天才の本質(長文) 2009.2.23
2009年 02月 23日
てなわけで、今、特に福岡でのNLPセミナーの準備のため、NLPの本を読みあさったり、一人ブレストしたりしています。やっぱり何かの目的があって取り組むと吸収性もいいですね。いろんな気づきがあります。また、それと同時にオフィシャルサイトの方もどんどん構築を進めています。さらには日曜日から新たにブログを立ち上げています。「『宇宙となかよし』の裏側」というブログですが、なんてことなくて、2005年からミクシィ限定でつけていた日記を、ちょっとずつ公開していくだけです。限定としているだけに、かなり本音を吐いている部分もあり、正直、公開には躊躇してしまうのですが、そろそろいいかな、ということもあり。正直、川○喜○郎とは斉○先生の記事とか、かなり際どかったりするのですが、これもまあ、いいです。いつになるかわかりませんが、昔のから順番に出していきますので。そして、最後まで公開が済んだら、ミクシィ日記と同じ扱いにしていこうと思っています。アメブロって、やってみるとわかるのですが、かなり使いやすいし機能も豊富。携帯からちょこちょこ更新するのにも適しています。なぜこんなことを始めたかと言うと、アウトプットと情報開示です。何の意味があるのかわかりませんが、単にやろうかな、と思っただけのこと。
ところで今日も本読んだり、テレビ見てたりして、いろいろ気づくことがありました。本ってのは、例によってNLP関係なのですが、最近、買う量も増えていますし、持っているのを再度読み直したりして、周囲にはNLP本が積み重なっています。ただ、一冊を最初から最後まで読むことはあまりなく、一つのテーマについて、一気に何冊かに目を通すやり方をしています。例えば「ニューロ・ロジカル・レベル」だったら、その項目に関する部分を手持ちの本すべてに目を通します。当然、内容自体は同じなんですが、表現の仕方とか、見る角度とかが違うと、それだけ気づきや学びも多いのです。
その中で武井一喜さんの「NLPでリーダー脳力をグングン高める法」を読んでいたら、なるほどと思わせる記述がありました。ちなみにこの本は日本人が書いたNLP本としてはおススメです。入門者向けに書かれた感じはありますが、かなり深いところまで言及してあります。で、その興味深い記述を引用しまと、
「天才や達人といわれる人たちに共通する特徴として、この、異なる神経システム間の連動性の高さが挙げられます」
ってとこです。これはロバート・ディルツ博士の著書「天才たちのNLP戦略」にも詳しく書かれているので、確かにその通りだとは思います。そしてその代表格がモーツァルトだと言っています。
これ、どういうことかちょっと説明しますと、この「神経システム間」ってのは、「視覚(V)」「聴覚(A)」「体感覚(K)」に代表される、いわゆる「感覚」を分類化したものを言います。それらの「連動性高さ」と言うのは、まさしくその3つ(ないし5つ)を相互に重ね合わすことの才に長けていることを言います。モーツァルトの例で言えば、旅先で見た風景(V)、味わった料理(K)や、肌を重ねた感触(K)が、音楽(A)となって現れたり、また、聴こえてきた音楽(A)が逆に絵画や彫刻のイメージ(V)を通して楽譜に書きおろしたり、などと言うことがあったようです。つまりモーツァルトの頭の中には、楽曲の全体像が視覚、聴覚、体感覚を伴ってすでに出来上がっており、あとはそのまま楽譜に書きおろせばいい、というプロセスを取っていきます。この「神経システム間の連動性」のことを「共感覚」と言ったりするのですが、実はこの「共感覚」については、モーツァルトのみならず、音楽やその他の芸術家のほとんどが持ち合わせていたと考えられます。もちろん普通の人にも多かれ少なかれ「共感覚」はあるのですが、その程度としては、優れた芸術家になるほた高いと言うことができます。その点、モーツァルトはその「共感覚」が突出していたと言えるのでしょう。苫米地英人さんの本にも天才の条件として、この「共感覚」の高さが述べられています。
