阿部敏郎さん「いまここ塾in博多」に行ってきた♪ 2009.8.22
2009年 08月 22日
つまり今日はイスラム教徒の方の滝のお世話をさせてもらったのです。私たちがやっている滝の作法は天台修験に則っています。しかし、導師は滝に来られる方の宗教や信仰を尊重されます。そしてそもそも「水」で浄化すると言う考え方は、どの宗教は文化にも見られることようです。その「水」がたまたま「滝」ということ。
それにしても面白い光景だったと思います。滝に入る前に、私が作法をします。そしてその方を滝にお入れするのですが、私はその前で般若心経を小声で唱え、その方は滝の中でアラビア語でコーランの一節を唱えていらっしゃいます。つまり仏教と神道とイスラムのクロスーバー。人によってはケシカランと思うかもしれませんが、では釈迦やムハンマドがこれを見てどう思うか。さらに大日如来やアッラーが見てどう思うか。どうも思わないでしょう。そもそも大日如来もアッラーも言い方変えただけで同一人物なのですから(笑)。結局はひとつ。
その後、white-crystalさんと私の車で福岡に戻ります。この後どうされるんですか?と聞くと「講演会」に行くと言われます。阿部敏郎さんの「いまここ塾in博多」に。私が6月に行こうと思って申し込みをしていた講演会です。ただ、あの時は別件と重なり他の方に行ってもらいました。今日のことはちらりと聞いてはいましたが、今日あることを知ったのは今日。すごく人気のブログだし、講演会もすぐにソルドアウトするので飛び入りで大丈夫かな?と思ったのですが、とりあえず私も行ってみることに。なんとなく呼ばれているような気さえしましたので。
そして行ってみると案の定OKでした。しかし、用意されていた席はほとんどが埋まるほどの満員御礼。正直、私は阿部さんのブログを欠かさず毎日読んでいるわけでもなく、昔からの熱心な読者というわけでもありません。ただ、今年になって複数の人から「阿部さんのブログを読め」とか「阿部さんに会いに行け」と言われたこともあり、非常に気になる存在ではありました。今まで川○○○郎さんとか、斉○先生とか、ぶっ飛び系の怪しいのにも行ってきたので、正直、そんなだったらどうしよう、、、とはちょっとは思いましたが、ブログを読む限りでは大丈夫だろうし、阿部さんのことを勧めてくれた人も信頼できる方だったので、どんな話が聞けるのか楽しみでした。
結論。やっぱり私は呼ばれていました。行くタイミングは6月ではなく、まさに今日。普段は一人で滝に行くところ、今日はwhite-crystalさんと行ったのも、まさに必然。今日は滝に行ってそのまま帰るつもりでしたので、筆記用具も、そして上着も持たずに会場に入りました。Tシャツに雪駄姿。クーラーが効いててめちゃ寒い。
今から書くことは「いまここ塾」のレポートではありません。何のメモも取らずにただ感じただけ。阿部さんの言葉とかニュアンスとか違った部分もあるでしょうが、あくまで講演会で感じたままのことを私の言葉で語るだけです。もしかしたら阿部さんが言ったのではないことを、さも言ったかのように書いてしまうかもしれませんが、これは記憶を頼りに再現するのではなく、あくまで私の「感じたこと」を言葉にするだけ。その辺、どうぞご了承ください。
まず、タイで起こった不思議な話に始まり、笑いを交えながらも、淡々と「いまここ」ということの本質に入ってきます。すぐに感じたことは、阿部さんは一次情報であるということ。講演会と呼ばれるものの多くは、他の人の話や本、データなどを引用しながら、それを自分の話と同化して講演会としての体裁を保とうとします。しかし、阿部さんの話はおそらく100%阿部さん自身の体験であり、阿部さん自身の言葉によるものです。精神世界の勉強もたくさんされてきたのでしょうが、その辺の知識の受け売りということがなく、100%阿部さんが受け取ったメッセージを素直に話しているだけ。しかも、本来は「言葉」にならないようなことを、どうにかしてギリギリのラインで伝えています。
人によってはチンプンカンプンかもしれませんが、阿部さんと同じような「体験」をした人にとっては、深く浸み入ってくるでしょう。腑に落ちるでしょう。そして私自身も、、、わかる、でした。一方で、阿部さんの話が本当だとすると、皮肉なことに「精神世界の常識のウソ」がたくさん暴かれてしまいます。今日の講演会は、阿部さんのファンであると同時に、精神世界に造詣の深い人たちもたくさん来られていたと思います。ですので、いわゆる「精神世界の常識」に生きている人に対しては、かなりリスキーな発言にもなろうかと思います。
