まさに儀式 2013.4.18



 今日は資料の印刷など、週末のセミナーの準備。20日の「マネービリーフ」は残席1名。21日の「婚活セッション」はオブザーバーのみOKです。昨年の5月に「再決断療法」をベースとしたビリーフチェンジセラピーに出会ってから、思い通りの結果に結び付くのが早くなってきました。もちろん確度も上がっています。それに伴って個人セッションのご依頼を頂くようになっているのですが、今の段階ではグループセッションしかしていませんので、個人を希望される方には信頼できるセラピストの方を紹介させて頂くようにしています。思うに、私のセミナーやセッションは「儀式」の意味合いが強いように思います。

b0002156_11523022.jpg 「儀式」と言うと、前近代社会の宗教儀式などを思い浮かべますが、もちろん今でも普通に行われています。成人式もそうですが、今では逆に騒いだり同窓会としての場に成り下がってる印象があるものの、本来は「大人」であることを確認するための立派な儀式でした。成人式によって、「潜在意識」の情報そのものが「大人」へと刷り込みされるわけですね。本来は。それ以外の「儀式」と言えば、結婚式やお葬式もそうです。赤ちゃんのお宮参りもそう。もちろんお宮参りしようがしまいが、赤ちゃん自身が変わるわけじゃないでしょう。神様に守って頂くなどの意味はありますが、実際は「神様」が守るわけじゃないですから。うちの母親などは、お宮参りだけは口うるさく言います。神社であろうが寺であろうが教会であろうが、どこでもいいからやっておいてくれと。ここでのお宮参りの意味は、赤ちゃんの健康云々よりも、親やお父母の「安心」に結び付く面が大きいのでしょう。お宮参りをしなかったら不安。その「不安」は子育てにも影響します。お宮参りをすることで、子どもに対する「安心」が植え付けられ、リラックスした態度で子育てすることができます。それはそのまま子どもの「安心・安全」へと反映されるもの。

 こう言ってはなんですが、物理的にはしようがしまいが関係ないと思っています。お宮参りやそれに相当する概念がない社会であれば、そもそも何の影響もないわけですから。しかし、私個人はお宮参りを初めとする「神事」や「儀式」は非常に大切に考えています。「神様」は自分の中にもいるし、世界に遍在しているものでもある。それこそアニミズム的に万物に宿っているという信念もあります。イチローやマツイが、バットやグローブをめちゃくちゃ大切に扱っているのを見て、地元の大リーガーたちはビックリしたと報道されていました。向うの人たちにとって、バットは単なる道具であって人間に支配されるもの。だけど、多くの日本人は違います。バットにも神が宿っているのです。バットは人間と同等か、それ以上のもの。ホームランを打つのは人間だけでなく、バットに打たせてもらってると考える。自然にそう考える。新しいグローブを馴染ませるのに、日本人選手は手で丹念にもみほぐすなどするけど、向うの選手たちは電子レンジで調整するらしい。その発想は私たちにはないです。

 そう言えば、アメリカでバーベキューをしたとき、日本人ならば火をおこすのに団扇でパタパタ根気よくしますが、向うの人たちはドライヤーで一気に起こしていました。頭いい、、、と思ったものの、いまだにそれが馴染まないのは、やはり日本人だからなのか。「火」もまた神であって、それは機械で呼び起こすものではなく、私たちは団扇をあおぐ「儀式」によって来て頂くなる発想。日本人に「宗教」はない、と言う人もいますが、実際はまったく逆。そもそも「ある」から、外から持ってくる必要がないのです。逆に来るものも拒みません。

 仏教は外国の宗教でしたが、当時の人たちは仏教を国家の管理のために導入しました。聖徳太子の憲法しかり、律令制度しかり。日本にはそもそも「神道」や「アニミズム的土着信仰」があったはず。だけど、仏教もそれが管理体制のためとはいえ、柔軟に導入する下地があるわけなんです。もし仏教よりもキリスト教が早かったら、日本はキリスト教国になってたかもしれません。早いか遅いかの違いでしょう。もっとも、仏教の場合は国が積極的に導入したのに対し、キリスト教の場合は当時は蛮族が無理やり押し付けた的なイメージがあるので、それはさすがに排除するでしょう。だけど、あれから500年以上たつ今、キリスト教だって日本にしっかり馴染んでいる。クリスマスなんてそうですもん。

