はら 2004.8.23
2004年 08月 23日
どうでもいいことですが、最近、「はら」が出てきました。もはや「最近」ではないのでしょうが。実はスーツのズボンがちょっときつい今日この頃です。
人は何故よけいに食べるのでしょうか。ライオンだってお腹いっぱいになれば食べなくなるのに。人もお腹がいっぱいになれば、基本的には食べないのだけど、そこにアイスクリームなんてのが来ると、「別腹」なんて言いながら余計なカロリーを摂取してしまうもの。さんざん飲んだ後の「ラーメン」も同じこと。
自分の考えでしかないのですが、おそらく人は動物の中でもっとも「味覚」が優れているからではないでしょうか。聴覚や触覚、嗅覚は一般的に動物の方が優れているのだけど、人間は視覚と味覚が非常に優れた生き物です。
動物の二大欲求と言われている「食欲」と「性欲」は、それぞれ「固の保存」と「種の保存」に対応しているのだけど、それらをつかさどるのが人間の場合「味覚」と「視覚」になります。
岸田秀的に言えば、味覚と視覚が本来の本能を持っていれば、それらの機能発達による「過剰摂取」はないのだろうけど、如何せん、人間は本能を失った動物であるので、最適レベルに達しているのに「別腹」とか「別珍」とか言って、過剰に食べたりセックスしたりしちゃうのです。考えてみると、欲望というものはほとんどの場合、「見ること」と「味わうこと」に対する欲望であると思います。
そこで、精神修業というのは、つまるところ「視覚」と「味覚」に本来持つ「本能」を呼び起こすために行われるのではないかと思います。
いわゆる六感(視、聴、味、嗅、触、気)の中で非本能的なものから並べると、「視覚」、「味覚」>「聴覚」、「嗅覚」、「触覚」>「気(感覚)」となるのでしょうが、左2つ+中3つを、究極、「気」のレベルと同等にすることが、精神修業の目的であると思います。
ですので、瞑想の時は、目や口を瞑ることで左2つの能力を封じ込めて、気を高めようとするのです。そう言えば、目と口は自ら瞑って見えず、味わえずの状態に出来るけど、花や耳や肌は手や衣類等で被わないとその能力を封じ込めることは出来ません。気(感覚)ともなると、どうやっても封じ込めることはできません。ですので、上にあげた六感というものは、右にいくほど完成されたものなのかもしれません。
何の話をしようとしていたのか忘れました。そうそう、腹が出てきたという話をするつもりが、変な方向に展開してしまいました。
「粗食」と「禁欲」が僧侶など修業の基礎であることは、いいかえると「味覚」と「視覚」に対する挑戦なのかもしれません。私は今後、滝に打たれるのを続けるつもりですが、そのうち、プチ断食やプチ禁欲をしてみたいと思います。美川健一など芸能人が年に3日は断食をしていると聞いたことありますが、そうすることで、体の余計なものを排出できると同時に、免疫力が高まるそうなのです。やってみたいのですが、3日は辛そうだな~。半日でももたないのに。。。
それにしても、「はら」の話しようと思って書き始めたのに、自分でも驚きの「気づき」がここにあるです。
(写真ははら)