が生かされている意味なのではないのかな?とQさんのブログを読んで思いました。又読みにきます。