続・天才の本質 2009.2.24

昨日の「天才」の話でモーツァルトや松本人志などの話をしましたが、あれからずっとモーツァルトを聴いていました。やっぱり凄いな~と思います。同時期の有名な作曲家にヨーゼフ・ハイドンとかその兄弟とかがいるのですが、やっぱり比べ物にならない、と言っては失礼でしょうか。もちろんハイドンも偉大です。あの当時は活躍していても、今ではまったく無名の作曲家もたくさんいるのですから。ある意味、ハイドンも「天才」の範疇に入るのかもしれません。なんせ「交響曲の父」と言われて、交響曲だけで100曲以上も作品があるわけですから。それ以外にも室内楽からオペラまで、大量に残っています。ある意味、モーツァルトと同じかそれ以上に作品を残しているのかもしれません。その意味で、昨日書いた「天才の条件」である「大量」がハイドンにもあてはまるわけです。


ハイドンにしても、確かにモーツァルトやベートーベンに比べると、ちょっとマイナーな作曲家として見られますが、音楽の教科書には必ず出てきますし、歴史に名を残す偉大な音楽家であることは間違いありません。その意味で、モーツァルトと比べるからアカンのであって、ハイドン自身も立派な「天才」だと言えるのでしょう。少なくとも坂本龍一とか久石譲などよりは、はるかに天才でしょう。


と言うことを認めながらも、やっぱりモーツァルトを聴いてしまうと、どうしてもハイドンは物足りないし、日常的に聴きたいとは思わないのです。もちろん聴く曲もあります。弦楽四重奏曲「皇帝」とかチェロ協奏曲とか、すごい傑作だと思うのです。であったとしても、やっぱり私が聴くのはモーツァルトに偏ってしまうのが事実。そう言えば小林秀雄が「モオツアルト」の中で、何か言ってたな、、、と思いだしたので、ちょっと読み返してみました。すると面白い記述が。


「モーツァルトの音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。ひとたびこの内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモーツァルトを離れられぬ。」

 
小林秀雄の「モオツアルト」は高校時代に初めて読んだのですが、当然、意味がわかりませんでした。そもそもあの当時は「本(活字)」をほとんど読んだことがなかったわけですし。私が読書に目覚めたのは浪人して、ある予備校講師に出会ったのがきっかけですが、それはさておき。この一節は、私がモーツァルトに感じているそのものを「言葉」でそのまま表現されていることに、今、気づきました。


昨日も紹介したNLP創設者の一人であるロバート・ディルツ博士の「天才達のNLP戦略」の中に、モーツァルトの作曲プロセスとして、このようなことが書かれています(要約します)。カギカッコ内はモーツァルトの手紙からです。


続・天才の本質 2009.2.24_b0002156_1357639.jpg1.外的状況:旅や散歩などによる外的刺激を受ける
  「馬車に乗っての旅や美味しい食事の後」

2.行動:アイデアが生み出される
  「『アイデア』が導かれてくる」

3.能力:感覚を記憶にとどめておき、ハミングなどによって出力する
  「上機嫌」「喜びを、僕は記憶にとどめておく」

4.信念・価値観:作曲のルールの上で、様々な「感覚」を重ね合わせて「一皿」にまとめる
  「対位法のルールを破ることなく、様々な楽器の特徴を活かす」「一皿のごちそうを作る」

5.アイデンティティ:芸術作品(絵画や彫刻のような)として完成する
  「名画の美しい彫刻のように」完全で完成されたもの

6.スピリチュアル:作品が独り歩きし始め拡大していく
  「このすべてが僕の魂を燃え上がらせる」「僕の主題は拡大する」

 
これは言うまでもなく(NLPを知っている人にとっては)、ディルツ博士が考案した「ニューロ・ロジカル・レベル」に依拠しています。そしてモーツァルトの作曲戦略をこのように分析しているのです。ここでディルツ博士は面白いことを述べています。ちょっと引用します。