例えば阿部さんは「魂はひとつ」という話をされました。となると、「ツインソウル」なんて概念が立ち行かなくなります。魂が「ひとつ」だとすると、言うなれば世界の全人類が「ツインソウル」であり、恋人なりパートナーなりの特定のツインソウル観が崩壊してしまいます。そして「アセンション」、、、この話は後ほど。
最初に阿部さんは「今日の話はいわゆる3次元に生きている生活の延長上でとらえることはできないので、まずは3次元の思考様式をストップさせましょう。そのためには瞑想がいいです。」とのようなことを言われ、全員で5分間の瞑想に入ります。それから話がスタート。
阿部さんの話は一貫して「この世界には『時間』という概念はない、あるのは『いまここ』だけだ」ということ。このメッセージはブログでもお馴染みですし、「いまここ塾」の基本中の基本であるメッセージです。そして「『時間』がないということは、『私』さえもがなくなることだ」と言います。おそらく「悟り」や「覚醒」があるとすれば、究極的にはその境地に達すること。しかしどう考えても「私」という実体はここにあります。それってどういうこと?
そもそも3次元の思考様式を決定づけたのはデカルトであると言われます。科学の思考様式と言ってもいいです。それはすなわち「我思うゆえに我あり」という思考様式。デカルトは「方法的懐疑」という手法によってあらゆるものを疑いました。感覚はもちろんこと、目の前に存在するリンゴがリンゴであることさえも疑います。その結果、どうしても一つだけ疑えないものがでてきました。それが「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」なのです。
つまり「方法的懐疑」によって世のあらゆる事象を疑います。しかしそうやって疑っている自分自身、疑っていること自体だけは疑いようのないことを発見するのです。唯一疑えないもの、それが「我思う」であり「我あり」なのです。そしてこの思考様式はその後の科学の発展の礎を作ったとさえ言われます。
つまり「我思う」があれば、そこに「思われる対象」があることを意味します。そこには「思う」と「思われる」の図式、つまり「主観」と「客体」が存在することになります。「思う」が「我」だとすれば「思われる」は「我」以外の存在。となると「思われる対象」を例えばメスで切ったとしても、「思う我」には影響がないとされます。医学で言うと、腫瘍を取り除くためにメスで身体を切ったとしても、そこには切られた腫瘍があるだけで、世の中の全体性とは何ら関係がないことを意味します。
そしてそうでなければ、基本的に現代医学は発展しません。医者が患者の身体にメスを入れたとして、そこで医者が痛がるようでは治療ができません。医学を医学として成立させるためには「医者(思う我)」と「患者(思われる対象)」という切り離された図式が必要になります。
それは「開発」においても同じ。私が住んでいるマンションは開発された恩恵にあずかっています。しかしもともとは大地であり「自然」でした。そこには「開発する人間」と「開発される自然」という切り離された関係性があります。これは言うまでもなく「思う我」と「思われる対象」の延長上にあります。もしも「開発する人間」が「自然」を切り刻んで、そこに痛みを覚えるようではマンションは建ちません。
このデカルト的思考様式、言い換えると「科学」はこの200年間の世界を一変させました。それがいいことか悪いことか。この生活に慣れている私たちにとって、それがいかなる弊害を見せようとも、それを否定することはできないでしょう。しかしながら、この思考様式は人類の長い歴史の中で高々200年前にできたものなのです。そして我々はその200年の思考様式(パラダイム)に完全に縛られて生きています。
では、デカルト以前の、もしあるとすれば本来の姿とはどのようなものなのでしょうか。そしてあるとすれば正しい姿とはどのようなものなのでしょうか。もしもそれを探究したいのであれば、阿部さんの言うように「3次元の思考様式」を遮断する必要があります。
