オリンピックの話してたのに・・・ 2008.8.20

今日は初めてオリンピックを生中継で見ました。私ってスポーツ系が驚くほど興味ない人なんですよね。あるとすればボクシングくらい。てな話、だいぶ前に書いたことあるな~と思いだしてみると、前回のアテネオリンピックでもそんなこと言ってたような。で、よくよく考えると、アテネオリンピックの時って私がちょうどブログ初めたあたりなんですよね。つまり私のブログ人生はオリンピックの年に始まったわけで、ある意味、今年でワンクール過ぎたと考えていいわけです。そうなのか。もうそんなのか。まだ4年とも、もう4年とも思えますね。今やブログは私にとって完全に生活の一部であり、私自身の一部でもありますから。


で、今回初めて見た競技ってのが、女子シンクロと女子ソフトボールと男子200メートル走。女子シンクロはどうやら因縁の対決みたいだったようですね。日本人のコーチが中国に行ったりして。それと女子ソフトボールはたまたま見たところが延長に入って接戦だったから。最後は日本がサヨナラヒットで勝利。スポーツに関しては、必ずしも日本を応援しているわけではないのですが、純粋に嬉しかったです。余計なお世話かもしれませんが、ソフトボールって、、、萌えないスポーツですよね。なんだかみんな少年野球児かおばさんソフトチームのように見えてしまいます。金ちゃん球団の女の子は可愛いと思いますが、ソフトチームにはどうもそう言うアイドル的な選手は探せませんでした。帽子脱ぐと可愛いかもしれませんが。ま、大きなお世話ですね。


そんで男子200メートル走。ツレがわざわざ遅くまで起きてまで見ようとしてたので、どんなのかと思って見てました。そんで金メダルを取ったジャマイカの選手の存在もさっき初めて知りました。100メートルでも世界新記録。陸上競技と言えば、カール・ルイスとベン・ジョンソン(ジョン・ベンソン・・どっちだ?)くらいしか知りませんでしたが、今回のオリンピックで、またヒーローが誕生したようですね。人間ってすごいな~と思います。その昔までは100メートルで10秒切るとか、200メートルで20秒切るとか「身体的に不可能」と言われた時期があったようですが、今では普通に切ってますものね。もちろん「普通」ではありませんが、10秒切った人は世界に何人もいるようです。で、今回は調べたところ「9.69秒」ですか。200メートル走が「19.30秒」。確かに凄いですね。私が100メートル走ると20秒切れるかわかりません。少なくとも今現在の私であれば。200メートル完走できないかもしれません。ま、私みたいなのと比べるのは失礼ですが、人類はちょっとずつ「記録」を伸ばしていく存在なんですね。きっと「身体能力」も進化してるのでしょう。そう考えると、オリンピックも見てて面白いものです。


陳腐な言い方かもしれませんが、やっぱり「限界」ってのは自分で決めている気がします。その点、今回、新記録を出したジャマイカの選手は、その「限界」という考え方が端からなかったのでしょうね。新記録取れて当たり前、みたいな。顔見てて、そんな雰囲気が伝わってきますね。何かの話で聞いたことがあるのですが、金メダルと銀メダルって僅差のように思えますが、実はその奥深い部分ではものすごい違いがあるようですね。そもそも金メダル取る人ってのは、ちょっと「変」なんだそうです。銀メダルはものすごい努力で取れたとしても、金メダルはその上に、その「変」がなければ取れないものだと聞いたことがあります。その「変」とは、愚直なまでの「思い込み」だそうです。ですので、金メダルを取る人は、試合の前日にセックスしてても平気だとか聞きました。ほんとかどうか知りませんが、なんとなくわかるような気はします。


それにしてもいいものですね。八百長のない世界って。相手と対戦するとか、演技を審査してもらうような競技では、オリンピックであっても八尾長があってもおかしくありませんが、100メートル走みたいなのは、どう考えても八尾長で9.69秒は取れませんものね。やっぱり血と汗にじむ努力、それプラスアルファがあって、初めて出せる記録ですもの。気持がいいです。それはそうと、スポーツ選手って私は世界一尊敬できる人たちだと思っています。私には到底入れない世界。ボクシングなんか極端ですよね。毎日、過酷な練習して、殴られて、試合前に断食みたいな真似して。そこまでして得られるものは何か、ですよね。ソフトボールなんかも、趣味でやる分には楽しいでしょうが、オリンピックに出ようものなら、やっぱ生半可ではないでしょう。