かつて私は、モーツァルトの父レオポルドが作曲した「レクイエム」の演奏を聴いたことがあります。(中略)ところが、その曲には、息子の「レクイエム」の特徴である、個性、複雑さ、豊かさがまったく感じられませんでした。感じられたのは、技術的な華やかさだけです。そういう意味では、「名画」というよりも「精巧な時計」と言う表現がぴったりだと言えるでしょう。(中略)モーツァルトの創造戦略は、「分析や批判による技術プロセス」というよりはむしろ、「恋に落ちた者が経験するプロセス」に似ていると言えるでしょう。


まさしくこれです。ロジカル・レベル的に解釈すると、レオポルド(つまり凡庸な作曲家)においては「環境→能力」までの戦略プロセスに留まっているものが、モーツァルト(つまり天才的な作曲家)においては「環境→能力」から「信念・価値観→アイデンティティ」を経て「スピリチュアル」のレベルにまで到達しているのです。ディルツ博士は本書の中でモーツァルトのスピリチュアル・レベルの感覚を「Ki(体感覚・内側)」と明記しています。まさに「恋に落ちた者が経験するプロセス」です。


そしてこれと先ほどの小林秀雄の「モオツアルト」の一節を対比させてみると、同じことを言っていることがわかります。

「ひとたびこの内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモーツァルトを離れられぬ」

まさしく「内的な感覚」があり、「魂のゆらぐの」がモーツァルトの音楽にはあるのです。ディルツ博士が小林秀雄の「モオツアルト」を読んでいるとは思えないのですが(もしかしたら読んでるかも)、まさに小林秀雄とディルツ博士はモーツァルトの音楽に対して、同じようなとらえ方をしていたことがわかります。


つまりハイドンには失礼だけれども、ハイドンとモーツァルトの違いもまた、この「スピリチュアル」レベルにおける音楽的響きにあるのでしょう。確かにハイドンは「古典派形式」を完成させた人であり、交響曲や弦楽四重奏曲の基礎を作った人です。その意味ではやはり偉大な音楽家であることには間違いないのですが、モーツァルトはその上で、まさに「魂」もっと言えば「宇宙」に広がる音楽を生み出していたことになります。


そして「天才」とそうでない人の差はどこにあるのか。その鍵となるのがまさに「スピリチュアル」なんだと思います。ディルツ博士の言葉で言えば、「スピリチュアル」を定義づけるのは「For what、For whom」、つまり「何のため、誰のため」があるかということになります。ここであえて極論を言えば、「天才」とそうでない人の差もここにありると言えます。つまり「天才」は常に「何のため、誰のため」を意識的・無意識的に思考して、目の前の対象に取り組んでいる、と。


モーツァルトは当時、異端児であったと言われています。例えば貴族階級を揶揄するものとして禁止されていた「フィガロの結婚」をオペラ化したり、庶民のためのドイツオペラ(ジングシュピール)の作曲に積極的に取り組んでいたり、など。つまりは、よく言われる通り、モーツァルトの音楽はそのまま「(市民)革命」であったのです。彼が「革命」のために作品を作っていたかどうかはわかりません。しかし明確に「革命」と意識せずとも、彼の問題意識は常にそこにあったと考えられます。


もしかしたらモーツァルトの「天才性」はそこにあるのかもしれません。彼は決して職業音楽として作品を作っていたのではありません。音楽は貴族のためのものではなく、人間のためのもの。モーツァルトの問題意識もそこにありました。つまりモーツァルトの時代の多くの音楽家(ハイドン、サリエリ、レオポルドなど)が、貴族のお抱え音楽家であったのに対し、モーツァルトは生活に困りながらも、晩年までフリーランスとして音楽を生み出し続けていました。K620の「魔笛」は庶民のため、K622の「クラリネット協奏曲」は親友シュタッドラーのため、そしてK626の「レクイエム」は死にゆく自らのため。さらに言えば、彼の音楽はまさしく「全人類」のためにあったのでしょうし、今、現にそうなっています。