阿部さんは道元禅師の「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり」という言葉を紹介して、人間が向かうべき最終的な姿を示唆します。しかし「私」がいながらにして「私」がいないとはどういうことか。何度も言いますが、それを「悟る」には3次元の思考様式から離れることが必要です。そしてそれが本来の意味での「スピリチュアル」だと私は思っています。
ついでに言うと、巷に流れる「精神世界の常識」のほとんどは3次元の思考様式がベースとなっています。例えば「目に見えない世界がある」とすること自体が3次元に立脚した考え方です。「目に見えない世界」を言うためには「目に見える世界」が前提とする必要があります。そしてさらに「精神世界の常識」では「目に見えない世界」を「見える」ようにすることに力点が置かれます。
例えば「前世」「守護霊」「ツインソウル」「オーラ」など。もちろんこれは「前世」存在そのものを否定するものではありません。ただ「前世は○○である」という言い方自体が、「目に見えない世界」を対象化(客観視)することに他ならず、それはまさに「今生の私」と「前世の私」という3次元の思考様式から脱していないことを意味するのです。
では、3次元の思考様式から脱した到達点とはどのようなものか。そればかりは「体験」でしか理解できません。しかし阿部さんはそれを言葉で表現できるギリギリのラインで説明されます。つまり私たちが思っている「私」とは、すべて時間の連続性の上で認識された私です。3次元では「昨日の私」も「今日の私」も「同じ私」としてとらえます。そして「0.1秒前の私」と「今の私」は当然にも「同じ私」です。しかし我々はいつの時代にも「今」にしか生きたことがありません。「0.1秒前の私」と「今の私」を同時に生きることは不可能です。それが「同じ」だと思うのは単に「認識」の仕業です。
人は常に「いまここ」にしか生きることはできません。だとすれば我々が思っている私とは「昨日の私」でも「さっきの私」でもないことに気づかなければなりません。しかし多くの人の「私」とは「昨日の私」と「さっきの私」と「今の私」を同一視することによって成り立ちます。しかしその「私」は存在しません。先ほどの3つの「私」を同時に実現できるような「私」は絶対に存在しえないのです。しかし、繰り返しますが我々は3つの「私」を同じ「私」だと認識し、それが「私」という概念の本質になっています。そしてそれは「認識」に過ぎず、絶対に存在しえないのです。
そこでもしも「私」が存在しないとなると、当然「あなた」も存在しないことになります。「彼」も「彼女」も存在しません。では何が存在するのか(「存在」という言葉自体が3次元思考様式ですが、言語で表現する限界であることをお察しください)。それに行きつくことがもしかすると「悟り」なのかもしれません。ただ、「精神世界の常識」では、「あ、これはワンネスのことだ」とか言うかもしれません。しかし、言っておきます。ワンネスなんて言葉で片付けてしまっては、その人は永遠に理解することができないでしょう。ワンネスとは概念ではなく、体験そのものなのですから。精神世界の本を一万冊読んでも絶対にわからないでしょう。まさに「体験」した人にしかわからに境地。では、どうすれば「体験」できるのか。「体験」するには「体験」するしかない。これが私が言えるギリギリの表現です。わからん人はわからんでいいです。まずはわかろうとするところから脱却すること。それしかありませんから。
そんなわけで、おこがましくも阿部さんの話は私にとってもよく「わかる」話でした。阿部さんの講演自体は1時間20分で終わり、その後は質疑応答。「友達が亡くなったが、どう考えればいいか」「男女ということの意味は」「お金を儲けるには」などの質問が続き、そして最後に私が手をあげました。
「阿部さんの言う『いまここ』は確かにおっしゃる通りでよくわかるのですが、冒頭に言われた『アセンション』によって人々の意識がどうにかなると言う話は、時間的なベクトルを前提としなければ成り立たないと思います。そのことと『いまここ』との矛盾なり一貫性についてご説明をお願いします」
阿部さんはまさに「それが核心である」と言いながら、これもまたギリギリの言葉で表現されました。非常によくわかりました。正直言って、阿部さんの言うことはよくわかるのです。では、何のために質問をしたのか。嫌らしい言い方ですが、阿部さんがどのように答えるかに関心があったのです。
