宇宙となかよし

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Qと申します。読んで頂いた皆さんが笑顔になり、ますますパワーアップできるようなブログを目指しています。

悟りっぱなしになれるか 2013.4.5



 今日は面白い打診を頂きました。4月20日・21日は大阪でセミナー・セッションを開催するのですが、その前日の19日、国内におけるNLP第一人者である北岡泰典氏のイブニングワークがあることを知り、ちょうどよかったので申込みました。19日は昼過ぎのジェットスターで関空に飛び、夜は暇してたのでナイスタイミング。北岡氏のセミナーは、2010年の8月の合宿ワークの参加して以来なので、とても楽しみです。そしてこんなタイミングって、さらにいい流れを生み出すもんなのですね。その合宿ワークでUstream中継した対談の続きをやろうとのこと。そのようなオファーは大いに嬉しいです。

 詳細は「大阪 4/19 イブニング ワーク、4/20「深遠なる意識の旅」 (大阪第二回) 半日ワーク開催決定」の通りで、私は19日のみの参加となりますが、その中で一時間ばかり、北岡氏とライブで対談をさせて頂きます。それに先立って、私が今回、タイミングがよかったにせよ、セミナーの情報を知ってすぐに申し込んだのには明確な理由もあります。それは以前、北岡氏のメルマガで興味深い記述を読んだから。その部分を引用させて頂きます。


中国の禅宗には「十牛図」 (Wikipedia に解説があります) というものがあり、普通の日常生活から悟りを得る段階までのプロセスが示されていますが、私が過去 30 年間一貫して興味があったのは、悟りの段階である 8 段階目の「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」を経た後の、原初の自然の美しさがあらわれてくる、9 段階目の「返本還源(へんぽんげんげん)」、および、市井に戻って普通の日常生活を再び送り始める、10 段階目の「入廛垂手(にってんすいしゅ)」でした。

つまり、人間は、瞑想、座禅、禅公案、断食、滝打ち、荒行、徹底的な弁証法的な論理的・哲学的議論、事故等による偶発的なクンダリーニの上昇、臨死体験、幽体離脱体験、超常現象、化学的に誘発された意識状態、その他の方法で「一時的なミニ悟り」を達成することは可能と私は考えていますが、私の経験上、これらのどのような方法によっても、その後に、もう一度普通の社会生活に戻ったときに、その日常生活に埋没してしまって、どうしても、継続的に 1 日 86,400 秒間その悟りが持続する「永続的解脱」を達成することが難しい、ということが最大の問題になっています。

そうでないと、60 年代、70 年代以来、西洋では、ヒッピー文化を継承している形で、LSD 等で悟りを経験してきている、百万、千万、ひょっとしたら億単位の数の若者が、普通の世界に戻ってきて、即、「聖人」、「解脱者」として生きていて、全世界が、すでにこの時点で「蓮の花咲く極楽」になっているはずですが、実際には、社会はそうなってきていません。(ちなみに、そうは言っても、ヒッピーの人々がそのような化学的な変性意識状態下で見たビジョンがもとになって、現代のコンピュータ社会、インターネット社会が生まれていることは、非常に興味深いことです。つまるところ、現在のコンピュータ文化の「支配者」のビル ゲイツもスティーブ ジョブスも、元はといえば、60 年代は、「ドラッグでラリっていた」ヒッピーの若者だったわけですから。そういう意味では、ヒッピーたちのビジョンが「ステルス」的に現代社会を作り出してきているとは言えるかと思います。)

この、「あの世」でビジョンとしてみたミニ悟りを「現実世界」で継続できない理由は、やはり、「この世」で体験する五感の知覚的刺激がアンカーとなってしまって、ビジョンを見る以前の古い行動思考パターンをトリガーし続けてしまうからだと思われます。