確かに料理人についても、体感覚(特に味覚と嗅覚)だけでなく、見た目(V)や料理から出る音(A)など、すべての感覚に訴えるようでなければ一流とは言えませんから。ですので、ロバート・ディルツ博士も言っているのですが、「能力・脳力」を高めるためには、この「天才」のモデリングとして「共感覚」を高めるトレーニングをすればいいのでしょう。具体的に言えば、美味しい料理を食べたとき、どんな景色が見えるか、どんな音楽が聞こえるか、また、素晴らしい音楽を聴いたときに、どんな風景が見えるか、それはどんな味がするか、など感覚を分散させて研ぎ澄ませていく習慣をつけるということです。
ちなみに、私が高校生の時、モーツァルトにはまっていて、夜寝る前は必ず一曲はウォークマンでモーツァルトを聴いて寝ていました。当時は寮生活をしていたので、布団に入って大人しく聴いているのですが、その時、暗に「風景」を楽しみながら聴いていたのです。例えば交響曲第35番ニ長調「ハフナー」の第二楽章を聴いている時、いつも見えていた風景がヨーロッパの田園風景でした。そこに馬がゆっくりと歩いている風景がいつも見ていました。また、一番驚いたのが交響曲第41番ハ長調「ジュピター」の第四楽章のコーダに入ってから。これは完全にイッテしまいました。
やや詳し目に解説すると、この交響曲の4楽章はまず「ドーレーファーミー(1)」というシンプルな旋律からスタートするのですが、その直後にあと3つの主題が登場します。楽譜がないのでカタカナで書きますと「ミッミミーレドシドシラソラソファミ(2)」、「ドレミファッソラー(3)」、「レーシーミーレドシドシラソファー(4)」です。細かくはあと2つほどありますが。聞いてもらえばわかるとおり、この楽章はこの4つの主題が交互に入れ替わったり、重なったりしながら展開していきます。専門的には対位法を駆使したとか言われていますが、問題はコーダから。最後の最後のところですが、高校時代、布団の中でこれを聴いている時、何と私は「宇宙」に行ってしまったのです。この動画の「7:17~7:42」がそうです。
たぶんこれだけ聴いても、何にもわからないと思いますが、第一楽章から集中して聴いていると、段々とトランスに入っていき、そしてその問題の個所に入ると、うまく行けばぶっ飛びます。ヘミシンクなんか聴いてる場合じゃありません。このコーダの部分はまさしく、4つの主題が複雑に混ざり合って、正直、何が何だかわからなくなります。エルビン・ジョーンズのドラム以上にわけわからんのです。そしてある時思ったのですね。世界って4つで出来てるな、と。東西南北、上下左右、火水土風とか。もしかしたらこのコーダには「宇宙」そのものが表現されているのじゃないか、と高校生ながらに考えたのです。真剣な話。そして今でもその考えは変わりません。誰が何と言おうと。実際、私のあの時、リアルな臨場感を持って「宇宙」に行ったのです。ただ、それ以降は行きそうになることはあっても、あそこまでリアルに行ったことはありませんでした。そして今思うと、4つの主題によって4つの次元を表していたのでは、とも思います。つまり4次元の音楽なんですね、あれは。
何の話だったかな。そう、共感覚の話でしたね。モーツァルトは間違いなく、極度に優れた共感覚の持ち主であったことは確かでしょう。そして今紹介した交響曲第41番は、まさしくモーツァルトが「宇宙」を見て聴いて感じたままを楽譜に書き起こしたのだと思います。苫米地英人さんの本にも書かれている通り、天才ってのは世の中を極めて「抽象的」に見ることができる人。その意味では、視覚、聴覚、体感覚のそれぞれについては、非常に具体的な営みですが、それらを重ね合わせ、言い換えると「止観」したところにモーツァルトが臨場感を感じた抽象的な世界、つまり「宇宙」があったのだと思います。
