風俗に行くお坊さん 2009.1.23
2009年 01月 23日
1月26日(月)18:10~19:00 NHK福岡総合 「ニュースなっとく福岡」
の枠内の3~5分程度でしょうか。ニュースの中のシリーズ特集に挟まれる形で登場します。おそらく私も名前とともに紹介されると思います。そのような連絡が本日ありました。あいにく全国放送ではないのですが、私にとっては何かの胎動を感じさせるトピックだと感じています。
今回、取り上げられるのは「滝行」です。それも「21日行」の間のこと。初めて滝行をしたのは2004年8月。今年で5年目になります。この5年の間に本当にいろんなことがありました。新しい出会いもあれば、縁がなくなった人もいます。そう言えば、今日、何か象徴的な夢を見てしまいました。それは何かと言うと、クラリネットが割れてそこから一本の「木」に変身するという変な夢。とても寂しい話ではありますが、私にとっての音楽、クラリネットは「私」にとって必ずしも必要なものではない、ということなのでしょうか。昔はあれほど好きだったのに、なぜか今では興味が湧かないのです。演奏したいとも思わないのです。もちろん時々はジャズのライブを聴きに行きたくはなります。それでも会社員時代は週に2~3回行ってたのに比べると、今は年に何度も行かないくらいに減っています。
何が言いたいのかと言うと、自分にとって本当に必要なものとそうでないものが、近頃、明確になってきたということ。その意味では「滝行」は私にとって必要だから5年もやっているのでしょう。実際、この5年間、いろんな人が滝行にやってきましたが、続いているのは10人に一人もいません。そもそも滝行などは誰もが続けるものではないのでしょう。それでも私は続けている。なぜか。それは私にとって「必要」だから。今回のNHKの取材はそれをある意味「象徴」しているように思います。
人はどういう時に一番「輝く」のか。それはまぎれもなく「自分らしさ」に目覚めたとき。別の言葉で言えば「天命」に目覚めたとき。人は自分らしいことをやっている時が一番輝くのです。振り返ってみれば、私は学生時代、ジャズの練習に明け暮れていた日々がありました。しかし、どんなに練習しても満足にできません。それどころか練習すればするほど、自分の下手さを思い知るのです。今だから言うけども、当時はちょっと苦しかったです。しかし、今、滝行をするのは、その時は冷たくて苦しい思いもするのですが、やっている自分に対しては、とても満足感を得てしまいます。
そしてNHKのインタビューからも気づいたのですが、もしも5年前、滝行に出会ってなかったら今の私はない、と思っています。私のアイデンティティを形成する上で滝行は必要不可欠だったのです。そして今、めちゃくちゃはまっているDVD「紳竜の研究」の話になるのですが、これは本当にいろんな示唆を与えるDVDです。しばらくこの話が続きそうですが、その中で言われていることの一つに「XとYの公式」ってのがあります。これはそのまま「売れる公式」でもあります。
ここで言うXとは「自分らしさ」である自分のリソースやポテンシャルのこと。Yは時代の流れ。「売れる」という状況はまさしくXとYが交わった時に起こるもの。当たり前の話のようですが、実はこの当たり前の話をほとんどの人ができていないのが現状。まずXが何かを分かってない、もちろんYも分かっていない。紳助が言うには、XとYをきちんと認識してから初めて悩みが生じるものであるにも関わらず、ほとんどの人はXもYもわからない、わかろうとしない状態で「どうやったら売れるのか」と悩んでいると。
これはお笑いの世界だけでなく、ビジネス、そしてそのベースとなる「パーソナル・ブランド」で売っていくために必要な考え方だと思っています。まずはXとYを自分中で定式化する。特に最初はXだと思っています。つまり自分は何者か、ということ。私の例で言えば、私が滝行を開始したのは2005年8月。その頃にはすでにブログを書いていました。そしてどんどんアクセスが上がっていきました。それは今でもそうです。ここで、ちょっと謝らなければならないことがあります。ブログは書き続けていれば勝手にアクセスが上がるということを、昔、言っていたように思います。これは「私」という限定された範囲のことであり、実は「書き続けていればアクセスが上がる」には必ずしも普遍性はないと思っています。なぜ、人は特定の人のブログを読むのか。それには理由があります。単純に「長く続いているから」では決してありません。もちろん書き続けることは、人から読まれる一つの条件だとは思います。しかし、書き続けるだけでは不十分なのです。