私自身、ミニ悟りを開いた 1988 以来、一度「レモンの味」を味わった後は、そのレモンの味を、いついかなる場所でも、自由自在に、NLP のアンカーリングによって再生することができるので、五感のどの刺激を与えられても、即時的に「あの世」を想起し続けることができる、そして、この恒常的な「トランスのフラッシュバック」 (PTSD の逆バージョンとして定義することも可能です) こそが「永続的解脱」に繋がるという立場を貫いてきています。




 一言で言うと、「何らかの経験により、せっかく悟ったのに、シャバに帰ると元に戻ってしまう」ということへの問題提起となります。言わんとしていることはよくわかります。実際、いわゆる催眠的なセミナーなどに参加して、そのときやその直後は人が変わったようにハイテンションなのが、一晩寝て、そして会社にでも行こうものなら、すぐに忘れてしまい、結局、元の木阿弥ってことがよくあります。こんなとき、そのハイテンションの状態を思い出して恥ずかしく思うものか、またはハイテンションの状態こそが本来の自分であるとして、何度も同じセミナーにリピートしてしまうものか。

b0002156_1610509.jpg もちろんそのような体験は一時的な催眠状態に過ぎず、「悟り」とは無関係。では、LSDなどの覚醒ドラッグによって何がしかの超越的体験をした人はどうなのか。私自身はLSDの体験はないですが、インドのゴア辺りに行くと、今でもヒッピーたちがドラッグパーティをやっていると聞きます。私も旅先でLSDをやってる日本人に会ったのですが、摂取した瞬間にもの凄い恐怖(バッドトリップ)に陥り、糞尿を垂れ流しながら、「日本に帰りたい~」と叫んでいたそうです。ただし、その彼はネパールで会ったときは、大麻にハマりこんでいましたが。それはともかく、そもそもLSDはいわゆる宗教体験(超越的体験)を再現するための道具として研究されていました。北岡氏の言うように、ジョブズをはじめ、ヒッピー文化に生きた人たちは間違いなくLSDを通過しているはず。

 しかし、多くの経験者は普通の社会生活に戻ると日常に埋没してしまい、いわゆる「永続的解脱」のようにならない、と言うのです。ただ、ここにはいくつか問題があって、まず、「悟り」とは何かについての理解。LSDでラリッた状態が「悟り」と言うならゴアにでも行けばいい。だけど、そんな単純なものでもないでしょう。単に幻覚を見ただけの可能性も高いし。だとしたら、多くの宗教者が実践してきたような、瞑想や座禅、修行の類に打ち込めばいいのか。確かにそうだとしても、何時間瞑想すれば悟りですよ、みたいな単純なものでないことは明白。つまり、「悟り」を語る以上、その方法論ばかりを議論するのではなく、まずは体験者(覚醒者)による言語的理解が必要となるのでしょう。

 その意味では、私は私なりの「悟り」の定義を持っています。それは「一切の内的体験がなくなった状態」のこと。私たちは日常で、常に「内」と「外」とをものすごい勢いで切り替えながら生きています。例えば今、このブログを読んでいるでしょうが、「文字を見る」だけなら、それは「外」の体験となりますが、そこで「理解する」が入ると、それは「内」の体験となります。今、外では雨が降っているようですが、単純に「(雨の)音を聞く」だけなら「外」の体験ですが、それが「雨音」と解釈した時点で「内」の体験となります。「外=感じる」、「内=考える」と言い換えていいかもしれません。そして「感じる」が行われるのは常に「今、ここ」でしかなく、逆に「考える」は常に「いつ、どこ」でしかありません。そして私たちは「今、ここ」と「いつ、どこ」を常に切り替えながら日常を生きているもの。そしてそれこそが脳の発達した「人間」の特徴なのです。