それから、「天才」という言葉が適切でなければ、私がいつも問題にしているのが「上手レベル」と「感動レベル」の差とも言えます。例えば「歌手」であれば「上手レベル」の歌手は世の中にいくらでもいます。しかし「感動レベル」はそんなにはいません。歌を聴いて感心することはあっても、感動して涙を流させる歌手に出会うは稀です。その違いは何のか。


以前、ある幼稚園で吹奏楽の演奏をしたとき、演奏後、幼稚園生が「演奏してくださるお兄さんお姉さんのためにお歌のプレゼントをします」と言って「トトロ」を歌ってくれました。それを聞いた我が楽団の人たちは感動して泣いていました。コンクールで毎年金賞を取る高校生楽団の演奏には感動しないけど、幼稚園生の懸命な歌には感動する。この違いはまさしく「何のため、誰のため」です。コンクールは「金賞のため」であるのに対し、幼稚園生の歌は「この人のために」があるのです。だから泣けるのです。作品が本当に輝きをもつためには、自分の生活や名誉を超えた、まさに「拡大」した「何かのため」が必要なのです。


昨日の日記でモーツァルトの交響曲第41番ハ長調の第四楽章のコーダに「宇宙」を見たことがあると言う話をしましたが、その時のモーツァルトはまさしく「宇宙のため」へと向いていたのではないかと思われます。何をするにも技術を磨くことや経験は大切です。しかし自分のやっていることが本当に「天才」レベルの「本物」になるためには、ディルツ博士の言う「スピリチュアル」のレベルにいかにして到達するかが重要だと考えられます。言い換えると「天命」につながること。私が書いたe-BOOK「宇宙となかよし」の本当に伝えたいメッセージもここにあります。マジの話。そうなんです、このe-BOOKにしても私のセミナーにしても、実はめちゃ深いことを扱っているのです、、、実は。


ま、それはともかくとして、モーツァルトとハイドンの違い、また、松本人志と島田紳助の違いもここにあるのです。松本はもはや金や名誉のためにテレビに出ているのではありません。どっちも腐るほど持っています。彼ほど純粋に「笑いのため(さらに言えば、人を笑わすため)」に仕事している人はいないかもしれません。紳助もめちゃくちゃ面白いのですが、彼自身が認めるように、松本には「笑い」に関して適いません。そして紳助は財テクやビジネスに走ります。


その意味で、松本人志こそが本当の「浪速のモーツァルト」なのかもしれません。確かに映画「アマデウス」でモーツァルトはバカ笑いしていますし、松本もいつもバカ笑いしています。真剣に松本がモーツァルトに見えてきました。「世界の黒沢」「世界の三船」「世界の北野(たけし)」を継ぐのは、やはり「世界の松本」しかいないように思います。松本にはもっともっとめちゃくちゃやって欲しいと思っています。こうやっている私はモーツァルトと「松本人志の放送室」を聴きながらこれ書いています。天才に囲まれながら生活できるなんて良い時代になったものです。今日も何気に深い話しちゃいましたね。ありがとうございました。


Commented by Qさんも天才ですねヾ(´∇`) at 2009-02-25 23:55 x
>>昨日書いた「天才の条件」である「大量」がハイドン

Qさんのブログ記事も大量すぎますよ’(^^(笑)
こりゃ~天才ですね。。。(ノ≧▽≦)ノ(笑)
Commented by katamich at 2009-03-05 11:26
■Qさんも天才ですねヾ(´∇`) さん!
ありがとうございます。
Commented by しょな at 2017-12-16 12:30 x
最近ハイドンをよく聴くのですが、ハイドンはモーツァルトに全く引けを取らない天才だと思います。

両者では天才性のベクトルが違うのだと思います。

楽曲のハズレのなさ、器用さという点では、モーツァルトよりも優れている思います。80点〜100点の曲を作る能力がずば抜けているというか…(モーツァルトもハズレは少ない方だと思いますが)
対してモーツァルトは、時々人並み外れたメロディセンスを発揮して、200点の並外れた名曲を作ります。そしてあの癖になる独特のモーツァルト節。ああいった点ではハイドンを超えているんじゃないかと思いました。

by katamich | 2009-02-24 13:38 | ■人生哲学 | Comments(3)