 つまり、日本は不思議なほど、対立のない社会なのです。外国であれば、キリスト教対イスラム教、イスラム教対ヒンズー教など、異なる宗教間の争いは言うに及ばず、キリスト教内でもカトリック対プロテスタント、イスラム教ではスンニー派対シーア派などの対立があります。だけど、日本にはいわゆる宗教的な対立はほとんどありません。かつては一向宗による武力蜂起などもありましたが、あれは信仰信条に対する対立ではなく、政治や利害のための対立。日蓮宗のような排他的な宗教もありますが、それでも現状は割と仲良くやってる方じゃないでしょうか。ま、対立を好むと言えば、サヨクの人たちくらい。「君が代」だってとりあえず国歌なんだから歌えばいいじゃん。特に公務員なら。私も「君が代」それ自体はメロディがかっこ悪くて好きではありません。だけど、その場にいれば、歌うふりくらいはしますけど、サヨクの人たちは、これ見よがしに歌わない。争いが好きだねえ。ま、いいです。その話は。

 話を戻しますが、日本人ってのは、いろんな宗教を柔軟に取り込む歴史を持っていますが、それは日本人に確たる信仰がないからではんなく、むしろ逆。「宗教」なんて制度に拠らずとも、すでにあるからですよ。例えば万物に神が宿る的な信仰が。バットを大切にするのは、なにも経典で学んだわけじゃなく、家庭や地域で普通に学ぶもの。当たり前のこと。その「当たり前」が自己のアイデンティティに対する自信となり、外から何が来ようが動じないのです。仏教、あ、制度作るのにいいよね。キリスト教、まあ、いいじゃない。イスラム教、土地柄的には馴染まないけど、海外ではモスクで休憩したくなるよね、みたいな。

 「儀式」の話からそれてしまいましたが、お宮参りなんかは、まさに自らの「神性」を思い出すための儀式。それによって「大丈夫だ」と確認し、子どもの安全を確信できるわけです。同じように、私のセミナーやセッションも、一種の「儀式」ととらえています。それもまさに自らの「神性」を呼び起こすための。もちろん、実際のセミナーでは儀式っぽいワークはほとんどなく、どちらかと言うと左脳的。セミナーもセッションも基本的に「理詰め」です。だけど、私の中では、そのような「理詰め」も含めたうえで、参加者さんの「神性」とつながり、大いなる意思によって動かされている、まさに「儀式」であるとのアイデンティティを持っています。「儀式」を通して、まずは楽になること。お宮参りで安心するように、セミナーという「儀式」を通して、どこか「大丈夫」だと楽になる。願望は確かにストレス。それは変化だから。だけど、そんなストレスに対置しても、自分を「楽」にできれば、自然とその願望も実現する。

 その意味ではツアーもそうです。7月7日に「出雲大社」に行くのも儀式。ちなみに、出雲は10月が「神在月(神無月)」でにぎわうのですが、めぼしい宿はすでに満室。休日などは一年前から押さえられてて、グループで予約するのはほぼ不可能。だけど、私は7月に行きます。なぜかと言うと、滝の導師が「菅生の滝」の神様が、「7月に出雲参拝しろ」と言ったそうで、私もそれにならってるだけ。特に意味はありません。グループのリーダーである私の導師がそうだったから。そこは密教です。神様が言ったからであって理屈などない。だけど、7月7日の七夕に「出雲大社」ってのは、狙ったわけじゃないけど何かありそうじゃないですか。まさに儀式。それから、6月9日にQ州ツアーで「秋元神社」に行くのも意味ありげです。私にとって「6月9日」は「扉を開く日」でもあり、また何か大きなインスピレーションを頂けそうです。まさに儀式。

 確かにいつ行っても同じとも言えるでしょう。理屈の上では。だけど、それが七夕であろうが69であろうが、私は大いなる意思の導きによって、行く日に「意味」があると思っています。私はそれだけ「宇宙」を信じていますので。てなわけでして、明日から大阪です。今回は述べ50名くらいの人たちとお会いすることになります。何が起こるか楽しみです。それではまた。ありがとうございました。

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by katamich | 2013-04-18 23:39 | ■精神世界