・・・すいません。煮え切らん話で。やっぱこの話を書いた方がいいのかな。誤魔化すためにオリンピックの話とかしてましたが、今、書きたい話じゃありません。正直。実は今日、ちょっと考えさせられることがありました。やっぱその話しようと思います。先日から書いている例の「雷事件」の話ですね。現状を言いますと、かなり具合いいです。おかげ様で今日は執筆が進みました。それでもまだ右足が完全に治っていないので、専門医に診てもらいに行きました。どうやら右足のふくらはぎが肉離れのような感じになっていて、筋肉が硬直しているので、ちょっとしたことでつりやすくなっている、とのことでした。一応、その場で処置をしてもらい、家に帰ってしばらくしていたら、一番痛い時を10とすれば、2か3くらいまで軽減されるまで改善しています。おそらく明日か明後日には完全復活できることでしょう。


で、何を言いたいのかと言うと、この「雷事件」のことで、いろんな人からメールを頂きました。その多くは「無事でよかったですね!」というお祝いの内容でしたが、一通、ちょっと気になるものがありました。それは私に対する「心配」のメールでした。これはあるメーリングリストのメールでしたので、私以外にも数名が読んでいることになります。「心配」して下さるのは別に結構なんですが、その「心配」の背景にちょっと不気味なものを感じとってしまったので、そのことに対する返信のメールを送りました。


実は前もこう言うことがありました。とある、ちょっとスピリチュアル系の人が私に対して、公衆の面前でネガティブなリーディングをしてきた時、それを聞いていた数人から「心配しています」というメールを頂いたのです。その「心配」の心はおそらく完全に善意でしょう。しかしそれを受け取った私の心境はどうだと思いますか。非常に不気味な気持ちになります。それが「目に見えない世界」の話であるだけに。幸い私はその辺の処理の仕方を知っていたので、あまりとらわれることはありませんでしたが、正直、気分はよくありませんでした。考えてみるとすぐにわかるでしょう。3人の知り合いから同時期に、何の根拠もなしに「心配しています」というメールなり電話をもらってしまったら。正直、気分はよくないですよね。これは正真正銘に「○○(←字を書くのが嫌なので想像して当てはめてください)」に使えるメソッドでもあります。


昨日のブログで私はクライアントのことを100%信じる、と言う話をしました。信じる、つまり「信頼」です。そして信頼の反対がまさしく「心配」です。相手を心配するということは、相手が「心配される状態である」ことを前提としてなければなりません。すなわち「心配」とは相手に対して「あなたは心配される状態にありますよ」と言うことに等しいのです。事実としてそうであれば、それはそうかもしれません。実際に病気や怪我で寝込んでいる場合とか、失恋して消沈している状態であれば、「心配」することの合理性もあるでしょう。私のケースで言えば、「右足はどうですか?」という心配であれば、「まだちょっと痛いです」とか「大丈夫です」とか答えられます。しかしその辺の「原因」が定かでない上で、「目に見えない世界」から「心配」の原因を持ち出されてしまうと、正直、気分が落ち込んでしまいます。


そう言うこともあるため、実は私はめったなことでは他人に対して「心配」することはありません。何があろうとも「大丈夫」「すべてはうまくいっている」です。無責任に聞こえるかもしれませんが、実はその言葉の方が、相手を元気にする(エンパワメントできる)ことを知っているからです。その「大丈夫」の根拠などもなくていいのです。「あなたは大丈夫な存在なんですよ」と「承認」してあげること、それが一番重要なのです。とりわけ、精神的な状態がよくない人に対しては、最初から「大丈夫よ!」とは言いませんが、最終的にはその人の全人格を「承認」する方向で持っていきます。人は「心配される存在」であるよりも「大丈夫な存在」であることを望むのです。もちろん「心配」よりも低いものはあります。それは「無関心」です。無関心でいられるよりは、心配された方がマシかもしれませんが、最終的には「大丈夫」で終わるよう、相手と接することが重要だと私は考えています。