 そして多くの人は、年齢とともに「内」の体験、つまり「考える」に支配されるようになり、それが人生の質を決めてしまっています。例えばずっと不満ばかり言ってるおばあちゃんっていますよね。おじいちゃんでもいいですが。そもそも「不満」ってのは一つの解釈に過ぎず、言うなれば、解釈が肥大化すれば、それは「不満」へと到達します。誰それが私の前を通り過ぎた。あいさつもしない。それは育ちが悪いからだ、私のことを嫌っているからだ、、、などなど、いろんな解釈が出てきます。実際にはスマホでブログ読んでて気づかなかっただけなのかもしれないのに、余計な解釈をして、人生を限定してしまっています。

 では、「悟り」とは何なのか。そして私たちは悟ることでどんないいことがあるものか。それも明確に定義できます。それは「肥大化する解釈をリセットすること」です。人は産まれたし瞬間は完全に「外」の体験に生きています。ただ、興奮があるだけの。そして脳の発達につれて、解釈する力が芽生え、さらに様々な環境と学習によって解釈の幅も広がります。そしてその「解釈」こそが、その人の「人生」となります。しかしもし、その「解釈」がよりより「人生」を生きるにおいて不都合であればどうなるか。「解釈」は放っておけば、どんどん肥大化する傾向にあり、それにともなって「人生」の方向性も強化されるようになります。なので、極端な話、人が前を通り過ぎただけで、「あの人は私を無視した、私のことを嫌ってるんだ」などとおかしな解釈をして、自らを苦しめるのです。体験は内へ内へと向かっていくもの。

 そこでもし、何らかのきっかけで「悟り」、つまり「一切の内的体験がなくなった状態」が訪れ、しかもそれを「意識」することができればどうなるか。「人が前を通り過ぎた」は、「人が前を通り過ぎた」だけのもの、つまり、あるがままの体験でしかなくなるのです。その瞬間、それまで肥大化した「解釈(認識)」が一気に「ゼロ」になり、それ以上、自らの人生を苦しめることはなくなります。さらに言えば、自分にとって都合のよい「解釈」をすることさえも可能になる。

 つまり、「悟り」は一度でいいのです。永続的に悟っている必要はないし、そもそもそんな人ばかりになっても困ります。「天才バカボン」のパパは間違いなく仏陀であり、すべてを「これでいいのだ」と受け入れ、それ以上の解釈はありません。あれこそが「永続的解脱」にある典型例なんですが、国民が総バカボンパパになったら困るでしょ。それはそれでいいという意見もありますが、人間の、そして脳の特異性を逸脱してることには変わりません。

 私が思う「悟り」の効用とは、いつでも「ゼロ」に戻れること。一切の解釈がなくなり、ただ、あるがままの体験に戻れること。そのためには、まずは一時的な「体験」が必要となり、問題はその体験をどうするか、ということ。しかし、それ以上は考える必要はありません。一度でも「悟り」を体験すれば、シャバに戻ろうがその体験自体は消えることはありません。一度、自転車の乗り方をマスターしてしまえば、20年乗らなくても、ちょっと自転車に触るだけで乗り方を思い出すもの。実際、以前、10年ぶりに乗ったって人がいましたが、問題ありませんでした。

 と言うわけで、私の考えは「悟ってしまえばもう大丈夫」であり、元に戻るような「悟り」は本当の意味での「悟り」ではないのです。私はLSDはやったことはありませんが、それでも様々な話を聞く限りにおいて、LSDで体験した世界は、認識が極端に拡張しただけの世界であって、決して「悟り」と呼べるものではないと考えています。つまり、「永続的解脱」という言葉自体が、「悟り」とは無関係な概念であり、一度でも悟ってしまえば、それを「永続」させる努力や工夫など不必要なのです。

 と言うことで、19日は北岡氏と対談ライブとなるのですが、文章上では私とは意見が異なるかもしれません。だからこそ面白いと思いますので、お近くの方はよかったら生対談ライブにお越しくださいませ。それではまた。ありがとうございました。

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by katamich | 2013-04-05 23:39 | ■精神世界
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