人はどんなブログを読むのか。いろんな条件があるのでしょうが、その一つに「おかしさ」があると思っています。つまり違和感やギャップのこと。紳助は漫才を始める時、この点に着目していました。それまでの漫才はスーツとネクタイでいわゆる「漫談」をするスタイル。紳助はそこに「リーゼント」という要素を組み込みました。つまり不良というキャラ。しかし単なる不良では面白味がありません。ここで紳助は「弱い不良」という設定を組み込んだのです。一般的に不良は人に驚異を与えます。怖い存在です。それだけでは笑えないのですが、もしその不良が弱かったら笑いになるのです。そして紳助は漫才の中でそれを見事に演じ切りました。
では私の場合はどうか。なぜ2005年に始めたブログが瞬く間にアクセスを上げ、今では一日千人以上の人がアクセスしているのか。確かにブロガーという範囲では、一日千は決して多くはありません。それでも一日に千以上のアクセスのあるブログは、ブログ全体の母体から比べると、やっぱりごく少数なんだと思います。話を戻しますと、なぜ、2005年のブログがアクセスを伸ばしたのか。しかもその時は「宇宙となかよし」ではなく、「日常的雑文」という何の変哲もないタイトルでした。私はここに紳助流の「弱い不良」に通じるエッセンスがあると分析します。つまり私の場合は「滝行するサラリーマン」だったのです。もしこれが「風俗に行くサラリーマン」だったら何の面白味もありません。「滝行するお坊さん」でも面白味はありません。しかし、それぞれの要素を入れ替えると、そこに「興味」が発生します。「滝行するサラリーマン」と「風俗に行くお坊さん」、、、これだけで、人は「なんやそれ?」と思ってしまうのです。
もしも本当に現職のお坊さんが「風俗レポブログ」なんての毎日のように書いていれば、間違いなくアクセスは上がるでしょう。そこまでのインパクトはないにしても、普通のサラリーマンが毎週滝行に行き、しかも時には肉や酒やHを禁欲しながら真冬の滝に毎朝打たれに行っている、、、なんてのは「変」以外の何ものでもありません。もっとも私自身、もともと変な奴だと言われていたので、私の中では違和感はないのですが、私のことを知らない人にとっては、やっぱり「変」だったと思います。ですが、今はサラリーマンではありませんし、どちらかというとお坊さんみたいな風貌があったりするので、その辺の「変」さは薄れているかもしれません。しかし、その一方で「カナダのストリップで白人の女の子の胸をもむ」なんて話をすれば、そこに「変」が加わるわけです。
「紳竜の研究」の中で「心の記憶」という話があります。心で記憶したことは一生忘れない、それが「芸」を作るとのだと言う話。では、どうすれば「心の記憶」を増やすことができるのか。紳助は言います。「遊ばなアカン。それは飲みに行くのでも風俗に行くのでもない。いろんなとこでウロウロするんや。変なことするんや」、と。まさしくそうだと思います。つまり紳助は意図せずともその「変」を身に着けており、それを「芸」に昇華することができたからこそ、売れたんだとも言えます。
てなわけで、私にとって「滝行」は、ある意味、私の「変」なところを象徴する習慣であり、私の持ち味の一つだったとも言えるのです。それをNHKの取材と言う形が象徴していた。そんな風に思いました。ただ、ここで子を付けなければならないのは、では、単純に変なことをすればいいのか、というとそうではありません。極端な話、自分もサラリーマンだからQさんみたいに滝行してみよう、なんてのは正しくはないです。あくまでその人らしさの範囲において「変」であることが必要なのです。これは一見矛盾する言葉のように聞こえるかも知れません。本来、その人らしいのであれば、それは「変」とは言わないのですから。しかしこの「矛盾」の中に、その人の中の真の自分を引き出す「種」が潜んでいると私は思うのです。今日はこの辺で。ありがとうございました。
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淡々と滝に入る。ただ入る。これが人生。念の強さと滝の苦しさは比例するような気がする。