例えばウツの目的 2014.5.5



b0002156_8371489.jpg この4連休のうち3日間は家族サービスでお出かけ。今日は残り1日のオフで、もっぱら読書をして過ごしました。子どもたちは家で大暴れですが。ところで、年末に発売されて以来、じわじわと売れ始め、今では常時アマゾンランキング10位以内に入ってる一冊があります。一か月ほど前にちょっと読んでて面白かったので、今日、改めて再読しました。「嫌われる勇気」なる本で、サブタイトルに「自己啓発の源流「アドラー」の教え」とあります。アドラーとはフロイト、ユングに並ぶ心理学者のビッグネームですが、確かに日本では他の二人に比べてその思想なり理論がほとんど知られてないように思います。かくいう私もそうでしたが、「自己啓発の源流」として、かのディール・カーネギーにも影響を与えていたのだとか。

 読んでみると、私にとっては特に目新しい話でもない。当たり前のことを言ってる、、、と思いながらも、周囲を見渡してみたらどうか。決してそんなことはない。この本をきっかけに、今はにわかに「アドラー・ブーム」と言われてるようですが、新たなブームが来るってことは、今まさにこれが時代のニーズだと思われるわけです。アドラー、と言うか本書のテーマを一言でいうと、「原因から目的へ」となるでしょう。

 フロイトに代表される従来の心理学では、症状のほとんどを「原因」に求めます。例えば「ウツで仕事ができない」なる症状があるとすれば、その「原因」は幼少期に両親から虐待されたからだ、などと解釈します。一方、アドラーはこう考えます。「仕事をしたくない」なる「目的」を達成するために、ウツになっているのだ、と。

 つまり、「原因→結果」という時系列的、線的なパラダイムから、完結した「目的」への還元。この考え方は、日常でもいたるところに見られます。例えば「体調が悪いからタスクをこなせない」って人は少なくないと思いますが、その人は根本的に体調をよくすることはありません。なぜなら、「タスクをこなさない」なる目的を果たすために、自ら体調を悪くしてるのだから。では、なぜに「タスクをこなさない」なる目的ができるのか。本来であればタスクをこなした方が進むことはわかっています。アドラーはその理由となるものを、すべて「対人関係」に置きます。つまり、タスクをこなすと、いわゆる目標に近づいたとしても、それにともなって煩わし対人関係ができ、それを避けたいがために体調を自ら崩してるのだ、と。

 なるほど、ディール・カーネギーの主張とも親和性が高いですね。私たち人間は「社会」において、初めて「個人」になることができ、その「社会」の源はすべて「対人」です。対人なくして社会なし、ゆえに個人なし。なぜ仕事をしたくないのか。それは仕事が面白くない、退屈だから、、、ではなく「人」と接するのが嫌だから。身内のことを書くとまた怒られそうですが、私の兄はめちゃくちゃ勉強ができました。しかし、その反面、対人はめちゃくちゃ下手でした。なので、なるべく人と接しない仕事は何かと考えたとき、必然的に「研究職」を目指すことになったのですが、ある日、わかったと思います。研究者になるにも対人を避けて通ることはできない、と。当たり前の話ですが、生きていくにはお金が必要で、その「お金」の決定権を握っているのは自分ではなく、他の誰かです。自分で商売するにしても、他人からお金をもらう必要があり、何をするにしても「対人」は避けて通れない。では、それでも「対人」を避けるにはどうすればいいか。その「目的」を果たすために理由を自分から作ります。それが病気だったり怪我だったり浪人だったり留年だったり、その他諸々。そんな兄も今では「対人」を克服してハッピーになってますが、それはともかく。

 他にも私の知人で30歳になっても職歴なしで、実家暮らしで何やってるかわからないような男性がいます。その人がなぜ就職しなかったのか。本人が言うには「やりたい仕事がなかった」からだそうですが、実際には違うでしょう。就職すると、会社の上司やお客さんなど、時には理不尽と思えるような対人に直面せねばならない。そのことを就職活動中に見せつけられ、それを避けんがために起業家気取りで何年もパラサイトしてるだけ。もちろん食えてない。個人事業であれ、食えるにはやはり対人が立ちはだかりますから。