そんなこと考えながら、テレビを見ていたら、ヘイヘイヘイにダウンタウンが出ていました。モーツァルトが音楽の天才であれば、松本人志は「笑い」の天才です。そして見えたのが、松本人志もまた優れた共感覚の持ち主であるということ。以前も書いたと思いますが、松本は一つの代表システム(視覚、聴覚、体感覚)への偏りがありません。それに比べて、島田紳助は視覚系が極めて強いです。紳助のしゃべりの大元には、彼が見ている画像があります。それは紳助自身が「紳竜の研究」でも語っているところ。紳助は些細なことでも、面白おかしく、視聴者に「画像」を見せてくれます。
例えば手元にある「松本紳助」の単行本を見ていると、「誰もが引くセックスの理想形」という話が紹介されてありました。紳助の理想は歳とって車いすに乗りながら、グレートバリアリーフで若い女の子の裸を杖でつつくなんてことを言い、リアルにその「画像」をトークによって見せてくれます。そして松本については、杖でつつくなどの理想はなく、フェチの人が好む「鼻フック」を奥で使うのがいい、などと言いだします。それに対して、紳助は松本のことを「おかしい(変だ)」と言いながら、「100人おったら俺のグレートバリアリーフ会には集まってきよるけど、お前(松本)の会には2~3人が鼻フックもって『集合場所、どこ?』なんて言うだけや」、みたいな話をして、笑いを取ります。架空の話なのに、紳助のトークはことごとく「画像」が出てきます。他にも笑ったのが、昔、11PM見てて、もうちょっとや~と思って出た瞬間、画面が変わって大橋巨泉に顔面シャワーなんて話をするのですが、これなどもおそらく紳助のネタなのに、その「画像」が見えてきて笑ってしまうのです。
一方の松本はどうかと言うと、もちろん紳助のようにトークで「画像」を見せるスキルも持っているのですが、彼の面白さは「ちょっと変な感じ」にあります。その変な感じはどこから来るかと言うと、まさに松本人志の「共感覚」からくるのです。ウィキペディアによると、今でこそ誰もが使っている「ブルーになる」、「寒い・サブい」、「スベる」、「絡む」などの言葉は、もともとは松本が使い始めた言葉のようです。他にも「ヘコむ」、「逆ギレ」、「ノリ」など。その意味では、松本の言葉ってのは、めちゃくちゃ世間に乗りやすいことがわかりますが、おそらく最初はちょっとした違和感があり、そこに笑いがあったのだと思います。
で、「共感覚」の話ですが、松本の言葉はまさしく「共感覚」から来ているものが多いです。例えば「ブルーになる」は、確かに英語のブルーに「憂鬱」という意味はありますが、日本人がその意味で使うようになったのは、そんなに昔のことではないと思います。松本の中では「憂鬱な気分(K)」が「ブルー(V)」に見えてて、それを言葉(A)によって表わしたのです。また、場が白けた時など「寒い」と言いますが、笑いと言うのは、主に見た目(V)や話(A)で表現するものを、それが失敗した時に、彼の中ではリアルに寒々とした感覚(K)が呼び起こされたのでしょう。「スベる」も同様で、ギャグ(V・A)が失敗した際、彼の中ではまさしくバナナの皮で滑ったかの様な画像(V)が見え、彼自身も滑った時の感触(K)が蘇っていたのだと考えられます。「絡む」についても同様、いわゆるトークのやり取り(A)が、彼の中ではセックスの絡み(K)のように感じられたのだと思います。つまり彼にとって、トークがうまく行くこととセックスが気持ちいこととは、同じレベルのことなんでしょう。それらを言葉で表現したのが、これらの「松本ボキャブラリー」であり、彼の適格な言葉によって、知らずにうちに誰もが使うようになっていたのです。
この共感覚ってのは、コミュニケーションや営業などでも使うことができ、私の知り合いのクラリネット奏者などは、「カール・ライスターのカスタードのような甘く滑らかな音」という文章を読んだだけで、ライスターが使っているドイツ管のクラリネットを求めたのです。女性に洋服を売る際も、「ティラミスのような色」とか、ビジュアルを味覚で表現すると売れやすいなんてことがあります。つまりは、この「共感覚」ってのは、ある意味、非常に万人受けしやすい感覚だとも言えます。だからこそモーツァルトの音楽が200年以上たった今でも聴き続けられるのでしょう。