つまり「アセンション」とはもしもそれがあるとすれば、まさに「いまここ」なのです。人々はもしかしたら本当の意味での「悟り」に向かっているかもしれない。そして同時に誰もが悟っている。例えばすべては「ひとつ」である。実はこれは誰もが知っていること。その意味で悟っている。だが、そこに3次元思考様式が入ってしまうとどうか。
私が理解したところ「アセンション」とは時系列上の延長において起こりうるイベントではなく、常に「いまここ」に起こっている「うねり」のようなもの。そしてそれを「精神世界の常識」に限りなく近づけた言い方をすれば、「アセンション」とはその「うねり」の大きさのことなのかもしれない。これは私の理解なのでどうかわかりませんが。最後にこう質問しました。
「端的に行って、2012年にどうこうなると言うのは、単なる『おとぎ話』・・・?」
阿部さんは笑いながら答えます。「・・・恥ずかしくて言えないっしょ・・1999年でこりてるわけだし(笑)」、と。すいません、最後の質問は嫌らしかったですね。。。
初めて参加する「いまここ塾」は思った以上に学びがありました。そしておこがましい言い方かもしれませんが、阿部さんの発するメッセージは私が普段思っていることと何ら矛盾するものでもないこと。お釈迦様が言うように「苦」もまた人の本質。しかし「苦」を「苦」のままでとどめない。そこの「葛藤」から脱却するには、まさに「いまここ」に在るということ。そのことが本当に腑に落ちてしまうと、ある現象が起こるかもしれません。私は起こりましたが、起こらないかもしれません。どっちでもいいです。しかし、最初から何かの現象を目指して何かをすることは本末転倒。
私は、特定の人間を教祖のように特別視することは否定的です。そう断った上で、阿部さんの話はいわゆる「3次元」にも「精神世界の常識」にもとらわれない、彼自身の体験に基づく「一次情報」が伝えられているようです。私は阿部さんの信奉者ではありません。私は私の信奉者であり、そして宇宙の信奉者です(このニュアンスはわかりますよね)。それでも今日の話はすごく気づきがありました。今度9月にまた博多であるようです。行こうかな。今日みたいに呼ばれてたら行くでしょうが先のことはわかりません。私にとってのすべてはまさに「いまここ」なのですから。ありがとうございました。
阿部様の所にて、こちら様が紹介されていたので観にきました。
読みまして、なるほど、こちらに行くように言われた訳が解りました。
とりあえず、2012年のアセンションは人々の意識改革のスタートだと観じています。
他、ワンネスについて、どういうことか?最終的な人類のアセンションには3つの道(人道的、魂(霊)道的、神道的)が有ると観じています。
言葉の限界って言われることは、本当は無いと観じています。ただ、それを口から放った際、相手に届くかどうか?と、いうことなのかな。と。
色々と私的解釈を勝手に述べさせて頂きまして、申し訳ありませんでした
(;´д` )
また観にきます。その際は宜しくお願い致します。(*^-^*)ノシ
コメントありがとうございます。
私個人的には2012年の日付自体に大きな意味があるとは考えません。
アセンションがあるとすれば、阿部さんの言うように、「いま」にしかないと思っています。
そして2012年には目に見える変化はおそらくないでしょう。
言葉の限界に関して言えば、厳密にはあります。
ただし、その言葉に対する感じかたは人それぞれで、そこに優劣はないと考えると、限界などないという見方もできますね。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
段階というキーワードが出てきましたので、それについて語りたいと想います。
実は、「悟り」や「目覚め」と言われるものには、段階が有ると思っています。
残念な話なのですが、阿部様や、黒斎様は急に最大なる目覚めを体験してしまった為に、段階は無いとお考えのようですが・・・
それは仕方がない事。段階を超えて大きな目覚めをした方が解りやすいのは確かですから。
瞑想のおはなしをします。
瞑想を勧めていらっしゃるのを見かけますが、実は瞑想は一番難しい道なんだと観じています。
私の思う所では「瞑想=妄想=夢想、空想」は同じ事なのです。
その、目指している先が違うだけで。
つづく
ただ、その時は目が開いているにも関わらず、妄想の世界しか観えていないですよね?
