一周年 2005.8.28

 昨日の夜から出発し、年に一回の夜の滝行に行ってきました。10時頃に出発して、北九州の畑観音に向かいます。12時には滝場に到着。

 思えば私が初めて滝に打たれたのが、ちょうど去年の夜の滝行からでした。よくわからずについて行き、それから早一年です。去年のこの日の日記を読むとなんとも懐かしいものです。今でも「分かった」段階にまでは到底及ばないと思いますが、あの日から一年、妙にはまってしまいましたね。21日行も2回やり、その間、会社を辞めたりインドに行ったりなど人生レベルでもものすごく激動の一年であったと思います。5年後、10年後になると本当に想像つかないですが、このまま滝行を続けているのでしょうか、そしてインドの占い師の言うように「本物のお坊さん」になっているのでしょうか。それから私はともかく社会はどうなっているのでしょうか。そんなことも全て「宇宙」からプログラミングされているのでしょうね。とりあえず、あまり先のことは考えずに「今」をひたすら生きることに専念した方がよさそうです。将来を考えるのはどうしても「苦しみ」が付きまといます。それが人間の宿命ですから。今を精一杯「生きる」ことが人生の使命だと思っています。そしてその方が「楽しい」ですよね。

 「生きる」と言えば、先ほど、24時間テレビが終わり、話題になっていた丸山弁護士も無事に100キロマラソンを完走しましたね。ちょっと感動しちゃいました。その24時間テレビのテーマが「生きる」でした。地方のいろいろな人に「生きる」とはどういうことですか、、、とたずねまわっていたのですが、最後に司会者が言っていたのが印象的でした。つまり、「生きる」とは「生かされる」ことであると。自分の意思で生きているわけではなく、そもそも、両親がいたからこそ生きている、そのまた両親、ご先祖様がいたからこそ、生きている。そして今も世界中のいろんな人のお蔭で生きている。食べ物がある、寝床がある、、、そんなこと全て「お蔭様」で生きているのですね。

 そもそも自分で生きようとするのはとても苦しいですよね。それこそ「生きる」ための「想い」が強くなって、それが不満や苦しみになっていきますので。だいたいからして、本来は生かされているだけなのに、「俺は生きているんだ」と力むところに無理が生じるはずです。楽に楽に。所詮、全ての人が平等に「生かされている」に過ぎないのですから、流れに任せてしまった方が楽な生き方だし、「宇宙さん」にも好かれると思うのですよ。苦しければ「所詮、生かされているに過ぎない」と開き直って、感謝してしまえばよいのでしょう。と思ってもなかなかそうは行かないのが、これまた「人間」というものですが(笑)。
 
 ところで、先ほどからモーツァルトの音楽を聴いているのですが、彼って200年前の人間で、しかも35年間しか生きていないのですよね。私ももうすぐ彼の年齢に追いつきます。なのに今でも世界中の人が彼の音楽を愛し聴いているのです。いったい彼はどういう「生かされ方」をしていたのでしょうか。「宇宙」が地球に贈り込んだプレゼントなんでしょうかね。仏教の世界では「生まれ変わり」という世界観がありますが、生まれ変わる人ってのは実は不完全だから生まれ変わるのです。私などは前世でお坊さんをやっていて(チベットらしい)、行をしていたらしいのですが、途中で投げ出して周囲にかなり迷惑をかけたそうです。その因縁というのが今でも残っていたのが、先ごろのインド旅行で殴られたり、金を取られたり、般若心経を1000巻唱えたりした結果、その時の大きな因縁を取ってきたのだとか。導師の談ですが。だから今はその続きとして行に励んでいるのかもしれません。と言うか行に「励まされている」のでしょう。

 生まれ変わる人は不完全と言うことは、「お釈迦様」などはもちろん生まれ変わりませんよね。でも、今では宇宙の体現者として私などの前に現れている(らしい)のです。こないだ滝に打たれている時に導師から「お釈迦様が目の前に来られていたの見えなかったか?」と言われましたが、よく考えると「お釈迦様」ですよ。昨日、滝の仲間から「お釈迦様ってすごいよね~」と言われましたが、天下のお釈迦様ですよ。私に対して何を言わんとしているのか分かりませんが、行を続けることで、いつか分かる日が来るのでしょうか。

 そんな意味ではモーツァルトにしても「生まれ変わらない人」なんでしょう。モーツァルトの魂は、例えばチャーリー・パーカーとかキース・ジャレットとかミシェル・ペトルチアーニなんかの元に届いていたかもしれませんが。「音楽神」なんかがいるとすれば、そういう人たちは間違いなく「音楽神」に出会っていて、自分とはかけ離れたところで創造させられていたのかも知れません。私の考え方ではモーツァルトは音楽の一つの秩序を作ったという意味で、音楽界の「お釈迦様」で、チャーリー・パーカーなどは「なんとか菩薩」あたりでしょうか。さしずめバッハとか宗教音楽家とか、部族音楽家などは「なんとか如来」でしょうね。お釈迦様が「仏陀」になった(悟りを開いた)年齢とモーツァルトが死んだ年齢が同じと言うのも奇妙な話です。

 なのでこれからはモーツァルトをお釈迦様の音楽として聴くことにします。私が昔からモーツァルトが好きなのと、今、お釈迦様にお会いしているのはこういう風につながるのです、、、と言うのは単なるこじ付けですが(笑)。

 まあ、滝行一周年に際して、また新たな気分で行に励みたいと思うのですが、モーツァルトやお釈迦様が後世に残した偉業には到底及びもつかないにしても、その欠片の魂分くらいは受け継いで、世の中に貢献していける人間になれたらな~、と純粋に願っています。明日からまた頑張りま~す。

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by katamich | 2005-08-28 23:22 | ■滝行 | Comments(0)