 考えてみたら、確かに世の中の問題や悩みのほとんどすべては「対人」に還元されます。単純に人が苦手、って話だけでなく、人から認められたい、愛されたい、などの欲求も様々な問題を引き起こし、その意味では社会で生活している以上、誰もが何がしかの問題に直面せずにはいられないのです。

 話を戻しますと、いわゆる「問題」には「原因」があると考えるのが従来の心理学(心理療法)。それに対して、アドラーは未来に向けた「目的」があるから、その問題(症状)を引き起こすのだと考えます。ウツは「社会に出たくない」なる目的を果たすために自ら引き起こしたもの。そう考えるのですが、ただ、それでは何の解決にならないと思われるかもしれません。だって、誰だってウツにはなりたくないし、社会に出て活躍したい、お金だって稼ぎたい、好きな人たちと楽しく交流したい。それが自然な願望でしょう。なので、ウツさえ治せば社会で活躍できるわけで、そのウツの原因に着目するのは当たり前じゃないか、と。で、例えばそのウツの原因が両親からの虐待にあったとしましょう。

 私がやってる「ビリーフチェンジセラピー」なども、いったんはそこに着目はします。しかし、結論を言うと、「嫌われる勇気」、及びアドラー心理学はビリーフチェンジセラピーそのものと言えます。私と同じくしてセラピーを学んだ、または学んでいる最中の人がいれば気を付けて欲しい(T氏の養成講座等で・・あえてイニシャル)。その養成講座もまた、誤解を恐れずいうと、根底にあるのはアドラー的な「目的論」です。しかし、中には「原因論」に勘違いして学んでる人だっているかもしれない。いや、たくさんいるでしょう。「従来の心理療法に毒された人」たちは特に。

 また一つ腹立たしいことを思い出しました。私は基本的にT氏の伝える心理療法を全面的に信頼し、セラピーにも取り入れ、そして効果を出しています。ある種、私の「哲学」にも合致することもあり。しかし中には、T氏の心理療法に興味を示し、きちんと受講したにも関わらず、「効果がない、プロになれない!」などと批判して、もめごとを起こそうとする人たちがいました。割と身近に。

 では、なぜT氏の下で学んで「プロとして活動している私」と、「プロになれない人」とに分かれてしまうのか。いろんな理由はあると思いますが、ある特定の人を例にすると、単なる理解不足。つまり、「問題には原因があり、それを取り除くことがセラピーである」とのパラダイムから抜け出ていないから。では、具体的にセラピーの実際を見て説明したいと思います。先ほどの「ウツだから社会に出られない」を例にすると、従来型の人は「ウツには原因があって、その原因を癒すこと」がセラピーの目的である、ととらえてしまいます。その手法として、例えば両親の虐待にあるとすれば、虐待の恐怖を抑えること、両親をよりも強い自分を確認すること、単純に恐怖に共感して安心感を与えること、、、などがあると思いますが、確かにそれで一時的には改善するでしょう。しかし、永続的かと言うと、決してそうはならない。だからこそ、何度も何度もカウンセリングに通う必要があるわけです。

 一方で私のやり方(T氏から学んだこと、および私の解釈)では、「両親の虐待」はまずは認めます。そして時には恐怖を増幅させるようなことさえします(もちろんアシスタントを付けて安心の場を確保した上で)。虐待の恐怖を一時的に和らげることはあっても、それが着地ではありません。では、何が着地か。いろんな文言、言い方はあると思いますが、ちょっと厳しくアプローチすると、こんなフレーズが生み出されます。