空想=自分が楽しい事を夢想し、その景色がやはり目が開いているにも関わらず空想の世界しか観えていない状態。
瞑想=何も考える事がない。自身の記憶に悪い想いが無くなり、頭の中で自動的に湧きあがる想い(思い出)が無くなった状態。
つまり、瞑想状態に成る為には、心にも魂にも悪い感情が無くなっていないと出来ないのです。(魂の記述はいずれまた)
これが瞑想が難しいと言われる所以なのですね。
では、瞑想するためにはどうするか?
常に心の負担を無くしてリラックスすること。
に、なるわけですね。
長くなりそうなので、本日はここまでにしますね。(^^;)
また、何かありましたら記述しに参ります。
その際は宜しくお願い致します。(*^-^*)
段階は確かにあると思います。そして現象としては急であっても、そこに行きつくまでには目に見えない段階を踏んでいると考える方が自然だと思っています。
瞑想は確かに難しいです。楽そうに見えて、全然楽じゃありません。まだ滝行の方が楽かもしれませんね。
>悟りとか言って皆さんに伝えてるかたが、不貞ものだとしたら、どう思われますか?
についての質問ですが、具体的に誰のことかはわかりませんが、仮にそう言う人がいらっしゃたら、、、と言うことでお答えしますが、「別にいいんじゃないですか」が私の答えです。
もちろん「不貞」がいいとも思ってませんし、悟りを伝えてようがいまいが、不貞は民法上法律違反ですので、訴えられたら相応の処遇を受けるべきとは思います。
ただ、不貞と悟りを結びつけることが自体が私にはわかりません。
悟りとか言って皆さんに伝えてるかたが、大麻を吸ったら、どう思われますか?
悟りとか言って皆さんに伝えてるかたが、信号無視したら、どう思われますか?
悟りとか言って皆さんに伝えてるかたが、遅刻したら、どう思われますか?
悟りとか言って皆さんに伝えてるかたが、自慰をしたら、どう思われますか?(カトリックでは罰せられる、表向き)
それらと同じことと思います。
先日、士業をされている知人とちょっとした言い合いになりました。飲みの席で私がその方の専門の話にきちんと耳を傾けなかったことが発端でした。そして最後は精神世界の本やブログを書く人間ならもっと器が大きいはずだと、最後は人格否定されました。
これが一般の人のイメージなんでしょうね。悟りの話をする人は、遅刻はしても不貞はしない。悟り等についての個人的なイメージを投影してしまうだけ。
不貞は道徳的にいいとは思いませんが、ならば、遅刻もよくないです。私にはその違いがわかりませんが、それが「価値観」なんでしょうね。
ところで「宇宙の真理」とは?「悟り」とは?そしてインチキとは?その辺の言葉の定義がよくわからないので、結局何を言ってるのかわからないのです。
いろんな人がいていいじゃないですか。もちろん法治国家なので、法に触れたらその範囲で罰せられるだけ。それで良し悪しを言うならわかりますが、「○○な人は、●●であるはずだ」って個人の価値観を押し付けられても堂々巡りですからね。
つまり個人の価値観に基づく「程度問題」ってことですね。
どうやら「悟り」とか「宇宙の真理」とかって言葉に強いこだわりがあるようですね。
立派なこと言う人が立派なことして、立派な人格とも限りません。松下幸之助や稲盛和男なんて、偉くなってからは「感謝」や「利他」と言ってますが、成長過程では戦略的にライバルつぶしまくって、何人も首括らせて鬼畜同然。そのことは言いませんけどね。
めちゃくちゃこだわってますね。もういいじゃないですか。悟りとか。
って言うか、こんなところでわめきちらさずに、ご本人に言ったらいいじゃないですか。その方が建設的ですよ。
了解しました。

