と言うわけで、「天才」の条件として、まさしくディルツ博士が言うような「共感覚」があげられるのでしょうが、加えて言うなら、もっと重要な条件があると思っています。それは何かと言うと、天才はとにかく一つのことをずっと取り組んでいられる才能がある、ということ。脳科学者の茂木健一郎さんがテレビで言っていたことが印象に残っています。モーツァルトは生まれ付き才能があったとか、教育環境がよかったとか言われますが、モーツァルトの本当の凄さは、作曲という一つのことを死ぬまでやり続けたこと、それも死ぬ間際まで。ロッシーニが途中でリタイヤ生活に入ったのとは反対に。実際、モーツァルトの手は楽譜の書き過ぎで変形していたと言うし、当然、脳内にも尋常じゃない変化(変形)があったと思います。彼自身の手紙にも「ボクほど音楽のことを考え続けている人間はいない」と書いています。
実際、あまり言われることはありませんが、モーツァルトの作品は確かに素晴らしいのですが、傑作の陰には大量の駄作が存在していました。モーツァルトは生涯のうち、1000曲近い曲、即興曲を含めるとその何倍もあったと思いますが、実際、よく聞かれるのはその半分もありません。誰もが知ってる有名な曲になると3曲くらいでしょう(アイネクライネ、トルコ行進曲、交響曲40番など)。細かい話をすれば、晩年の作品で、K620が「魔的」、K621が「皇帝ティトの慈悲」、K622がクラリネット協奏曲、そして最後のレクイエムがK626。これらはどれもが傑作なんですが、じゃあK623~K625は何かと言うと、ほとんど聞かれることのないカンカータなどがある程度。傑作の間に挟まれながらも、実はそれが現実なのです。ピカソも同様。彼は生涯で17万点近い作品を残しており、ギネスにも載っています。松本人志はどうか。実は彼も同様。紳助が紳竜解散後、笑いから離れ、財テクやビジネスにも力を入れたのと反して、松本はストイックなまでに「笑い」にこだわっています。松本の名言として「自分の耳が一番、笑いを聞いた耳でありたい」と言っていますが、これは本心だと思います。
松本と「放送室」というラジオ番組をやっている高須光聖によると、こんな話があったそうです。ある年末、松本と車に乗っている時、渋滞で進まず高須はイライラしていたそうです。ですが、これは工事渋滞で、歳取ったおじいさんくらいの男性が、冷たい雨に打たれながら土方作業をしているのを見て、高須はイライラした自分に反省したそうです。しかし、松本はいきなり笑い始めます。高須が「何がおかしい?」と聞くと、松本はこう答えました。「この工事がサークル活動やったら面白いな、と思って」、と。失礼な話ではありますが、年末の寒い時期に、いい年した人が、雨に打たれながらサークル活動をやっていると想像したら、確かに笑えてきます。それが本当ならば。しかし、これはもちろん松本の想像力です。しかしその想像力は常に「笑い」に向いているのです。つまり、松本の頭の中は、それほどまでに「笑い」を追及しているのです。時として、誤解を生むこともあるでしょう。しかし、松本自身は人を傷つけるとかそんな意図は微塵もなく、純粋すぎるほどに「笑い」のことを考えているのです。
それが松本ほどの笑いの「天才」と、凡人タレントとの違いでしょう。モーツァルトも同様。ピカソも同様。「天才」と呼ばれるには、それだけの「継続」、「集中」、そして「大量」があるのです。それらが備わって初めて「天才の脳」が作られるのだと思います。もしも「天才」をモデリングするのであれば、実はその根本が今言った「継続」「集中」「大量」であり、そうなるための基本OSを作り出すのも、NLPの仕事であると考えています。長い文章を読んで頂き、ありがとうございました。
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