「あなたは、これからも両親の虐待に依存しながら生きていくんですか?」

 この通りではないですが、実際にこのような言い方はします。つまり、ウツの原因があるとすれば、それは虐待そのものではなく、「虐待に依存する自分の心」にあるのです。だって、「虐待された自分がいるから社会に出られない」と理由付けした方が、今の自分にとって「楽(安心・安全)」ですもんね。確かに虐待は心に深い傷を与えます。しかし、その虐待は「今」のことではなく、「過去」の情報、つまり幻想に過ぎません。もちろん誰もが「過去」から完全に自由になれるわけじゃない。私にだって忌まわしい過去はあります。

 しかし、重要なのは今、そしてこれからです。自分は本当はどうなりたいのか。過去の情報に依存するんじゃなく、「これから」に向けてスタートを切る、決断する「勇気」が必要なのです。その「勇気」は本人以外にはありません。「勇気を出させてください」と言われても、それは不可能。最終的には自分でどうにかするしかないんです。
 
 私のセラピーを見たことがある人は感じたかもしれません。ときに「ハラハラ、ドキドキする」と言われることもあり。なぜなら、そのセラピーの場にはとてつもない「緊張」が走ることがあるから。その「緊張」はどっから来るのか。それは「葛藤」から来ます。今まで通り過去に依存して生きるか、それとも過去と決別する「勇気」を奮い立たせるか、その葛藤が緊張を産むのです。しかし、その緊張(葛藤)をきちんと立ち向かい、「これから」の自分にとって前向きな決断ができれば、その瞬間から人生が変わり、元に戻ることはありません。私はそのお手伝いをするだけ。

 もちろん誰にでもその緊張を強いるわけじゃなくて、人によっては傾聴100%で済ませることだってあります。葛藤と立ち向かうには、準備ができないと判断した場合など。そのときは、いわゆる「原因論」的なアプローチで傾聴に徹底し、心に安心・安全(癒し)を与えることを目的とします。しかし、私の着地はそこではありません。最終的には今の自分と「原因」とを切り離し、「問題」の目的をチェンジさせること。

 例えば「ウツだから社会に出られない=社会に出ないためにウツを生み出している」という目的を、「ウツと社会に出ることは関係ない=社会に出るためにウツと決別する」という「決断」へと着地とするのです。そのため必要なのが、まさに「勇気」。

 この記事は「嫌われる勇気」を読んだ上での私自身の考え方ですので、厳密なレビューでもなければ、アドラー心理学を紹介するものでもありません。もしかしたら、誤解してる部分もあるかもしれません。それでも、一つ言えることは、私もまた「原因論」ではなく「目的論」を常にベースにしていること。「やる気が起こらない」ことを行動しない理由にして、「なんで、やる気が起こらないでしょうね~」などと言う人もいますが、それは単に行動したくないって目的を達成するために、やる気を抑制してるだけのこと。厳しい方ですが、私の基本的スタンスは常にここです。

 「行動しない」なる目的を、「行動するために・・」とチェンジすることがまさに私のセラピーでありコーチング。もちろん人それぞれに準備段階はあります。それでも、着地はあくまで「目的」の変換にある。潜在意識レベルでの深い「目的」が変われば、そのまま人生が変わります。そんな活動をこれからも展開していこうと思います。

 それにしても、「嫌われる勇気」ってタイトルは秀逸ですね。すべては対人関係と言ったけど、確かに「嫌われないこと」を優先して自分を苦しめてる人って多いですもんね。「いい人」と呼ばれる人たちがまさにそう。その意味では、私自身はすでに「嫌われること」に対してどうってことないですので、だからこんなに楽なんでしょうね。自分の一貫性を主張するために嫌われるようなことをもあえて言います、書きます。それで嫌って離れていくなら、それはそれで仕方ない。誰からも好かれるように振る舞う方が苦しいですもん。そんなとこで面白い本でした。必読です。ありがとうございました。

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Commented by purin at 2014-05-06 11:54 x
>「虐待に依存する自分の心」にあるのです。

言い得て妙だと思います!!
Commented by katamich at 2014-05-07 11:02
■purinさん!
そうですね。
by katamich | 2014-05-05 23:39 | ■人生哲学 | Comments(2)