しかしながら、ただ一つだけ、本当に「心配」してもいいケースがあります。そのケース以外は「心配」など百害あって一利なしですが、たった一つのケースにおいてのみ、「心配」が許される場合があります。それはその相手に対して、無条件の無償の「愛」がある場合です。もちろん「信頼」も含まれてなければなりませんが、仮に自分の身を犠牲にしてでも捧げられる「愛」があって、初めて「心配」が相手のためになるのです。その「愛」は非常に深いものです。普通の人であれば肉親か身内でしか存在しないレベルの「愛」です。例えば私に万一のことがあれば、私の両親なら、何を差し置いても大阪から飛んでくるでしょう。そして先日の話で言えば、万一、私が山から帰ってこなければ、雷雨の中であってもツレは探しに来たでしょう。それだけの深い「愛」があってこそ、「心配」は相手のためになるのです。私は今回の一件で、実は結構、身にしみてしまい、これから山に登る際は、少しでも雨の疑いがある場合は行くのをやめます。そして携帯電話は必ず充電して持っていきます。もちろん暗くならないよう、朝のうちに出かけます。と言うことを深く誓ったのであります。それは他人に対してではありません。自分に対して誓ったのです。もちろん山だけではありません。インドに行く際も、絶対に無謀な行動はとりません。滝に打たれる際も、絶対に無茶はしません。これまではいろいろとストイックなことも考えてはいましたが、そんな無意味なことをして他人に心配かけても、何のメリットもありません。もちろんこれからも山登りはしますし、滝にも打たれます。インドにも行きます。それでも絶対に他人に心配をかけるような行為はやめておこう、と身にしみてしまったのです。真面目な話。


元来、無茶をしがちな私をそこまで思わせたのは、もちろん今回の「雷事件」の恐怖もありますが、ツレとか親からの「心配」であり「愛」があったからこそです。もう一度言いますが、「心配」とは無条件の「愛」があって初めて相手のためになるのです。しかし自分を犠牲にしてまで相手のためを思う「愛」がない、「愛」を持つ自身がないのであれば、決して「心配」などするべきではありません。正直言います。私が真に「心配」できる相手は、やっぱり身内でしかないのです。自分の身を犠牲にしてまで、相手のために尽くせるような「愛」であり「心配」は、正直、私の家族にしか持てません。少なくとも今は。もちろん家族以外にも親身に思う人は何人もいます。しかし、本当の本当に、極端な話、自らの身体の一部を捧げてでも想える相手とは「家族」以外にありません。すいません、それが私の正直な気持ちです。


ですので、私は滅多なことでは「心配」という言葉は使いませんが、もしそれを真剣に使うとすれば、それは「家族」に対してしかないのです。少なくとも隣の住人に対しては使いません。交流もありませんから。だからと言って、何かあった時にほっとくわけではありませんが、今回の話は究極の究極の話です。「心配」と言う言葉を本当に使っていいのは、そこに無条件の「愛」があるときだけ。ましてやメールなんかで、「心配しています」と言われても、そこには本当の「愛」は決して感じられません。ですので、私の今回の「雷事件」に対しては、妙な「心配」などされずに、「アホやな~」とか「無敵ですね(by私の尊敬する人)」とか言われる方がよっぽど嬉しいです。なんだかんだ言って、ブログ書けるくらいの状態ですからね。ま、もし何も言わずにブログが更新されないようなことがあったら、少しは気にしてもらってもいいですが、そうでない限り、しかも毎日毎日、こんな長文を書いている限りにおいて、何が「心配」でしょうか、、、と無責任ながら思ってしまいます。


と言うわけで、今日はちょっとばかし極端な話をしてしまいましたが、私にとっては非常に大事な話なんです。「心配」の恐怖。しかしそこに無償の「愛」がある時だけ、「心配」は相手のためになる。これは私の信念でもあり、同時に私のなりの「ハッピー」の表現なのです。てなわけで、「雷事件」も完全にノープロブレムですので、「心配」などなさらぬように。次はいつ行こうか考えている今日この頃だったりもしますし。こんなところで今日はこの辺で。ではでは。
Commented by deep mountain at 2008-08-21 09:35 x
今日のブログは私にとっては「?」でした。
でも私の「ありがとうございます」という気持ちに変わりはありません。
ありがとうございました。
Commented by katamich at 2008-08-21 14:38
■deepmoutainさん!
どういたしまして!いろいろ考え方があると思って頂ければ幸いです!
by katamich | 2008-08-20 03:05 | ■人生哲学 | Comments(2)